死ぬはずだった夜
夕刻、執務室にケインを呼び出した。書類仕事を終えたばかりの俺の前で、ケインはいつも通り三歩の距離を保って立っている。数日前に自室を襲われかけていたので、宮廷の空気はどこか張り詰めたままだった。
「今夜は俺の寝室の前にいろ」
ペンを置きながら、俺はそう命じた。ケインの表情が、一瞬だけ固まる。
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「聞こえましたが、意味がわかりません」
俺は淡々と続けた。「今夜は寝室の前で控えていろ。朝までだ」
ケインの顔に、みるみる赤みが差していくのがわかった。
「陛下。まさかとは思いますが、それは――」
「それは、何だ」
「……いえ、何でもありません」
「言いかけたなら最後まで言え」
「……夜伽の代わりに、番犬として扱われている、ということでしょうか」
思わぬ言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失った。明らかに何かを誤解している。だが俺には、それを訂正してやる義理はなかった。本当の理由――原作の記憶にある、今夜起きるはずの襲撃事件――を口にするわけにはいかない。誤解されたままの方が、まだ都合がいい。
「好きに思え」
「……本当に、否定はなさらないのですね」
「否定する義理もない」
「陛下」ケインが声を低くした。「私を、いったい何だと思っているのですか」
「皇帝の剣だ。それ以上でも以下でもない」
「その言い方は、いつも都合よく聞こえます」
「言っておくが、妙な期待はするな」
「し、しておりません」
声が上擦っていた。俺はそれを見なかったことにして、書類に視線を戻した。ケインは何か言いたげだったが、結局それ以上は続けず、静かに退室していった。
*
夜半、寝室の前に人の気配が立った。ケインだった。扉の隙間から覗くと、腕を組み、壁に背をつけ、明らかに緊張した様子でこちらを窺っているのが見えた。
「入ってこなくていい」
俺が扉越しに言うと、向こうで小さく息を呑む音がした。
「……承知しております」
その声には、安堵と、微かな落胆のようなものが混じっていた気がした。気のせいだろうと、俺は自分に言い聞かせる。
時間が過ぎるにつれ、廊下の空気が張り詰めていくのがわかった。俺は寝室の中で、剣を抜けるように傍らに置いたまま、息を潜めていた。原作の記憶が正しければ、今夜、何者かがこの近辺に忍び込む。
ただし、原作でこの夜に狙われたのが誰だったのか、俺は正確には知らない。原作の騎士団長は、とうにこの世を去っている。あの物語の中で今夜襲われたのは、恐らく別の誰か――皇帝の傍に置かれた、名もない部下だったはずだ。
だが今、この帝国で"皇帝の最も近く"という立場にいるのは、他でもないケインだった。標的が誰であれ、今のこの状況なら、一番危ないのはケインだと俺は思っていた。
ならば、囮になればいい。ケインに与えた部屋ではなく、俺の目の届く場所に置いておけば、少なくともこの場で襲われることはない。それが俺の立てた、単純な計算だった。
扉の外の足音が、時折小さく動くのが聞こえた。落ち着かない様子で、行ったり来たりしているらしい。俺はその気配だけを頼りに、まだ何も起きていないことを確認し続けていた。
だが、俺の予測には、致命的な見落としがあった。
深夜、遠くで小さな物音がした。俺の寝室ではない。廊下の奥――ケインの元の部屋の方角だった。
「――っ」
扉の外で、ケインが弾かれたように動く気配がした。俺は剣を掴み、扉を開けた。
「何が起きた」
「あちらです、陛下。私の元の部屋の方角から、物音が」
俺たちは同時に駆け出した。松明の灯りも待たず、暗い廊下を抜けていく。かつてケインが使っていた部屋の前に着くと、扉が半分開き、中で争うような気配があった。踏み込むと、黒装束の男が窓から逃げていくところだった。追う間もなく、闇に紛れて姿を消す。
部屋の中は荒らされ、寝台には深く刃物の傷が残されていた。もしケインが今夜もあの部屋にいたなら、寝ている間に命を奪われていただろう。
「……誰かが、ここを狙っていた」
ケインが低く呟いた。表情から血の気が引いている。
駆けつけた衛兵が、周辺を確認して回る。侵入経路、逃走経路。どれも、あらかじめ調べ上げていたとしか思えない手際だった。
俺は黙って刃物の傷を見つめた。原作にあった通りの襲撃だった。ただし、標的にされた部屋には、今夜は誰もいなかった。
「陛下」
ケインが振り返る。声には、これまでにない鋭さがあった。
「なぜ、今夜に限って私を寝室の前に呼んだのですか」
「気まぐれだ」
「本気で仰っていますか」
俺は答えなかった。答えられなかった。
ケインはしばらく俺を見つめていたが、やがて視線を部屋の傷跡に戻した。何かを考え込んでいる様子だった。
「……陛下は、知っていたのですか。今夜、ここが襲われることを」
「知るわけがない」
即座に否定した。だが、その否定があまりにも早すぎたことに、俺自身が気づいていた。ケインも、それに気づいたはずだった。
「そうですか」
短い返事だった。それ以上の追及はなかった。だが、その目には、これまでとは違う何かが浮かんでいた。疑念とも、確信とも取れる、微かな光だった。
「今夜は、俺の部屋の隣で休め」
俺はそれだけ言って、踵を返した。ケインは何も言わず、ただ黙って、三歩の距離を保ったまま付いてきた。その沈黙は、以前の警戒とは、明らかに違う質を帯びていた。
寝室の扉を閉める間際、背後でケインが小さく呟くのが聞こえた。
「……本当に、ただの気まぐれだったのでしょうか」
俺はそれに答えず、扉を閉めた。
一人になった寝室で、俺は剣を鞘に収め、寝台に腰を下ろした。今夜は乗り切った。だが、原作の記憶が及ばない出来事は、これから先も起き続けるはずだ。ケインを守るためには、一つひとつの危機を、こうして先回りし続けるしかない。
だが心の中では、ひとつだけ確かなことがあった。この男を守るためなら、あと何度でも、こうして嘘をつき続ける必要がある。理解されなくてもいい。ただ、生きていてくれればそれでいい――その一点だけが、この夜、俺の中で揺るぎない確信に変わっていた。




