暴君が変わった日
朝の謁見は、いつも通りの空気で始まった。並んだ文官たちは目を伏せ、誰も俺と目を合わせようとしない。処刑予定者の一覧が、いつものように机の上に積まれている。今朝までの俺なら、迷わずそこに赤い印を押していたはずだった。
「今日は誰も殺すな」
俺の声が、玉座の間に響いた。並んだ文官たちが、一斉に顔を上げる。誰もが、聞き間違いだと思ったはずだ。
「……陛下?」
「二度は言わない」
沈黙が落ちた。誰も動かない。俺の後ろに控えていたケインだけが、わずかに眉を寄せたのがわかった。
俺はそのまま、処刑予定者の一覧を手に取り、机の端へ押しやった。
「これは全部、保留にする」
文官長が震える声で尋ねる。「では、代わりにどのような処分を」
「後で決める」
それだけ言って、俺は次の案件へと移った。玉座の間に、微かなざわめきが広がっていくのを、俺は背中で感じていた。
「先日摘発された伯爵の件だが」
「はい。横領の証拠は揃っております」
「財産を全部没収しろ」
「全額でございますか」
「聞こえなかったか」
文官が頷き、慌てて記録を取る。俺の国から盗んだ金だ。返させるのは当然だった。慈悲でも何でもない、ただの帳尻合わせに過ぎない。
次に呼ばれたのは、地方の徴税官だった。青ざめた顔で、すでに何かを察している様子だった。
「規定より多く民から取り立てていたそうだな」
「そ、それは……村の事情がございまして」
「俺の国から勝手に盗んだ奴は許さん」
徴税官の顔が、さらに青ざめる。
「差額は全額、村に返させろ。次はない」
「は、はい……!」
その場に控えていた別の文官が、小さくメモを取っているのが見えた。今日中に、宮廷中にこの遣り取りが伝わるだろう。それでいい。恐怖は、こういう時にこそ役に立つ。
次に呼ばれたのは、帝都の福祉を担当する官吏だった。俯きがちに、萎縮した様子で報告を始める。
「孤児院の予算が足りていないと聞いた」
「はい、申請は出しておりますが、なかなか……」
「飢えた子どもを放置して犯罪者を増やすな。面倒だ」
官吏が目を丸くする。
「予算は倍にしろ。理由はいらない」
「か、畏まりました」
最後に、俺は騎士団の担当官を呼んだ。かつて騎士団長自身が率いていた組織の、今の管理を任されている男だった。
「下級兵士の俸給が、何年も据え置かれていると聞いた」
「は、はい。予算の都合で……」
「戦って死ぬかもしれない連中に、飯も満足に食わせないつもりか」
「い、いえ、そのような」
「俸給を上げろ。装備も新調しろ。俺の兵を安く使い潰すな」
担当官は何度も頷きながら、震える手で書き留めていた。
官吏は深々と頭を下げ、逃げるように退室していった。その背中を見送りながら、玉座の間に残った空気は、朝とはまるで違うものに変わっていた。誰も、この皇帝が何を考えているのか、もう読めなくなっている。
*
その日のうちに、噂は宮廷中を駆け巡った。
「聞いたか、陛下が今日、誰も処刑しなかったらしい」
「まさか。何かの罠じゃないのか」
「いや、財産没収も税の返還も、全部本当らしい。孤児院の予算まで倍にしたとか」
「暴君が、そんなことを?」
廊下ですれ違う侍女たちが、声を潜めて囁き合う。俺がその脇を通り過ぎると、皆が慌てて口を噤み、深く頭を下げた。噂は止まらない。むしろ、それでいいと俺は思う。誰もが疑心暗鬼になり、真意を測りかねている間は、誰もこちらの動きを読めない。
*
謁見の間を出た後も、俺の後ろに続くケインの足音は、いつもより歩幅が乱れていた。三歩の距離を保ったまま、明らかに何かを考え込んでいる気配がする。
「言いたいことがあるなら言え」
俺が振り返らずに言うと、少し間があって、低い声が返ってきた。
「……陛下は、何をなさりたいのですか」
「別に」
「財産没収も、税の返還も、孤児院の予算増加も。言葉だけを聞けば、いつも通り理不尽な暴君のままです。ですが、結果はどれも――」
「善政に見えるとでも言いたいのか」
ケインは答えなかった。だがその沈黙は、肯定と同じだった。
「陛下は先日まで、民の暮らしに興味などないと仰っていたはずです。それなのに、なぜ急に」
「興味はない」
俺は足を止めず、廊下を歩き続けた。慈悲深い皇帝になったつもりはない。ただ、この国を守るために必要なことを、必要な言い方でやっているだけだ。反乱の芽は、いつだって民の不満から育つ。それを摘むことは、優しさではなく、俺自身のための計算に過ぎない。
「俺は変わっていない」
短く、それだけ言った。
「では、なぜ処刑を止めたのです。なぜ、財産を返させるのです。なぜ――」
「詮索するな」
俺は語気を強めた。それ以上の追及を、これ以上許すつもりはなかった。理由を語れば、この計画そのものが崩れてしまう。
背後で、ケインが小さく息を吐く気配がした。信じているのか、疑っているのか、その息だけでは判断できなかった。
「……それでも、これだけは言わせてください」
ケインの声に、微かな重みが加わった。俺は足を止めないまま、耳だけを傾ける。
「今日の陛下は、少しだけ、私の知っている陛下と違って見えました」
「気のせいだ」
「そうかもしれません。ですが――」
その先は、続かなかった。俺も、あえて先を促さなかった。以前のような明確な軽蔑は、その声にはもうなかった。
廊下の窓から差し込む光が、二人分の影を長く伸ばしていた。並んで歩いているわけではない。それでも、三歩という距離だけが、確かに二人を繋いでいた。




