皇帝の剣
地下牢の石壁は、いつも変わらず冷たい。処刑を止めてから三日が経っていた。その間、宮廷は俺の真意を巡る憶測で静かに沸き立っていたはずだ。誰も表立って口にはしないが、廊下ですれ違う貴族たちの視線には、隠しきれない疑念が滲んでいた。
俺は衛兵を下がらせ、独房の前に立った。鉄格子の向こうで、男は壁にもたれ、目を閉じている。眠っているわけではないことは、その呼吸の浅さでわかった。三日分の粗末な食事と、湿った空気の中でも、姿勢だけは崩れていない。
「起きているんだろう」
声をかけると、青灰色の瞳がゆっくりと開いた。数日分の疲労が滲んでいたが、姿勢は変わらず騎士のそれだった。俺はその姿勢の崩れなさに、少しだけ苛立ちを覚える。どれだけ状況が悪くても、この男は折れない。
「陛下。わざわざこんな場所まで、何のご用件でしょうか」
「お前の処遇を決めた」
俺は鉄格子越しに、あらかじめ用意させておいた書状を見せた。衛兵が鍵を開け、扉を引く。男は立ち上がったが、その足取りには明らかな不信が滲んでいた。当然だろう。この男の目には、俺はいまだに理由もなく処刑を撤回した暴君にしか映っていないはずだ。
「騎士団長の地位は返さない」
俺は先に釘を刺した。表情が微かに強張るのがわかった。
地位を残したままでは、いずれ反乱の兆しが見えた時、それを口実にこの男を糾弾する者が現れるだろう。騎士団長という肩書きには、味方も生むが、それ以上に敵を呼び寄せる力がある。今この国で、この男に肩書きを与えることは、標的の場所を教えるようなものだった。
「領地も、自由も返さない。お前には新しい役職を与える」
「新しい役職、ですか」
「皇帝直属の特殊職だ。俺以外の命令は、誰のものも受け付けない」
俺は一枚の紋章を差し出した。剣を模した銀の意匠。この帝国の誰も見たことのない、新たに作らせた肩書きの証だった。
「名は『皇帝の剣』とする」
前例のない役職だった。宮廷法にも、貴族院の記録にも存在しない、俺が独断で作り上げた肩書き。誰かに前例を問われれば、俺はただ「俺が決めた」とだけ答えるつもりだった。それで押し通せる立場に、俺はいる。
男の目に、はっきりとした苛立ちが浮かんだ。
「……つまり、私を犬にするつもりですか」
「そう思いたければ思え」
俺は淡々と返した。感情を乗せる必要はない。この男に理解されようとは思っていない。理解されれば、この計画そのものが崩れてしまう。
「他の誰の命令も受けない、ということは」男は低く続けた。「誰にも守られず、誰にも従えず、ただ陛下だけに繋がれるということですね」
「そうだ」
「随分と都合のいい鎖ですね。地位も自由も奪っておいて、それを"特別な役職"と呼ぶとは」
皮肉のこもった声だった。それでも、その声には震えがなかった。俺はその強さに、少しだけ安堵する。折れていない。折れていなければ、これから先の展開に耐えられる。
「せめて理由をお聞かせいただけませんか」
「必要ない」
「……陛下は、いつもそうだ。理由も告げず、命令だけを残していく」
男の声に、初めて微かな疲労が滲んだ。だが俺は、それに答えなかった。答えられなかった、というのが正しい。
「文句があるなら聞くが、選択肢はお前にはない」
俺はそう言って、踵を返した。廊下を歩き出すと、後ろから衛兵に連れられた足音が続く。距離が開き始めたのを察して、俺は振り返らずに言った。
「俺から三歩以上離れるな」
足音が止まった。
「……逃亡防止ですか」
低く、疑うような声だった。俺は一瞬だけ、答えを選ぶ。本当の理由は言えない。原作の記憶では、この時期、皇帝直属になったばかりの人間を狙った暗殺未遂が起きている。俺は、標的は騎士団長自身だろうと考えている。三歩の距離は、剣を抜いて割り込める限界の間合いだった。
「そう思っていろ」
俺はそれだけ答えて、再び歩き出した。背後で、男が小さく舌打ちをする気配がした。それでも、足音はちゃんと三歩の距離を保って続いてくる。従順というより、反発しながらも従わざるを得ない、そんな足取りだった。
廊下の角を曲がったところで、侍従長のミラが待っていた。彼女は俺と、その後ろに続く男を交互に見て、小さく一礼する。
「陛下。皇帝の剣――ケイン・レーヴェンハルト様の宿所は、ご指示通り本殿の隣に用意いたしました」
「本殿の隣、ですか」
男が驚いたような声を上げた。牢に近い場所を予想していたのだろう。だが俺にとって、それでは意味がなかった。誰の目も届かない場所に置けば、誰かに簡単に手を出される。
「文句があるのか」
「……いえ」
短い返事だった。だが、その声には先ほどまでの苛立ちとは違う、微かな戸惑いが混じっていた。
ミラが先導し、俺たちは本殿へと続く回廊を進んだ。すれ違う侍女や文官たちが、一様に目を伏せて道を空ける。誰も、俺の隣を歩くこの男に視線を向けようとはしなかった。関わりを持つことそのものが、危険だと理解しているのだろう。
「こちらです」
案内された部屋は、質素だが手入れの行き届いた一室だった。窓からは中庭が見える。牢の湿った暗さとは比べものにならない。男はその部屋を一瞥し、何かを言いかけて、結局口を閉ざした。
「気に入らないか」
「……いえ、贅沢すぎて戸惑っています。皇帝直属の囚人には、不釣り合いなほどに」
「不釣り合いで構わない」
俺はそう言って、部屋の入り口に立つ衛兵に短く指示を出した。この部屋の周囲は常に見張りを置くこと。ただし、出入りするのは俺の許可を得た者だけに限ること。表向きは監視、実際には誰も近づかせないための布陣だった。
男はその指示を黙って聞いていた。何か言いたげな視線を俺に向けていたが、結局それも言葉にはならなかった。
この男を守るためには、誰の目にも理不尽で、誰にも近づけない存在にしなければならない。優しさなど見せられない。だが同時に、俺はこの男を生かすと決めた。矛盾したこの二つを、俺はこれから先、暴君のまま両立させなければならなかった。
ミラが静かに部屋を出ていく気配がした。廊下に残ったのは、俺とこの男の二人だけだった。窓の外では、中庭の木々が夕暮れの風に揺れている。牢の中では感じられなかった、ただの日常の音だった。
部屋を出る間際、俺は振り返らずに言った。
「明日から、俺の執務室に控えろ。三歩以内でだ」
返事はなかった。だが、扉が閉まる直前、微かに息を呑む気配だけが聞こえた。
廊下を歩きながら、俺は小さく息を吐いた。今日でようやく、最初の布陣が整った。だがこれは、この男を守るための、まだほんの入り口に過ぎない。これから先、俺はもっと多くのものを、この男から奪うことになる。




