処刑台の暴君
――その日は曇天だった。
処刑台の上には、雨上がりの石畳の匂いが満ちていた。灰色の空の下、広場には帝都中の貴族が集められている。誰もが息を潜め、玉座から一段高い処刑台を見上げていた。
俺は玉座に腰を下ろしたまま、顎を上げ、視線だけで処刑台の男を射抜いていた。それが皇帝オルグレン・ヴェイスハルトである。感情を映さない目で、声で命じる。それがこの国を支配する方法だった。
跪いているのは、騎士団長ケイン・レーヴェンハルトだった。両手を後ろで縛られ、それでも背筋だけは伸びたままでいる。罪状は軽い。部下をかばい、皇帝に意見した。ただそれだけの罪だ。だが俺はこの男に、見せしめとして最も重い罰を与えると、すでに決めていた。
玉座の脇には、いつものように宰相が控えていた。白髪の老臣は静かに目を伏せ、微動だにしない。他の貴族や臣下たちも同じように固唾を呑んで動かない。彼が小さく頷いたのを、俺は視界の端で捉えていた。この処刑を、当然のことだと肯定するかのように。
処刑人が剣を振り上げる。刃が灰色の空を切り取り、静かに構えられる。
そのはずだった。
刃の輝きが、なぜか一瞬、別の映像と重なった。同じ広場。同じ処刑台。ただし俺はそこで、観客として、画面の向こうからこの光景を見ていたはずだった。
前世の記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。
これは原作が小説だった。アニメ化もした。俺が心から愛していた作品の、最初の破滅の場面だ。暴君と呼ばれる皇帝が、忠実な騎士団長を理不尽に処刑し、それを引き金として国中に反乱が広がっていく。貴族も、民衆も、誰もが牙を剥く。数か月後、この玉座は炎に包まれ、皇帝はその玉座もろとも引きずり下ろされ、歴史からその名を消される。恐怖政治の下で、この騎士団長という存在だけが、かろうじて民や貴族の心をつなぎとめていた最後の支柱だったのだと、物語の後半になってようやく明かされる。
読者だった俺は、そのページを何度も読み返した。暴君の孤独さに、誰にも媚びない強さに、惹かれていたはずだった。それなのに、この処刑の場面だけは、いつも胸の奥に小さな棘のように引っかかっていた。暴君、というキャラクターを印象付けたいのだろうけれど、人をかばうこの男を殺すことに、何の意味があるのかと。
その引き金が、今、目の前で振り下ろされようとしていた。
「待て」
俺の声は、自分でも驚くほど平静だった。処刑人の剣がぴたりと止まる。広場を埋めた貴族たちの間に、はっきりとした動揺が走った。誰も、皇帝がこの言葉を口にするとは思っていなかった。
俺は玉座を降り、処刑台へと歩いた。一歩進むごとに、周囲の空気が張り詰めていくのがわかる。騎士団長が顔を上げた。長年見慣れた、警戒と諦めの入り混じった青灰色の瞳がそこにあった。
「……何をなさるおつもりですか」
低く、落ち着いた声だった。震えてはいない。この状況ですら、この男は最後まで騎士としての姿勢を崩さなかった。前世の俺がこの物語を愛していた理由のひとつが、今更のように腑に落ちる。
俺は少し考えた。ここでどう言葉を紡ぐかで、この先の全てが変わる。国の未来も、目の前の男の命も。
「殺すのはやめた」
広場に、はっきりとしたどよめきが広がった。誰かが小さく息を呑む音がした。慈悲だと受け取った者は誰もいない。それも当然だった。この皇帝が慈悲で人を生かすはずがないと、この国の誰もが知っている。
「死罪では軽すぎる」
騎士団長の目に、初めて明確な戸惑いが浮かんだ。周囲の貴族たちも同様だった。この暴君が次に何を言い出すのか、恐怖と共に誰もが身構えている。
その反応は、俺の望むところでもあった。今この場で優しさを見せれば、この男を守ることさえできなくなる。守るためには、誰よりも冷酷に見せなければならない。
「こいつは俺の手元に置く」
宣言すると同時に、俺は騎士団長の縄を掴み、無理やり立たせた。至近距離で目が合う。青灰色の瞳の奥に、隠しきれない苛立ちと困惑が揺れていた。
「……皇帝陛下」
「二度は言わない」
俺はそれだけ言って、背を向けた。衛兵に目配せをする。騎士団長職の解任と、身柄の引き渡し。それだけを短く、事務的に命じた。詳しい説明は、この場では誰にもしない。するつもりもなかった。説明した瞬間、この男を守るための建前が崩れてしまう。
玉座への道を戻りながら、俺は背後の気配を探った。騎士団長は衛兵に引きずられるようにして連れてこられていた。抵抗はしなかった。ただ、その視線だけが、鋭く俺の背中に突き刺さっていた。
「私を、どうするつもりですか」
俺は足を止めず、振り返りもせず、ただ言った。
「今日からお前は、俺のものだ」
その言葉に、広場中がさらに深く凍りついたのがわかった。誰かが小さく身を引く気配がした。慈悲でも赦しでもない、もっと歪な何かだと、誰もが受け取ったのだろう。それでいい、と俺は思う。この男を生かすためには、誰の目にも異常だと映るくらいがちょうどいい。
玉座の間の扉が、重い音を立てて閉まった。
冷たい石の廊下を歩きながら、俺は自分の掌をじっと見た。前世の記憶が本物なら、これから先の展開はもう決められた通りにはならない。原作の皇帝は、この場面で確かにケインを殺していた。その結末を、俺はもう選ばない。
だが同時に、俺は理解していた。暴君であることをやめるつもりはない。この国で生き延びるためには、恐怖こそが唯一の武器だ。優しさを見せた瞬間、この玉座は誰かに奪われる。
――ならば、暴君のまま、守ればいい。
その決意だけを胸に、俺は自分の寝室へと続く長い廊下を進んだ。背後では、新たに「皇帝直属の囚人」となった男が、まだ状況を飲み込めないまま、衛兵に連行されていく足音が響いていた。
寝室の扉を閉めた瞬間、ようやく息をひとつ吐いた。誰にも見せられない顔を、誰もいない部屋でだけ晒す。それが、この十年間で身についた唯一の習慣だった。
窓の外では、まだ広場のざわめきが遠く聞こえていた。処刑が中断されたという報せは、すでに帝都中を駆け巡っているだろう。貴族たちは口々に囁き合っているはずだ。皇帝が、何か恐ろしい計画を思いついたに違いないと。
それでいい。俺は窓辺に立ち、暮れていく空を見上げた。
原作の物語では、この日を境に皇帝への信頼は完全に地に落ち、数か月のうちに反乱の火種が各地で燃え上がる。だが、あの結末はもう変わった。変えたのは俺自身だ。
問題は、これから先だった。騎士団長職を剥奪し、領地も自由も与えず、それでも殺させない立場に置く。そのための肩書きを、すぐにでも用意しなければならない。表向きは飼い殺しに見えて、実際には誰も手出しできない場所へ。
侍従長を呼ぶよう、俺は静かに命じた。今夜のうちに、すべての算段をつけておく必要がある。
窓の外で、鐘の音が一度だけ響いた。処刑が中止された日を、この国は長く語り継ぐことになるだろう。だがその理由を、誰も本当には知らない。知っているのは、この部屋にいる俺だけだった。




