信じるという愚行
沈黙を破ったのは、ケイン自身だった。
「陛下」
謁見の間に、静かな、だがよく通る声が響いた。
「私を、牢へ入れてください」
その言葉に、俺は思わずケインを見た。
「疑いが晴れるまで、拘束されるのが筋です。それが、この場を収める、最も穏当なやり方かと」
「却下する」
俺は、即座にそう答えた。周囲の貴族たちが、明らかに息を呑んだ。
「陛下、しかし」
文官長が、慌てて割って入ろうとした。俺はそれを、手で制した。
「証拠は揃っているぞ」
俺は、あえてケインに向けて、そう問いかけた。
「はい」
「お前が裏切っている可能性もある」
「ございます」
その受け答えに、謁見の間がざわめいた。だが俺は、そのざわめきの中で、はっきりと言葉を続けた。
「それでも、信じる」
その一言に、謁見の間が、完全に静まり返った。誰もが、俺の正気を疑うような目をしていた。かつての暴君であれば、絶対に口にしなかったはずの言葉だった。証拠も道理も無視した、ただの感情論だと、誰もがそう思っただろう。
だが、俺はそれでよかった。
「陛下、正気ですか」
一人の貴族が、たまらず声を上げた。
「反乱軍と通じた疑いのある者を、証拠を前にしてなお庇うと仰るのですか。それでは、この国の法そのものが揺らぎます」
「法は、俺が決める」
俺は、静かにそう返した。
「この一件は、俺の責任において預かる。異論のある者は、直接、俺に申し出よ」
誰も、それ以上は何も言わなかった。玉座の重みが、この場ではまだ、かろうじて反発を押し留めていた。だが、その沈黙の中に、これまでにない種類の緊張が滲んでいるのを、俺は肌で感じていた。証拠を無視してでも守る皇帝という前例は、この先、諸刃の剣になるかもしれない。それでも、今この瞬間だけは、迷いはなかった。
*
謁見が終わり、二人きりになった執務室で、ケインはしばらく黙っていた。
「……本当に、良かったのですか」
「良い悪いの話じゃない」
俺は、椅子に深く腰を下ろした。
「あの場で、暴君としての判断に戻ることもできた。だが、それは、もう俺の選ぶ道じゃない」
ケインは、しばらく俺を見つめていた。その目には、これまでのどんな時とも違う、静かな熱があった。
「陛下」
「何だ」
「一つ、提案があります」
ケインの声には、確かな決意が滲んでいた。
「この濡れ衣を、逆手に取らせてください。反乱軍に寝返ったふりをして、内側から敵の正体を暴きます」
「……危険すぎる」
「危険は承知の上です。ですが、これ以上、陛下だけに背負わせるわけにはいきません。それに、今の私は、ちょうど都合よく"反乱軍に通じた疑いのある男"です。この立場を、利用しない手はありません」
その言い方に、俺は思わず息を吐いた。この状況でなお、そんな冷静な計算ができる男だった。
「宰相の目が、俺に向いている間に、お前を反乱軍の内側に送り込むということか」
「はい。うまくいけば、宰相がどこまで関わっているのか、内側から確かめられます」
俺は、しばらく言葉を返せなかった。危険だとわかっていても、止める言葉が見つからなかった。この男の覚悟は、もう誰にも止められないところまで来ている。
「戻れなくなるかもしれない。それでもいいのか」
「戻る場所が、陛下のおそばにあるのなら、構いません」
その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。これまで、この男の口から、そんな言葉を聞いたことはなかった。
「……好きにしろ」
俺は、それだけ言った。他に、うまく返せる言葉がなかった。
ケインは小さく頷き、一歩、俺に近づいた。三歩の距離は、もうとうに意味を失っていた。
「陛下」
「何だ」
「先ほどの言葉――それでも、信じる。あれは、暴君の言葉ではありませんでした」
「……そうかもしれない」
「あなたは、ずっと暴君であろうとしてきました。ですが、今日この場で、その仮面が一瞬だけ、剥がれたように見えました」
俺は、何も言い返せなかった。図星だった。
ケインは、それ以上何も言わず、ただ静かに俺を見つめていた。灯りの落ちた執務室に、二人分の呼吸だけが響いていた。どちらからともなく、その距離が、さらに縮まっていく。
「……本当に、いいのか」
自分でも驚くほど、掠れた声が出た。
ケインは答える代わりに、小さく目を伏せた。それが、答えだった。
触れた唇は、想像していたよりもずっと、優しかった。




