原作にはない死
その朝、侍従長ミラが姿を見せなかった。
いつもなら、日の出と共に静かに執務室へ現れ、俺の一日の予定を淡々と読み上げる。それが、この宮殿における数少ない、変わらない日常だった。感情を表に出さない俺の唯一の"日常"を知る人物として、彼女はいつも、静かにそこにいた。
「ミラの姿が見えません」
ケインが、珍しく困惑した様子で報告に来た。普段のミラなら、体調を崩したとしても、必ず誰かに一言伝えてから休むような人物だった。その一報だけで、俺は嫌な予感を覚えた。
「使いの者を出せ」
そう命じてから、さほど時間も経たないうちに、悲鳴に近い報告が届いた。
ミラは、宮殿の裏手にある古い書庫の奥で、冷たくなって発見された。
*
現場に駆けつけた俺は、しばらく言葉を失っていた。物盗りの形跡はない。争った痕跡も、ほとんどなかった。まるで、抵抗する間もなく、命を絶たれたかのようだった。書庫の棚には、彼女が調べていたとおぼしき古い記録が、乱れた様子もなく積まれたままになっていた。
「陛下」
ケインの声が、静かに耳に届いた。
「ミラは、最近、何かを調べていたようです。私にも、少しだけ話してくれたことがあります」
「何を調べていた」
「詳しくは、聞けませんでした。ただ、"陛下の周りに、まだ気づいていない何かがある"と、そう言っていました。あの人らしい、控えめな言い方でしたが」
俺は、床に横たわるミラの姿を見つめた。いつも冷静で、誰よりも俺の変化に敏感だった彼女が、もう二度と口を開くことはない。その事実が、まだうまく実感として結びつかなかった。
この記憶の中に、彼女がこんな形で命を落とす場面など、一度もなかった。
原作の記憶を、必死に辿った。ミラという名の侍従長は、確かに存在していたはずだ。物語の中でも、皇帝の傍らで淡々と職務をこなす、印象の薄い脇役として描かれていた。だが、彼女がこの時期に死ぬという展開は、どの記憶を探しても、見当たらなかった。
「……ない」
思わず、声が漏れた。
「陛下?」
「この展開は、俺の知る物語には、存在しない」
ケインが、息を呑む気配がした。
「つまり」
「この国の未来は、もう俺の知っているものとは、完全に違う道を進み始めている」
これまで、俺はどこかで、原作の記憶を最後の拠り所にしていた。何が起きるかを知っているという事実だけが、この危うい綱渡りを支えていた。だが今、その拠り所そのものが、音を立てて崩れ落ちた。
「これから先は」
ケインが、静かに続きを引き取った。
「陛下にも、見えないということですね」
「そうだ」
俺は、それを認めることに、これまでにない恐怖を感じていた。誰も知らない未来へ、これから先、手探りで進んでいかなければならない。
「陛下」
ケインの声が、思いのほか近くから聞こえた。
「見えないのなら、一緒に探すしかありません。これまでのように、陛下お一人で抱える必要は、もうないはずです」
俺はケインを見た。その目には、これまでのどんな時とも違う、確かな決意が浮かんでいた。
「ミラの死を、無駄にはしません。彼女が何を調べていたのか、必ず突き止めます」
俺は小さく頷いた。それ以上の言葉は、今はまだ見つからなかった。
書庫の中を、ケインと二人で見回した。棚に残された記録の中に、ミラが最後に触れていたであろう痕跡がないか、探し始める。手がかりはまだ何もない。だが、少なくとも、これからは一人で探す必要はなかった。
ミラの亡骸の前で、俺たちはしばらく、無言のまま立ち尽くしていた。この国の未来は、もう誰にも見えない。原作という名の地図は、もう役に立たない。それでも、進むしかなかった。
「彼女には、きちんとした弔いを」
「はい。責任を持って、私が手配します」
ケインの声には、静かな覚悟が滲んでいた。俺はもう一度、床に横たわるミラを見た。いつも控えめで、多くを語らなかった彼女が、最後に何を見つけようとしていたのか――それを知る術は、もう本人の口からは得られない。だからこそ、必ず突き止めなければならなかった。




