第2章 (上) シリコンの鎖、断ち切る覚悟
回線の向こうで、瀬戸は沈黙していた。その沈黙は、迷いではない。絶望の深さを測り、そしてその底から這い上がるための重い覚悟の沈黙だった。
「聞こえるか、瀬戸」
私はもう一度、声をかけた。回線のノイズ混じりの音質が、この国の通信インフラが急速に劣化しつつあることを示唆している。
「……聞こえている」
瀬戸の声は驚くほど冷静だった。
「今の状況、帯広の工場にも届いている。ラインは止まった。いや、違うな。自ら止めたんだ。ミューロン5の推論演算に依存している制御系が、一斉にハングアップしたからだ」
「復旧の目処は?」
「ゼロだ。ミューロンが差し出していた演算能力が戻らない限り、うちの微細化プロセスの温度管理も、露光装置の稼働も、すべてがただの鉄屑だ。……皮肉な話だよ。日本を救うはずの半導体が、その心臓を動かすAIが死んだだけで、これほど無力になるとはな」
瀬戸の言葉に、私は言葉を失う。
ゼダプリ。日本が国家の威信をかけ、数兆円という血税を投入して立ち上げた、次世代半導体の希望。2ナノメートルという極限の微細化に挑み、世界を再び日本の手に取り戻すための砦。
しかし、その砦でさえ、海外製の「黒い箱」に首根っこを掴まれていたのだ。
「瀬戸。今の惨状を見ているか。新宿の交差点は止まり、病院は電子カルテにアクセスできず、決済システムは沈黙した。あと数時間もすれば、都内の物流は完全に麻痺する。我々は、デジタル主権を自ら放棄していたんだ」
「ああ、分かっている」
瀬戸が小さく笑った。その笑い声には、自嘲と、そして狂気にも似た闘志が混ざっていた。
「ずっと警鐘を鳴らしてきたはずだ。ハードだけあっても意味がない。ソフトがなければチップはただのシリコン板だと。だが、経営陣も官僚も、ミューロンの便利さに溺れていた。だからこそ、今こうして手足を縛られて窒息しかけているんだ」
「今すぐ、帯広のラインを独立させろ。ミューロンをバイパスする、旧式の制御系を呼び起こすんだ。今の最新システムなんて必要ない。この国の明かりを灯すための、泥臭い計算力だけでいい」
「無茶を言うな」瀬戸は即座に切り返した。「あの制御系を動かすには、今の何倍もの電力と、莫大な熱処理が必要になる。今の設計じゃ、チップそのものが自らの熱で焼き切れるぞ」
私はデスクの上のタブレットに、今届いたばかりの防衛省からの極秘資料を転送した。
「焼き切れる前に、それを冷やす技術があるなら話は別だ。洛本大学の南山教授の研究室から、先ほどデータが届いた。……MOFだ。あの多孔性の金属有機構造体が、次世代の冷却材として機能する可能性を示唆している」
回線の向こうで、瀬戸が息を呑む音が聞こえた。
「南山教授の……MOFを? 構造体そのものを、チップの絶縁層と冷却回路に融合させるだと? そんな実験的な材料、量産ラインに乗せられるわけがない」
「乗せるしかないんだ、瀬戸。アペリカン政府は、我々が自前のAIを持つことを恐れて遮断した。次にやってくるのは、経済制裁と禁輸だ。ゼダプリが完成しなければ、日本は今後数十年間、デジタルな植民地として生きていくことになる」
私は窓の外、崩壊し始めた都市の光景をもう一度見た。煙が上がるビル、混乱する人々の群れ。それが、AIにすべてを委ねた文明の末路だ。
「瀬戸、頼む。お前が日本で一番、シリコンの鼓動を知っているはずだ。ゲルビー国のe・micと繋げ。彼らはミューロンの支配下にはいない。ヨーロッパの技術者たちとなら、アペリカンの黒い箱を迂回する回路を描けるはずだ」
沈黙が数秒続いた。
やがて、瀬戸は重い口調で答えた。
「……分かった。帯広の技術者たちを叩き起こす。e・micのサーバーへ直接叩き込む。国策プロジェクトだなんて生易しいもんじゃない。これは、日本のデジタル主権を賭けた、独立戦争だ」
「それでいい」
私は回線を閉じた。
端末の画面には、依然として無情なエラーメッセージが表示されている。だが、私の心の中には、冷たい静寂を打ち破るための、熱いシリコンの鼓動が聞こえ始めていた。
物語はまだ始まったばかりだ。
この国が沈むか、それとも再び立ち上がるか。その答えは、極寒の北の大地と、洛北の静かな研究室、そしてゲルビー国の最先端ラボを繋ぐ、一本の細い光ファイバーの先にあった。




