第1章 静かなる崩壊
午前8時15分。都市の機能は、まるで神経系を麻痺させられたかのように停止し始めた。
私は対策室のタブレット端末を握りしめ、窓から見える新宿の街並みを眺めていた。普段なら、自動運転のタクシーと、高精度な交通管制AIが制御する車列が、まるで血管を流れる赤血球のように整然と行き交っているはずの交差点。だが、今は違う。
信号はすべて点滅を失い、消灯した。青を信じて進入した配送トラックと、横から滑り込んできた一般車両が、鈍い金属音を立てて衝突した。しかし、誰も降りてこない。車内に座る人々は、スマートフォンを何度もタップし、あるいはダッシュボードのブラックアウトしたディスプレイを呆然と見つめている。
「……何が起きてるんだ」
交差点で立ち往生する車の列から、一人のサラリーマンが降りてきた。彼は路上の混乱を理解できずに周囲を見回し、そして手にした端末に向かって叫んだ。
「おい、配車アプリが繋がらない! 会社に遅刻するんだぞ!」
彼だけではない。半径数キロの範囲で、同じような叫び声が上がっているのが見える。
通信網そのものは生きている。だが、その上で動いていた「知性」が消えたのだ。
クラウド上の推論サーバーと通信していたすべての端末が、応答なしの死刑宣告を突きつけられている。
私の手元にある政府内回線が、ひっきりなしにアラートを鳴らし始めた。
『医療機関からの入電:電子カルテシステムが全滅。診察中のAI診断サポートが停止し、手術のシミュレーションが中断。重篤な患者の容態把握に遅延が発生している』
『電力会社:グリッドの自動需給調整システムが停止。各エリアのスマートメーターからのデータ収集が止まり、送電網の電圧不安定化が懸念される』
『金融庁:全銀システムに接続しているAI認証がエラーを吐き出し続けている。本日予定されていた数十兆円規模の企業間決済が、すべて保留状態だ』
「……冗談じゃない」
私はデスクを叩いた。
我々は、いつの間にか「自分たちの文明の鍵」を、大平洋の向こうにあるブラックボックスに預けていたのだ。
ミューロン5は確かに優秀だった。翻訳も、複雑な行政事務の最適化も、法律の起草すらも、彼らがやってくれた。我々は、考えることの多くを彼らに外注した。その対価として、我々は「便利さ」という麻薬を享受し、思考停止という心地よい泥沼に浸かっていたのだ。
そして今、その「箱」は、アペリカン政府の一存によって無慈悲に閉じられた。
まるで、ペットの首輪を引くように。
「リーダー、現場から報告です」
対策室の若い職員が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「都内のコンビニエンスストアで、電子決済しかできない店舗がパニックになっています。店員がパニックになり、棚の商品が略奪され始めているようです。……いえ、それだけではありません。マイナンバーカードと連携した身分証明端末が全滅したせいで、公共サービスの入り口がすべて塞がりました」
窓の外では、サイレンの音が遠くから聞こえ始めた。しかし、そのサイレンを鳴らす緊急車両もまた、AI管制システムによって動かされていたものだ。信号機のない交差点で、パトカーが立ち往生しているのが見えた。
この国は今、高度なデジタル技術に支えられた「超近代」から、電気が消えた瞬間に「中世」へと逆戻りした。
私は深く息を吐き、キーボードに手を置いた。
思考の海に潜る。今の状況を打開する唯一の道は、この「外部依存」という構造そのものを叩き壊すことだけだ。
「瀬戸……」
私は暗号回線を開く。相手の応答を待つ時間は、永遠のように長く感じられた。
この国が沈むか、それとも再び自力で立ち上がるか。その境界線は、わずか数センチのシリコンチップに集約されている。




