第2章 (中) 友情の証(あかし) e・mic (イプシロン・ミック)
回線を切った私は、荒い呼吸を整える。背筋を伝う冷や汗が、この事態の異常さを物語っていた。
窓の外では、もはや混乱の範囲が広がっていた。信号機だけでなく、自動配送ロボットが制御を失い、歩道で立ち往生している。配送中の荷物が路面に散乱し、それを拾おうとする人々と、システム復旧を求めてスマートフォンの画面を乱打する人々で、通りは殺気立っていた。
私は即座に、手元に残された数少ない「オフライン通信回線」を使い、洛本大学のサーバーへとアクセスを試みる。
洛本大学の理工学部。そこには、世界で唯一、分子レベルのナノ空間を自在に操る男、南山教授がいた。
数分後、暗号化された回線越しに、老練だが力強い南山教授の声が響いた。
「……こんな非常時に、行政の人間が何の用だ。まさか、AIの停止で論文のデータが消えたわけでもあるまい?」
「南山教授、事態は教授の想像より遥かに深刻です。この国の心臓が、外部からの指令で停止させられました」
私は、現在起きている文明の麻痺について手短に説明した。教授は途中、溜息を一つ漏らしただけで、反論もせず最後まで聞き入っていた。
「なるほどな。シリコンの巨人が、ただの石ころに成り下がったか。それで? 私に何を求めに来た。私のMOF(金属有機構造体)は、半導体の熱問題を解決するための研究対象であって、貴様らの政治的な泥仕合に使う兵器ではないぞ」
「兵器として使っていただきたいのです」
私は声を絞り出した。
「ゼダプリの2ナノチップは、今のままでは稼働した瞬間に熱で自滅します。ミューロン5のような海外製AIの演算を担わせるために、今のチップはあまりに脆い。ですが、南山教授のMOFを回路の絶縁材と冷却材に組み込めれば、発熱を限界まで抑え、かつ集積度を劇的に向上できるはずだ」
「……随分と買い被ったものだ。分子の網を、ナノの世界の配線に焼き付ける。理論上は可能だが、実験室で1ミリのチップを作るのと、帯広の工場で何億個ものチップを量産するのは、別次元の苦行だぞ」
「それでも、教授がやらなければ日本は終わる。今のデジタル主導権を奪われたまま、我々は海外製チップの『下請け』として一生を終えることになるんです!」
受話器の向こうで、教授が何かを呟いた。それは罵倒の言葉かもしれないし、自分自身に対する問いかけかもしれない。沈黙が数秒間続き、やがて教授は静かに言った。
「……準備はいいのか。私の理論は、既存の半導体製造プロセスの常識をすべて破壊する。ゼダプリのエンジニアたちが、その狂気についてこられるという保証はあるのか?」
「彼らは今、帯広の地で極限まで追い詰められています。彼らにとって、教授の理論はリスクのある救いであると同時に、最後の希望なんです」
「いいだろう」教授の声に、微かな笑みが混じった。「洛北の地下にある試作ラボの全データを転送する。これを解析し、実用化の設計図を引け。ただし、期限は48時間だ。それ以上かければ、この国は情報的な飢餓で自滅するぞ」
「感謝します、教授」
回線を閉じると、画面上に膨大な量のデータが流れ込んできた。それは、分子という名の「魔法」の設計図だった。
私は端末を叩き、帯広の瀬戸へ全データを送信した。
北の帯広、西の洛北、そしてゲルビー国のe・mic。この三つの拠点が、一瞬にして一本の糸で結ばれた。
かつて、敗戦から立ち上がった技術者たちがいたように、我々もまた、ゼロからこの文明を再構築しなければならない。
外では、沈黙した都市の向こうに、夕闇が迫りつつあった。だが、私のディスプレイには、南山教授のMOFが描く美しいナノ構造が、まるで新しい時代の光のように眩しく輝いていた。
「戦いは、これからだ」
私は自らに言い聞かせるように呟くと、残されたすべてのシステムのリソースを、この「国産チップ量産プロジェクト」へ叩き込んだ。




