第3章 壊れた家庭、残された責任
「……ついてこないでって言ったよね」
夕暮れの路地で、鈴が振り返った。
その声は、いつもより低く、そしてわずかに疲れていた。
昴は少し離れたところで立ち止まる。
(帰る方向……一緒だっただけだ)
言い訳は浮かぶ。
でも、それを口にする意味がないことも分かっている。
「……ごめん」
とりあえず、それだけ言った。
鈴はしばらく昴を見ていたが、やがて小さく息をついた。
「……もういい」
それだけ言って、歩き出す。
その背中は、どこか投げやりだった。
昴は少し迷ったあと、距離を保ったまま後を追った。
(帰るだけ……それだけだ)
そう自分に言い聞かせる。
だが、足は自然と鈴の方へ向いていた。
住宅街に入る。
街灯の少ない細い道。
人気も少なく、静かすぎるくらいだった。
やがて鈴は、古びたアパートの前で足を止めた。
外壁はところどころ剥がれ、階段の鉄は錆びている。
(……ここ?)
昴は思わず見上げる。
鈴は振り返らない。
そのまま階段を上がっていく。
足音が、かん、かん、と乾いた音を立てる。
昴はその場に立ち尽くした。
(……帰ろう)
そう思った。
ここまで来る必要はなかった。
これは、明らかに“踏み込みすぎ”だ。
だが――
「おにーちゃーん!」
突然、部屋の奥から元気な声が響いた。
昴はびくっとする。
ドアが勢いよく開く。
そこから飛び出してきたのは、小さな男の子だった。
続いて、もう一人。
(二人……?)
双子だった。
「おかえりー!」
「おなかすいたー!」
二人は鈴に飛びつく。
鈴の体がぐらりと揺れる。
「ちょ、ちょっと……待って」
さっきまでの冷たい声とは違う。
少しだけ柔らかい、でも余裕のない声。
「順番に言って!」
そう言いながらも、鈴は二人の頭を軽く撫でる。
その手つきは、慣れていた。
昴はその光景を、ただ見ていた。
(……弟?)
頭が追いつかない。
「今日ね、ホットケーキ作ろうとしたの!」
「でもね、火がちょっとだけ大きくなって!」
「ちょっとっていうか、けっこう!」
二人が同時に話す。
鈴の顔が一瞬で変わる。
「は!? 何やってんの!」
慌てて部屋の中に入る。
昴も、反射的に一歩近づく。
開いたドアの隙間から、中が見えた。
床には白い粉が散らばっている。
小麦粉だとすぐに分かった。
割れた卵の殻。
べたついたテーブル。
焦げたフライパン。
(……)
言葉が出ない。
「火は!? 消したの!?」
「うん! ちょっと煙出たけど!」
「“ちょっと”じゃないでしょこれ!」
鈴はガス台を確認し、深く息を吐く。
その肩が、小さく震えていた。
怒っているのか、安心したのか――
たぶん、その両方だった。
「もう……勝手に火使っちゃだめって言ったでしょ」
声は強い。
でも、その奥にあるのは、叱責というより恐怖だった。
「……ごめんなさい」
双子がしゅんとする。
鈴は少し黙る。
それから、ふっと力を抜いた。
「……怪我、ない?」
「ない!」
「ほんとに?」
「うん!」
そのやり取りを見て、昴の胸がざわつく。
(なんだよ……これ……)
頭の中で、鈴のイメージが崩れていく。
いや、正確には――
(俺が知らなかっただけか)
鈴は、床に散らばった粉を見て、ため息をつく。
「……掃除、あとでね」
「うん!」
「で、ちゃんと食べてないんでしょ?」
「うん!」
元気な返事。
鈴は少しだけ目を閉じる。
その一瞬に、疲れが滲んだ。
「……ちょっと待ってて」
そう言って、キッチンに立つ。
冷蔵庫を開ける音。
何かを取り出す音。
その背中は、小さかった。
でも――
(……一人でやってるのか)
気づいた瞬間、胸が重くなる。
親の姿は、どこにもない。
生活の気配はあるのに、
“大人の気配”だけが、決定的に欠けている。
(まさか……)
思考が、嫌な方向に向かう。
そのとき。
「……見てたの?」
声がした。
振り向くと、鈴が立っていた。
いつの間にか、ドアのところまで来ていた。
その目は、さっきまでよりもずっと冷たかった。
「……あ」
言葉が詰まる。
言い訳が見つからない。
「勝手に人の家、覗くとか最低」
その一言に、胸がぎゅっと縮む。
「……ごめん」
それしか言えなかった。
鈴は少しの間、昴を見ていた。
そして――
「……見たなら、もう分かったでしょ」
ぽつりと、言った。
その声は、静かだった。
「これが現実」
昴は何も言えない。
「父親は、一か月前にいなくなった」
さらりと告げる。
「横領とか、そんな話」
まるで他人事のように。
「母親も、その前に出てった」
一瞬、間が空く。
「……お金だけ置いて」
その言葉の“軽さ”が、逆に重かった。
昴の喉が詰まる。
(……そんなの)
どう反応すればいいのか分からない。
同情も、慰めも、全部違う気がした。
鈴は続ける。
「だから、私がやるしかないの」
視線が、まっすぐだった。
「この子たち、生きていけないから」
その言葉に、迷いはなかった。
当たり前のように言う。
それが、余計に苦しかった。
(……なんで)
そんな顔で、それを言えるんだ。
「……別に、かわいそうとか思わなくていいから」
鈴が言う。
「そういうの、いらない」
ぴしゃり、と遮るように。
昴は何も言えない。
言えないまま、ただ立っている。
(俺は……)
何を見てたんだ。
何を“女神”なんて思ってたんだ。
目の前にあるのは――
(ただ、生きてる人だ)
必死に。
誰にも頼らずに。
「……帰って」
鈴が言う。
その声は、少しだけ疲れていた。
「もう、いいでしょ」
昴はうなずくしかなかった。
足を一歩、下げる。
それでも、すぐには動けなかった。
(何か……言えよ)
頭の中で声がする。
でも、言葉が出てこない。
軽い言葉じゃ、全部壊れそうだった。
「……また明日」
やっと出たのは、それだけだった。
鈴は何も答えなかった。
ただ、ドアを閉めた。
がちゃん、と音が響く。
昴はしばらくその場に立っていた。
(……重い)
胸の奥に、何かが沈んでいる。
同情じゃない。
理解でもない。
ただ――
(知ってしまった)
それだけだった。
夕暮れは、もう終わっていた。
暗くなり始めた空の下で、昴はゆっくりと歩き出す。
(俺は……)
あの人を、どう見るべきなんだろう。
答えは出ない。
でも――
もう、“女神”とは思えなかった。
その代わりに残ったのは、
(……放っておけない)
それだけだった。
草稿を入力してAIが書きました。




