ひと夜 5
「フィーア」
フィーアはビクンとして足を止めた。
「母がこの屋敷に嫁いできたのは、お前と同じ歳だった。そして翌年には俺が生まれた」
「そうでしたか」
月が青く見える夜だった。
「来てくれ」
おもむろにエルンストは立ち上がると、フィーアの手をとり自分の部屋へと向かう。
「エルンスト様?」
問いかけは虚しく闇へと消えた。
するとエルンストは数あるクローゼットの扉のひとつを開く。
それはフィーアも開けたことのない扉だった。
中には白いドレスが掛かっている。
「代々この家に嫁ぐ花嫁はこれを着る」
見れば、絹地に金糸が織り込まれた豪華なドレスだった。
「これを着てくれないか」
「でも・・・」
フィーアはためらった。
花嫁衣裳を軽々しく着るわけにはいかない。
まして奴隷の身。
「俺は・・・俺は母を信じることにした」
「エルンスト様」
ああ、この方はお母さまを憎み、それ以上に愛していたのだわ。
だから百合の花を処分しないでいたのだ。
「お前に着て欲しいのだ」
熱い眼差しにフィーアは素直に従ったのだった。
***
「——エルンスト様」
バルコニーで着替えを待っていたエルンストは言葉を失った。
月明かりに照らされたフィーアの姿は、月の女神を思わせた。
わずかに開いたドレスの胸元は月光で青白く夜に照らし出され、美しく輝くその姿は女神の象徴である純潔を体現しているようだった。
今すぐにでも抱きしめたい衝動を抑えてエルンストはフィーアの手を取った。
「とても綺麗だ」
それ以外の言葉が見つからない。
甘く濡れる唇はかすかに動く。
「ありがとうございます」
かすれた声は、フィーアの気持ちをエルンストに伝えた。
激情が体中をかけめぐる。
まとわりつく夏の香りをエルンストは振り払った。
「お前を愛していいか」
答えはない。
理性が意識の最奥に沈み、熱情が心を満たした。
静寂が支配する世界に二人の吐息が重なる。
偶然の出会いが永遠を引き寄せた瞬間だった。
美しいフィーアの肢体は月明かりに照らされ横たわっている。
わずかに震える体は心とは裏腹に冷たく、熱を求めているかのようだった。
氷をゆっくり溶かすように、エルンストはフィーアに熱を伝え、その熱でフィーアから溶け出した水滴が体を濡らしてゆく。
エルンストの冷めやらなぬ唇と指先はフィーアを愛し続けた。
沈黙よりも深い夜に。




