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蛍の丘 8

 フィーアはまさかエルンストが宮廷で貴族の娘を抱こうとしていたことなど知る由も無かった。


 自室でひとり窓辺にもたれていた。

 ふと自身の体を抱きしめる。

 エルンストに抱きしめられた温もりが、まだ残っている気がした。


 あれは夢。あれは幻。フィーアの頬を熱いものが流れる。

 初めての恋が、自分を苦しめるとは思わなかった。

 そして、愛することだけでは満足できないことも知った。

 抱きしめられた高揚感も、肌が触れ合う温かさも忘れられない。

 

 いけないと分かっていながら取ってしまったエルンスト様の手。  

 後悔しても遅いのに。

 本音と建前がせめぎあう感情の中に、自分自身が翻弄されている気分だった。


 泣き濡れるフィーアの耳に、静けさを破る蹄の音が聞こえた。それは明らかに屋敷に向かっている。しかもかなりのスピードで。


 こんな時間に訪問者なんてありえない。

 エルンストはお城に泊まると連絡がきていた。

 何か良くない知らせかも。フィーアに緊張が走る。


 涙をぬぐい、窓から身を乗り出し闇に眼をこらしていると、音はさらに近づき、黒い影も大きくなってくる。


 ご主人様!?


 夜着に着替えていたフィーアはストールを羽織ると、エントランスへ走った。

 とにかく鍵を開けなければならない。

 入浴されるかもしれないし、お食事は?


 慌てて部屋を飛び出してきたせいで、靴を履いていないことに気づいたけれど、素足のまま玄関ドアに駆け寄ると鍵を回し、扉を開けた。


 目の前にはエルンストが立っていた。


「お帰りなさいませ。今日はお城にお泊りだとばかり——」


 フィーアの体がフワリと浮いた。


「ご主人様!?」


 無言のままエルンストはフィーアを馬の背に乗せると、自分もまたがり闇に向かって走りだした。


 もの言いたげなフィーアに向かって、


「いいから掴まっていろ」


 それだけ言って視線を前に戻して手綱を操る。

 フィーアはエルンストの胸に体をあずけた。でないと転げ落ちそうだ。

 漆黒の闇には蹄の音だけが辺りに響く。

 

 どこへ向かっているの?


 不安になりながらも、フィーアはなすがままでいるしかない。

 馬は速度を変えることなく、迫る闇を切り裂くようにひた走る。

 無意識に視線を移した暗い森の中は、魔物や亡霊が出て来そうでフィーアは身震いする。

 怖くなってエルンストに掴まる指に力を込めた。

 

 いつまでも続く闇に気が遠くなりそうだった。朦朧とした意識が闇に吸い込まれそうになった時、フィーアを抱くエルンストの指に力がこもって現実に引き戻される。


 永遠に続くと思われた闇は終わりを告げるがごとく、馬は速度を徐々に緩め、そしてゆっくりと歩き出す。


 フィーアの知らない場所だった。

 森を抜けると急に視界が開けた。視線の先には小高い丘に膝丈くらいある草の原が広がっていた。

 馬は草をかき分けながら進む。


「どうどう」


 エルンストは馬を止め先に降りると、フィーアに腕を差し出した。降りてこいと言うのだ。


 戸惑いながらもエルンストの腕に飛び込む。

 そのままフィーアを胸の前で横抱きにすると、エルンストは歩き出す。


「あの、ご主人様」

「静かに」


 そう言うと、フィーアをそっと草の上に降ろした。


「俺たちが来たから驚いているんだ。静かにしていたらじきに現れる」


 背の高い草が膝をくすぐり、素足に冷たい土の感触が伝わる。


 一体なにが現れるのかしら。


 今夜は新月で、空の星々は誇らしげに輝いて見えるけれど、闇は深く、そして音のない世界があった。

 それはまるで、二人で深い海の底に沈んでいるようだった。

 

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