蛍の丘 3
いつものようにエルンストが帰宅し、フィーアは湯殿でエルンストの背中を流していた。
「背中を洗ってくれ」
「はい」
型どおりの会話だった。
と、言うよりフィーアは心ここにあらずだ。
エルンストも異変を感じ取っているようで、フィーアに話しかけるのをためらっているように見えた。
エルンストが口を開いたのは、フィーアが背中にお湯を流しているときだった。
「今日は仕事が終わったら、夜着に着替えず私服で待っていろ」
エルンストが話しかけたにもかかわらず、返事をしない。
「おい、聞いているのか」
「え?」
ぼんやりしていた。
「皆が寝静まったら、二人で屋敷を抜け出すから夜着ではなく私服でいろと言ったのだ」
「抜け出す?一体どちらへ」
「それは言えん」
「あの、今夜は明日の朝食の仕込みに時間がかかるみたいで」
「構わん、待っている」
「それに、今日洗濯物が沢山あって疲れています。どうかお許し下さい」
感情に押し流されてしまったことをフィーアは後悔していた。
私たちに未来は無いのだから。
昼間、ルイーザと話して気づかされた。身の程を知らなければならない。
「では、明日にするか」
「ヘレナさんに抜け出したことが知れれば大変です」
エルンストは振りかえりざまにフィーアの両肩をつかんだ。
「どうした?」
「いやっ、離してくださいっ」
「なっ!?」
フィーアの思いもよらない反応に、エルンストは困惑したようだった。
「フィーア?」
「お願いです、離して」
強い力でエルンストの手を振り払う。
フィーアのグレーの瞳からは大粒の涙が流れている。
「どうした」
フィーアは抱きしめられていた。
「いや、うっ・・・うっ」
フィーアの手に握られていた手桶はその手から滑り落ち、大理石の床に静かに落ちた。
どうして、私を愛そうとするの。
捨て置いてくれれば、こんなに苦しまなくて済んだのに。
私は——パンドラの箱を開けてしまった。
「落ち着け、何があった」
エルンストの声は優しかった。
それがフィーアを余計に切なくさせる。
奴隷でよかった。
この人に会わなければよかった。
愛してはいけない人を愛してしまった。




