第一章 -12-
「そんな。諸魚だってあなたの子でしょう」
「今は石上の家を守ることが先決だ。それをかなえるためなら、私は手段を選ばない。もしお前がへまをやったら、諸魚と共に追い出して、二人とも生きてはいけないようにしてやる」
「では、何としても乙麻呂に後を譲れと」
「そうだ。お前が役目を果たせないような病気になったり、老いて隠居するようなことになったら、その時は速やかに石上の総領の地位を乙麻呂かその子供に譲れ。そうなるように、すでに主だった家臣たちには命じてある。彼らはすべて布留宿禰家に縁のある者たちだから、お前がいくら自分の味方に引き入れようとしても無駄だ。領地や財産についても同様で、全ては私の遺言通りに管理され、お前には朝廷からの官給だけが渡される手筈になっている。勝手に処分はできない」
「では、一体私は何のための跡取なんです」
「朝廷に出仕し、勤勉に働き、石上の家名を汚すな。今ある石上の地位をそっくりそのまま保つだけでよい」
「私にできるのはそれくらいだと」
「お前はただ黙って自分の役目を果たせ。良いな」
父はその血走った目でじっと堅魚を見つめている。
堅魚は思わず立ち上がり、拳を握り締めて父に対峙した。
そして、とうとう引き絞るような声で叫んだ。
「どうしてそこまで私を……私もあなたの実の子ではないのですか。あなたにとって、私は一体何なのだ」
堅魚の頬は紅潮し、瞳には悲痛な光があった。
その瞳から、知らぬうちに涙が零れ落ちる。
父は呆然とそれを見ていた。
無表情でただ冷たい黒玉のようだった目が、次第に狼狽したように揺れる。
その瞳の奥には、堅魚には理解できないある奇妙な表情が浮かんでいた。
父は俄かに身を震わせ、何かから逃れようとするかのように腰を浮かせる。
だが、身体はもはや自由に動かず、寝床の上を這いずるばかり。
驚いた堅魚が手を差し伸べようとすると、父は悲鳴のような細い声をあげて目をつぶり、闇雲に両手を振るってその手を避けようとした。
そして、寝床の端まで無理に身体を引き摺って行くと、堅魚から逃れるように身を縮める。
なおも堅魚が近づこうとすると、父はとうとう引きつった顔を上げ、堅魚に向かって何かを叫ぼうとした。
だが、その叫びは言葉にならず、代わりに父の唇から溢れ出たのは夥しい鮮血だった。
堅魚は気を動転させて、周り中に血を飛び散らせている父の身体に縋りついた。
父は堅魚を跳ね除けようと身を捩ったが、もはやその力は残っていないらしい。
父は何度も咳き上げるようにして血を吐き、堅魚の必死の呼びかけも既に耳に入らぬようだった。
堅魚の腕の中で、父の顔は見る見るうちにどす黒く変わり、瞳は色褪せて光を失っていく。
左大臣正二位石上朝臣麻呂は、その夜のうちに死んだ。
そして、全てはその遺言通りになった。