第一章 -11-
「何と。石上の神宝までが失われたのですか」
「そうだ」
「でも、私が石上にいる時には、神官たちは何も騒いではいませんでしたよ」
「今、石上に祭られているのは、私が作らせた偽物だ。大事な神宝を長く留守にさせるわけにはいかぬからな。豊庭に石上から持ち出させた後、私が密かに偽物を本物といつわって返しておいた」
平然と父はそう嘯いた。
何という罰当たりな話だろう。
内心では神を信じきっているわけではない堅魚でさえ、石上の神罰が下るのではないかと恐れ戦いたくらいだ。
「どうして、そこまでして、首皇子に拘るのですか。首皇子は我が石上氏とは何の関わりもない。むしろ、皇子を戴いている藤原氏は、我らにとっては政敵でしょう。それなのに、一族に伝わる神宝を、惜しげもなく差し出すなんて」
堅魚は思わず父に食って掛かった。だが、父は堅魚を蔑むような眼差しで言い返すだけだった。
「お前などにはわかるまいな。だが、今は奴らに逆らうべきではない。下手に動いて奴らの疑念を招けば、必ず我らは滅ぼされる。それだけの力を、今の奴らは持っているのだ。だが、そのうち我らにも好機がやってくる。その時のために今は力を蓄え、それまでせいぜい奴らに恩を売っておくことが大事なのだ」
「でも、兄上の命まで犠牲にするとは」
「そのつもりはなかった。あの豊庭なら、必ずことを成し遂げて帰京すると信じていたのだ。だから、あれのことだけは無念でならぬ」
父は苦しげに眉根を寄せた。
その瞳に光るものがある気がして、堅魚は愕然とした。
自分には決して向けられない父の愛情。
兄には確かにそれが注がれていたのだと感じて、堅魚はまたもやひどく傷ついた。
兄のことを思い出して心が痛んだせいなのか、父は更にみぞおちを押さえてうめき、苦しげに身を屈める。そして、意を決したように顔を上げると、堅魚の目を正面から見据えながら言った。
「豊庭が出雲へ発ってから、もう半年になる。病で伏していると朝廷には届け出てあるが、そんな言い訳はいつまでも通用しまい。だが、私はこんな有様だ。もう長くはないだろう。だから、これから先のことを、お前に託そうと思う」
「私に……」
「今からお前に申し渡すことを、肝に銘じてよく聞くがいい。私が死んだら、一年間は喪に服して豊庭を待て。もしかしたら、あれが帰ってくるかも知れぬ。豊庭ほどの男が、おめおめと出雲で命を落としたとは、私はどうしても信じられないのだ。だが、それでも豊庭が戻ってこなかったら、お前が石上の家を継げ。ただし、それには条件がある」
「条件?」
「お前が生きている間は、石上の総領の地位はお前にやる。だが、それをお前の子に継がせてはならぬ。諸魚にもだ」
「では、誰に」
「乙麻呂に継がせろ」
「なぜです」
「訳をお前に話すつもりはない。お前はただ私が命じる通りにすれば良いのだ。これが私の遺言。決して違えてはならぬ」
有無を言わせぬ父の口調に、我慢強い堅魚もついに激しい反駁を覚えた。
堅魚は唇を噛み締めながら俯き、身体を小刻みに震わせて呟いた。
「どうしてです。今まで石上に放っておいたくせに、今更私を宛てにするなんて虫が良すぎる。それに、私はただの中継ぎですか。私にはこの石上家を支えていく器量がないと。そんなに私が気に入らないのなら、今すぐ乙麻呂に後を継がせればよいでしょう」
「それはまだ無理だ。乙麻呂はあまりにも頼りない。二十歳を過ぎたというのに、まだ女の尻ばかり追いかけまわしている子供だ。あれでは、到底藤原の一族には太刀打ちできぬ。今あれに後を継がせれば、きっと石上の家を食いつぶしてしまうだろう。お前なら、乙麻呂より少しはましにやっていける」
「さあ、どうでしょうか。私だっていつ投げ出すかわかりませんよ。元々家なんか継ぎたいわけじゃない。いつ出て行っても良いんだ」
怒りのあまり、堅魚は声を詰まらせながらそう言った。
だが、父は冷たい面持ちで堅魚に問うた。
「そうすると、諸魚はどうなる。あれを一人見捨てて出て行くのか」
「いや、そんなことは」
「たとえ、お前と一緒に出て行ったところで、あのように身体が弱ければそのうち持て余すのが関の山だ。苦労をさせれば、せっかくお前が今まで守ってきた命も永らえ得まい。それでも良いのか」
父は冷酷に堅魚へ告げる。
「お前が中継ぎとしての役目をきちんと果たしている限り、諸魚の身は安泰だ。可能な限りの薬石を惜しまず投じ、この屋敷で何の心配もなく暮らしていけるよう手配しよう。しかし、もしお前が私の遺言に背くような真似をしたり、我らの秘密をもらすようなことをしたら、諸魚の命はないものと思え」




