第一章 -13-
目の前を、小波をきらめかせた小川が流れている。
川縁には葦が生い茂り、むっとするような草いきれの匂いに満ちていた。
堅魚は鋭い葦の葉先を避けながら、水辺に下りて両手を浸した。じんと染みるような水の冷たさが、夏のほてった身体には心地良い。
ここがもし、大宰府政庁の前を流れる御笠川ではなく、故郷石上の布留川の辺であったなら、堅魚は間違いなく着ているものを脱いでこっそり水に飛び込んだだろう。子供の頃、よくそうしたように。
堅魚はふと寂しげな苦笑をもらした。
布留川は布留の里と石上神宮の神域との境界であり、堅魚はその川を渡ることを許されてはいなかった。
でも、子供にとって、川はもっとも魅力的な遊び場だ。
夏になると、堅魚はよく石上の森を抜け出して川辺に降り、こっそりそこで泳いだり魚を捕まえたりした。
石上の神官や対岸の里人に見つからないように、水音を立てることさえ恐れながら、一緒にいる友すらもなく……そっと一人で遊んでいた幼い自分の姿が瞼に浮かぶ。
布留川を渡って、布留の里まで行ってみようかと思ったことがないわけではない。
だが、堅魚は決して川の中程より先に進んだことはなかった。成長して、その川を十分泳ぎきるだけの力を得てもなお。
堅魚には、その頃からすでにわかっていたのだ。
自分は外の世界からは歓迎されない人間なのだと。
理由は知らない。
でも、誰にも気づかれずにいることが、自分にも自分の身近な人々にとっても一番良いことなのだ。
今でも、堅魚は無意識のうちに人目を避けようとしている自分に気づく。きっと、幼い頃からの習い性なのだろう。
そんな寂しい幼い頃の自分と、正反対の明るい呼び声が、遠くから聞こえて来た。
堅魚が葦原を掻き分けて川堤へ上がると、埃っぽい大宰府の大路の先に、数人の従者を引き連れた家持の姿が見える。
堅魚を見つけると、家持は堅魚へ手を振りながら駆け寄って来た。そして、息を弾ませながら、笑顔で堅魚に言う。
「お探ししましたよ。こんなところで何をしているのですか」
「せっかく遠い国へ来たのだからね。急いで帰る必要もないから、この辺りをいろいろと見て周ろうと思っているのだ」
「でも、お供の方も連れずに」
「私は一人でいるのに慣れているからね。その方が気兼ねもなくて良い。それより、私に何か用かな」
「はい。父から、この間記夷城で歌を詠んだ時の懐紙を頂いてくるようにと」
大伴旅人は古い武門の家を受けついた武人であり、有能な朝廷の官人でもある。だが、それ以上に旅人の名を高らしめたのは、その和歌や漢詩の才であった。
そのせいか、旅人を囲む宴席ではその歌を聞きたいと望む客が多く、やがて必ずと言って良いほど和歌を互いに詠み合う歌会めいたものとなる。
記夷城でも、堅魚は妻を失った旅人を慰める歌を懐紙へ書いて贈り、旅人はそれに返歌をしたためて贈り返したのだった。




