第38章
クーパーウッドが再び現れる前に、トリファーが颯爽と現れた。シルクハットと杖をウィリアムズに手渡し、アイリーンの寝室のドアまで足早に進んで、ノックした。
「あら!」アイリーンはトリファーに声をかけた。「主人が来て、身支度をしているところよ。あたしもすぐに行きます」
「わかりました! 他のメンバーも、もういつ見えてもいい頃です」
そう言うそばで、かすかな物音がしたので振り向くと、ちょうどクーパーウッドが別のドアから応接室へ入ってくるのが見えた。二人は互いに確認の視線をすばやく交わした。自分の義務を自覚しているトリファーは、素早く前に出て心から出迎えた。しかし、クーパーウッドは相手よりも先に挨拶した。「やあ、またお会いしましたね。パリを満喫していますか?」
「それはもう存分に」トリファーは言った。「この時期は、特に楽しいですからね。いろいろな人に出会いましたよ。天気も最高でした。春のパリはご存知なんでしょ。私も最高に楽しくて、最高にすがすがしい時期なんだと知りました」
「今夜、我々は家内のゲストになるそうですね」
「はい、他にも数名います。あいにく、少し早いですね」
「何か飲むとしようか」
二人はロンドンとパリについて他愛のない会話を始めた。どちらも懸命に自分たちの関係を無視し、どちらも上手にやっていた。アイリーンが入ってきてトリファーに挨拶した。それからイブラヒムが到着した。クーパーウッドを自分の土地の羊飼いのように無視して、アイリーンにお世辞を言い始めた。
クーパーウッドは最初は少し驚いたがその後は面白がった。アラブ人の輝いている目に興味がわいた。「面白いな」と内心で思った。「このトリファーという男は実際にここで何かを作っているのだ。そして、このローブを着たベドウィン族は、家内をほしがっている。これは、すばらしい夜になるぞ!」
次に登場したのは、マリゴールド・ブレイナードだった。彼女の個性はクーパーウッドを喜ばせた。その評価は互いに一致しているようだった。しかし、この接近は、クリーム色の白いショールを巻き、片方の腕と足のあたりに長い絹のフリンジを垂らした、穏やかでエキゾチックなリッツシュタットの到着によってすぐに中断された。クーパーウッドは、なめらかな黒い髪にとても魅力的に縁取られ、ぶらさがって肩までとどくほどの重たい黒玉のイヤリングをした、オリーブ色の顔に見とれた。
クーパーウッドを観察して、ほとんどの女性と同じように感銘を受けたリッツシュタット夫人はすぐにアイリーンの苦労を理解した。これは一人の女性のための男性ではなかった。一口飲むだけで満足しなければならないのだ。アイリーンにこの真実をわからせてあげないといけない。
しかしトリファーが、そろそろ出発する時間だとやきもきしてせかすので、みんなは彼の言葉に従ってオーシグナットに向かった。
半分がバルコニーの個人のレストランは、開いたフランス窓から、ノートルダムとその前の緑の広場を一望できた。しかし、中に入ってみると、何もない木のテーブルがひとつそっくりそのままあるだけだったので、全員がどうもディナーの準備ができていないようだと言った。最後に店に入ってきたトリファーが叫んだ。
「これは一体どういうことだ? さっぱり、わからん。何か手違いでもあったかな。我々が来るのはわかっているはずなのに。お待ち下さい、私が行って見てきます」トリファーは素早く向きを変えて姿を消した。
「あたしにもわからないわ」アイリーンは言った。「てっきり、準備万端かと思ってたのに」そして眉をひそめ、口を尖らせ、最高にいらいらしているようだった。
「おそらく、違う部屋へ案内されたのでしょう」クーパーウッドは言った。
「店に話がいっておらんのかな?」族長がマリゴールドに言っていると、隣の配膳室のドアが突然開いて、道化師がものすごく心配そうに駆け込んできた。これはパンタローネそのものだった。背は高くて不格好、服装はいつもの星と月を縫ったスリップで、頭はふさふさ、耳はドーランで黄色く、眼窩は緑、頬は鮮紅色、手首と首のまわりはヒダ襟と腕輪、とんがり帽子の下から髪がいく房もはみ出し、両手に大きな白い手袋をつけ、足には長い殻ざおのような靴を履いていた。ある種の狂人のような苦悶と絶望にまみれながら周囲を見回して叫んだ。
「ああ、神さま! 何てことだ! おや、ご婦人に殿方! これは……おっ、これは……おお、テーブルクロスがない! 銀の食器がない! 椅子がない! お許しを! お許しを! これは何とかしなくてはなりませんな! お許しください、奥方、殿方、何か手違いがあったにちがいない。何とかしなくてはなりませんな! ああ!」そして、長い手をたたいてドアの方を見つめ、すぐにでも使用人の群れが自分の命令に応えるにちがいないとばかりに、道化師は待ったが、何の反応もなかった。それからもう一度手をたたき、道化師は片方の耳をドアに向けて待った。そんなことをしても物音一つ聞こえてこない。道化師は見物人の方を向いた。もう事情のわかった見物人は壁際に引き下がり、道化師に舞台を譲った。
唇に指をあてて、つま先で歩いてドアまで行き、耳をすませた。いっこうに、物音一つしない。かがんで鍵穴をのぞき込んだあと、今度は頭をこっちに傾けて、見物人を振り返り、驚くほどのしかめっ面をして、また唇に指をあて、片目を鍵穴にくっつけた。終いには後ろに飛び退き、そうする間にべったり倒れ、それから飛び起きて後ずさりした。するとドアが開け放たれて六人のウェイターがテーブルクロス、食器、銀器、グラス、トレイをかかえて……整然と事務的に行列を作って……道化師には目もくれずにテーブルの支度を始めた。一方で、道化師は飛び跳ね、騒々しく叫んでいた。
「よし! よし! やっと来たな? 豚どもめ! なまけものどもめ! 料理を並べろ! 皿を並べるんだ、ほら!」これをすでにすばやく器用に皿を並べている男に向かって言い、銀器を並べているウェイターに向かっても言った。「銀の器を並べろって言ってんだ! ほおら、静かにやるんだぞ! 豚野郎!」並べたそばからナイフをひろいあげて、ぴったり同じ位置に置き直した。グラスを並べていたウエイターに向かって叫んだ。「だめ、だめ、だめ! のろまめ! 物覚えが悪いな? 見てろ!」そしてグラスを持ち上げて、ぴったり元の位置に置いた。それから、脇に寄ってグラスをながめて、ひざまづいて目を細め、小さなリキュール・グラスを千分の一インチだけ動かした。
もちろん、この余興が続いている間、イブラヒムを除く全員が交互に微笑んだり、笑ったりした……イブラヒムだけこの一部始終を怪訝そうに見ていた。道化師が給仕長の踵にぴったりくっついて進み、時々実際に彼を踏みつけると特に盛り上げった。その間、ウエイターは道化師が見えないふりを続けた。ウエイターが退出すると、道化師もその後につづき、振り向きざまに叫んだ。「さっそく、一杯食わされましたな! では!」
「よくできた見世物ですね!」クーパーウッドはリッツシュタット夫人に言った。
「あれはヨーロッパで一番の道化師トロカデロのグレリザンだわ」夫人は言った。
「まさか!」マリゴールドは叫んだ。彼のユーモアについての彼女の評価は、その高名を知らされて急速に高まった。
最初は心配でたまらなかったが、この思い切った見世物の成功で得意になり、アイリーンは喜びで輝いた。クーパーウッドがアイリーンとトリファーの創意工夫を褒めることにしたので、もうグレリザンにできることでアイリーンが面白く思えないものはなくなった。しかし明るい赤のトマトスープみたいなもので一杯の大きな銀の深皿を運んでいる間に、彼がつまずいて倒れたときは、一瞬ひやりとさせることがあった。息を呑む音や悲鳴や笑いを誘いながら、鮮やかなオレンジ色の紙吹雪が、巧みに宙を舞ってゲストの上に降り注いだ。
グレリザンはまた食料庫へ急いで戻り、今度は角砂糖バサミでクルトンを一つだけ持ってきて大げさに指図しながら、入ってくるウエイターたちのあとを何度でもついて行った。その一方で、ウエイターたちは丁寧に料理の支度を整えた。
氷に似せたものが最後に出てきた。それぞれの表面の下は、もろいふくらんだ風船があって、フォークで穴を開けると中の物が現れた。クーパーウッドにはロンドン市の鍵、アイリーンにはハサミを手にしたリチャードのお辞儀をした笑顔の人形、リッツシュタット夫人には彼女が旅した場所の全てを点線で結んだ小さな地球儀、イブラヒムには族長がまたがる小さな馬、トリファーにはゼロの目が出た小さなルーレット、マリゴールドにはひとつかみほどの男のおもちゃの人形で、兵隊、王様、色男、画家、音楽家などがいた。これはたくさんの笑いを誘った。コーヒーが済むと、グレリザンはみんなの拍手に応えて一礼して退場し、クーパーウッドとリッツシュタット夫人は歓声を上げた。「お見事! お見事!」
「ああ、愉快だわ!」夫人は叫んだ。「彼に手紙を書こうかしら」
その後、深夜に幕が上がるグラン・ギニョール劇場で、一同は有名なラルートが時の人に扮するのを見た。その後、トリファーがサビナルの店を提案した。そして夜が明けるまでにみんなは、パリのこの夜はすばらしかったと完全に満足した。




