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ストイック  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
35/79

第35章

 

 アイリーンが到着して三日目に、ニューヨークの〈セントラル信託〉パリ支店の財務代理人から追加の二千ドルを現金で受け取ると、トリファーは自分の仕事の重みを実感させられた。出発する前に、ロンドンとパリの事務所に住所を知らせておくよう連絡を受けていた。

 アイリーンがトリファーの言うことを聞く気になったのは間違いなかった。サビナルの店を訪れて約五時間後にアイリーンに電話をして一緒にお昼を食べようと提案したとき、その声の調子から、またトリファーの声を聞けて喜んでいるのがわかった。アイリーンを幸せにするのは、自分に個人的な関心を持ってくれそうな誰かとの交友を感じることだった。ある意味、トリファーは昔のクーパーウッドによく似ていて、精力的で、親身で、少なからず管理能力があった。

 トリファーは口笛を吹きながら電話を離れた。アイリーンに対するトリファーの態度は、最初にこの仕事を考えたときよりも優しくなった。これまでアイリーンを研究してきて、クーパーウッドの好意や愛情がアイリーンにとってどういう意味があったのか、そしてその完全な喪失はアイリーンにどんな結果をもたらすのか、十分に理解できた。トリファー自身も気分屋になりがちだった。似てなくもない理由で、トリファーはアイリーンに同情することができた。

 前の晩、サビナル邸で、マリゴールドとソーン夫人が時々とてもさりげなく、何食わぬ顔でアイリーンを会話から締め出したとき、その顔に無視されて為す術がない表情が浮かんだのにトリファーは気がついた。おかげでトリファーはアイリーンをそのグループから連れ出して、しばらくルーレットで遊ばせねばならなかった。間違いなく、世話の焼ける女だった。しかし、これがトリファーの仕事で、この成功にトリファーの将来がかかっていた。

 しかし、まあ、この女は少なくとも二十ポンドは減量すべきだとトリファーは内心で思った。そして、適切な服装と魅力的な特徴のある仕草が必要だ。あまりにも従順すぎるのだ。もっと自分を尊重するように構える必要がある。そうすれは他の人も彼女を尊重するようになるだろう。もし自分がアイリーンのためにこの役目を果たせなければ、お金があろうとなかろうと、彼女は自分に害を及ぼすだろう! 

 自分が欲しいもののために常に懸命に奮闘するトリファーは、すぐに集中して行動を取ることにした。アイリーンへの刺激になるのがこの自分のいかした外観だと意識すると、トリファーは最高に見えるように最大限努力した。六か月前のニューヨークの自分と今を比較してトリファーは微笑んだ。ロザリー・ハリガン、あの惨めな部屋、就職にかけた報われない努力! 

 ボアのアパートは、リッツと目と鼻の先だった。トリファーはパリを気に入っているような態度で朝っぱらから出かけた。いろいろな仕立て屋、美容師、帽子屋を思い浮かべて、アイリーンを作り変えるメンバーに加えようとした。角を曲がった所に、クローデル・リチャードがいた。アイリーンをリチャードのところへ連れて行って、リチャードを説得し、もしアイリーンが二十ポンドやせたら、人目を引くような、そして彼女が真っ先に着るべき衣装をデザインしたいとアピールさせよう。それから、オスマン大通りにはクラウスマイヤーがいた。彼の靴はすべての靴職人の中でも最高だと噂された。そのことはトリファーも認めていた。デ・ラ・ペ通りに行けば、アクセサリー、香水、宝石の店がある! デュポン通りには、この分野で定評のあるサラ・シメールを擁するサロン・ド・ボーテがあった。アイリーンは彼女を知っておくべきだった。

 ノートルダムの向かいの公園を見渡すナターシャ・ルボブスキイのバルコニー・レストランで、アイスコーヒーと卵料理を頼んでずるずると居座り、トリファーはアイリーンに流行のファッションとセンスの講義をした。スペインの有名ダンサー、テレサ・ビアンカがクラウスマイヤーのスリッパを履いている話を聞いたことがありますか? トラー公の末娘のフランセスカも彼のお得意さんの一人なんですよ。サラ・シメールに完成させられた驚異の美容術を聞いたことがありますか? トリファーは十数の例をあげた。

 リチャードのところへ行き、次にクラウスマイヤー、新しくお気に入りに加えた香水のセールスマンのルーティのところをまわり、午後はジャーメイでお茶を飲んで終わった。そして夜九時に、カフェ・ド・パリでディナーがあった。そこにはライトオペラで有名なアメリカ人のローダ・セアーと、彼女の夏のお相手のブラジル大使館次官のメーロ・バリオスというブラジル人が現れた。チェコとハンガリーの血をひくマリア・リッツシュタットも招かれた。トリファーはパリへ来るようになった最初の頃に、フランスにいるオーストリアの秘密軍事代表団の一員の妻だった彼女に会っていた。最近いつだったかマルグリィの店で昼食をしていて、サントス・カストロと一緒にいた彼女に再会した。カストロはフランスのオペラのバリトン歌手で、アメリカの新しいオペラのスター、メアリー・ガーデンの向かいで歌っていた。トリファーは彼女の夫が亡くなったことを知っていたし、彼女がカストロに少し退屈しているようだと気がついた。もしトリファーが自由の身だったら、彼女は再会を喜ぶだろう。そして、彼女の雰囲気といい、生まれつきの知性や、柔らかい大人らしい対応の仕方は、トリファーが知る他の若い女性よりもアイリーンに合いそうに思えたので、すぐに彼女をアイリーンに紹介する計画を立てた。

 そして、紹介の席で、アイリーンは相手に強い感銘を受けた。リッツシュタット夫人は人目を引く容姿の女性だった。背が高く、滑らかな黒髪と風変わりな灰色の目をしていて、今夜はルビーのベルベット一枚のように見えるものを色っぽく体に垂らすようにまとっていた。アイリーンとは対照的で、彼女はまったく宝石を身につけず、髪も顔から後ろにすらっと流されていた。カストロに対する彼女の態度からも、カストロとの関係が彼女にもたらしたかもしれない世間の注目を除けば、彼が彼女にとって大して意味がないことを示唆していた。アイリーンとトリファーの方を向きながら、彼女はつい最近自分とカストロがバルカン諸国に旅行したことを話し始めた。この告白は、二人がただの仲のいい友だちだとトリファーがアイリーンに説明した直後にあった。自分がこっそり内緒で罪深いことをしていても、アイリーンはいつも伝統的な価値観に気を呑まれぎみだったので、これには多少どっきとした。しかし、この女性はとても物柔らかで、組織化された社会の要求を笑うくらいに自信家だった。アイリーンは惚れ込んだ。

「東洋をごらんなさい」リッツシュタット夫人は旅行のときの話をした。「女なんて奴隷よ。確かに、ジプシーだけは自由に見えるわ。もっとも彼らには地位ってものがないんでしょうけど。役人や称号をもつ男性の大半の奥さんは、実際に奴隷で、自分の夫におびえて暮らしているわ」

 アイリーンはこれを聞いて弱々しく微笑んだ。「それは東洋に限ったことではないかもしれません」アイリーンは言った。

 リッツシュタット夫人は賢く微笑んだ。「そうね」夫人は言った。「まあ、そうとは限らないわね。ここにも奴隷はいるわね。アメリカでもそうなの?」夫人はきれいに並んだ白い歯を見せた。

 アイリーンは自分の感情がクーパーウッドに隷属していることを考えながら笑った。どうすれば、こういう女性が、明らかに一切の男性など構わずに、少なくとも深くは気にしないというか精神的に苦しむでもなく、こうも完全に解放されるのだろう。なのに自分ときたら……。アイリーンはさっそく、この女性のことをもっと知りたくなった。付き合ってみれば、彼女の感情の落ち着きや社会をものともしない態度について多少はわかるかもしれない。

 不思議にも、リッツシュタット夫人は、アイリーンに軽い関心以上のものを示したようだった。彼女はアイリーンにアメリカでの生活について尋ねた。パリにはどのくらい滞在するつもりですか? 宿泊先はどこですか? 翌日一緒にお昼を食べましょうと提案するとアイリーンは即座に同意した。

 同時にアイリーンの頭は午後の用事のすべてと、その中でトリファーが関係する部分のことでいっぱいだった。最も確実に、買い物という楽しい遠回しなやり方で、個人的に欠けているものがアイリーンに伝えられ、同時に改善できることが確信させられた。医者、マッサージ師、食事療法、顔のマッサージの新しい方法まで用意された。自分が変えられようとしている。それもトリファーによって。しかし、何が目的だろう? 最後はどうなるのだろう? 明らかに、親密になろうとしているわけではなかった。そこにはプラトニックな関係しかなかった。アイリーンは当惑した。それにどんな違いがあるのだろう? クーパーウッドは関心を示さなかった。アイリーンは生きていくために何かの方法を見つけなければならなかった。

 ホテルの部屋に戻るとアイリーンは突然、ある人のことがものすごく恋しくなった。世界中でもその人になら悩みを打ち明けられ、リラックスできて自然体でいられる相手だった。その人の批判なら恐れる必要がなく、その人が自信を持って言うことなら信頼できる、そんな友人を好きになろうとしていた。別れ際にアイリーンの手を握りしめたマリア・リッツシュタットには、この人の中ならそういうものを、あるいはそれに似たものを、見つけられるかもしれないと感じさせる何かがあった。

 しかし、アイリーンがこの訪問に計画していた当初の十日はあっという間に過ぎた。実際、日数がたっても、アイリーンはロンドンに戻る気にならなかった。アイリーンはふと思ったのだが、トリファーがアドバイスをするだけでなく、技術を持つスタッフまでそろえて、肉体や美容の改善となる活動を開始していたからだ。これには時間がかかるし、さらにはクーパーウッドの態度が変わる結果を生むかもしれなかった。自分は年を取っていないし、この無我夢中のビジネスの戦いに巻き込まれている今ならクーパーウッドは官能ではなく、愛情に基づいて自分を受け入れてくれるかもしれない、とアイリーンは内心で思った。クーパーウッドはイギリスで、社会的な生活の安定を必要としているから、もっとしょっちゅう自分と一緒に生活することが、そうすることに関心があって満足していることをもっと大っぴらに世間に宣伝することが、得策であり好ましい、と気がつくかもしれないと想像した。

 だから、アイリーンはとても熱心に鏡で自分の姿を点検したり、サラ・シメールに毎日与えられる食事療法や美容の指導に従うよう徹底して取り組むことにした。自分のために選ばれた独特な衣装の効果を認識し始めた。やがて急速に自信を深め、それにつれて落ち着きを取り戻し、常にクーパーウッドのことを考えるようになり、再会したとき、きっと驚き、願わくば喜んでくれると期待して胸を膨らませるほどだった。そのため、体重を少なくとも二十ポンド減らして、リチャードが自分のために熱心に考案してくれた作品を着られるようになるまで、パリに残ることに決めた。それに美容師が提案してくれた新しい髪型も試してみたいと思った。ああ、これがすべて無駄にならなければいいのだが! 

 その結果、アイリーンはクーパーウッドに手紙を書いた。パリ旅行はとても面白いです……トリファーさんのおかげです……もう三、四週間こちらに滞在するつもりです。「人生で初めて」アイリーンははしゃいだ感じで付け加えた。「あなたがいないのに順調にやっています。ちゃんと面倒をみてもらっています」

 クーパーウッドはこれを読んで、妙に悲しくなった。何しろ、このすべてを巧妙に仕組んだのは自分なのだ。同時に、これにはベレニスも一枚噛んでいたとの思いが脳裏をよぎった。そもそも、これはベレニスの提案だった。クーパーウッドはこれが彼女と幸せになる唯一の方法だと考えた。そしてその通りになった。それにしても、これほど抜け目なく冷酷に思いつける頭脳とは一体どんなものなのだろう? いつかそれが自分に向けられる日が来るのではないだろうか? あれだけ大事にしたのに、どうだろう? そう考えると腹立たしかった。それを振り払うためにクーパーウッドは、あらゆるものに出会ってきたように、時が来ればそれにも出会うだろうと考えた。

 


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