【結】恋/故意の結末
睨み合っていたのは、時間にして数分だと思う。
いつまで続くのかという永遠にも思えた睨み合いは、樋代勇一が目を逸らしたことで終わりを告げた。
ヴァーストスの言った通り、樋代勇一は私を斬ることはできないようだ。
……巫女は平気で斬り捨てていたのにね。
真実を知った際、私の目にも巫女たちが骨に見えたように、樋代勇一の目に巫女たちは最初から骨に見えていたのかもしれない。
動く骨と人の姿をした私ならば、たしかに斬り捨てることには躊躇いもあるだろう。
樋代勇一は、完全に日本の高校生男子と言えないような殺人鬼にはなっていなかったようだ。
「勇者よ、悪神と聞かされてきた私の言葉は聞き入れ難かろう。ならばこそ、己の足で世界を歩き、己の目と耳で世界を確かめて来るがいい。この世界では神がいずとも、いなかったからこそ、命に溢れ、人々は心を失くした」
以前の勇者がヴァーストスを討つまでは、この世界は正常な命の営みが行われていた。
命は生まれ、育ち、新しい命を育み、次代へと繋いで消える。
そのサイクルを繰り返して世界を回していたというのに、ヴァーストスが封じられることで均衡が崩れた。
次代へと繋いで消えていくはずの命が地上に留まり、次々に生まれてくる次代の命たちで地上はすでに限界をむかえている。
幸いにも以前の勇者がヴァーストスに留めを刺し損ねたからこそ、完全に『死』が失われずに今日まで世界は生き延びることができた。
今度の勇者が完全にヴァーストスを殺してしまえば、『死』を失った命は首を刎ねられても生き続け、永遠の痛みにもがき苦しみ続けることになっただろう。
食べるために捌かれた獣の肉も同じだ。
取り出された内臓は永遠に蠢き続け、腐ることはない。
「……俺は勇者だ。召喚の勇者だ、と言われてこの世界に呼ばれた。復活しつつある悪神ヴァーストスを討つために呼んだ、とずっと聞かされてきた。おまえの言うことを、そう簡単には信じられない」
でも、と言葉を区切り、樋代勇一の視線が私へと向けられる。
樋代勇一の事情は知らなかったが、彼の姿は以前学校で見かけたものとはまるで違う物になっていた。
私とは比べ物にならない程の時間を、この世界で過ごしてきたのだろう。
「……俺は相薗さんを信じたい。相薗さんが信じる相手も信じたい」
しばらくは私を預ける、と言って樋代勇一は去っていった。
ヴァーストスの言葉をそのまま信じることはできないが、「悪神である」と自分を召喚した人間たちに与えられた情報をそのまま信じるよりは、自分の目と耳で世界を知りたくなった、と言って。
「樋代くんは、あれで考えを変えてくれるでしょうか?」
「勇者として召喚されたものだ。真実を見極める資質はあるだろう」
世界を巡った樋代勇一がどう理解しようとも、結果は変わらない、とヴァーストスは言う。
私がヴァーストスの側にいる限り、樋代勇一はヴァーストスを殺すことができない、と。
「梨乃は私の予見通り、見事勇者を倒し、私を守ったな」
「勇者を倒した覚えはありませんが、ヴァーストス様が討たれなくて良かったです」
同級生だからこそ、巫女たちのように斬り捨てることができないと思ったのだろう、と考えて、首を傾げる。
樋代勇一の同級生であれば誰でも良かったというのなら、ヴァーストスが連れてくるのは私でなくとも良かったはずだ。
クラスも違う、一方的に顔を知っている程度の同級生よりも、級友の方が確実に役に立てただろう。
……あれ? そういえば、樋代くんはなんで私の名前を知っていたの?
クラスも違う同級生の名前など、普通そんなに覚えているものだろうか。
樋代勇一のように、学校のアイドル的存在であったのならそういうこともあるかもしれないが、私はそんな存在ではない。
教師受けの良い、実に生真面目でつまらない生徒だ。
「樋代くんがヴァーストス様を狙うことを止めてくれたら、私の役目も終わりでしょうか?」
「そうだな。約束どおり、元の世界へと帰そう」
樋代勇一が勇者としてヴァーストスを討つことを諦めれば、ヴァーストスは神としての力をとり戻すことができるらしい。
力を取り戻したら役目を果たし、そのまま私を元の世界へと返してくれる予定でいるようだ。
「……ヴァーストス様のお役目とは、人を殺すことですね」
「そうだ。人間だけではないが、地上に命が増えすぎた。たまに間引き、己の無力さ、隣人への信頼、他者への思いやりの心を思いださせねばならん」
特に人間は放っておくと勝手に殺し合い、滅んでしまう種族なのだ、とヴァーストスは苦笑を浮かべる。
人間という種の性質を嘆いているようだが、愛おしんでもいるのだろう。
金色の瞳が、とても優しそうに輝いている。
「ヴァーストス様は、人間がとてもお好きなのですね」
「そうだな。我々(かみ)とは違う生き物だ。見ていて飽きない」
おまえも好きだぞ、とヴァーストスの手が伸びてきたので、その手へとそっと頬を寄せる。
恋した人に「好きだ」と言葉を貰い、背筋が震えるほどに嬉しくて、そして悲しい。
ヴァーストスの私への好意は、他の命へと向けられる物となにも変わらないものだと、今解った。
私は『その他大勢の人間』と何も変わらない。
ただ樋代勇一を止めるためだけに選ばれ、連れてこられたのだ。
……初恋は叶わないって、言うしね。
今代の勇者である樋代勇一の襲撃の後、静かな生活が続く。
私が真実を知ることで都市の姿を偽る必要はなくなったので、私の目に映る死霊都市は廃墟のままだ。
かろうじて形の残った小さな瓶を見つけ、泉の水を入れて都市の外れに生えた細い桃の木へと水を運ぶ。
死霊の巫女たちは都市に生えた桃の木に喜び、これならば私の喉にも通るはずだと貧相な桃を採取したがったが、これは止めた。
まだまだ桃は成熟していなかったし、私の食事はヴァーストスがどこかから運んできてくれている。
なんとか生きているといった風体の木から、実を奪うのは忍びない気がした。
樋代勇一が再び姿を現したのは、十日ほど過ぎた頃だ。
神や勇者がいる世界らしく、この世界には魔法もあったらしい。
転移の魔法で死霊都市へと現れた樋代勇一は、肩から血を流し、背中には二本の矢が突き刺さっていた。
「樋代くん!? 何があったの? その怪我は……」
とにかく早く治療をしなければ、と考えて周囲を見渡し、死霊都市には何もないことを思い出す。
綺麗な水で傷口を洗うにしても、死霊都市でそれが出来るような場所はヴァーストスがいる泉だけだ。
とりあえず当て布で傷口を押さえ、樋代勇一を泉へと連れて行く。
巫女たちは樋代勇一を歓迎することはできないようだが、それでも傷ついている者を見捨てることもできないようで、遠巻きに見ていた。
「……酷くやられたな」
泉の水で樋代勇一の肩の傷を洗っていると、ヴァーストスが姿を現す。
抜いた方が良いとは思うのだが、勇気が出ずに触れずにいた矢を、ヴァーストスは樋代勇一へと一言もかけずに引き抜く。
鏃の抜けた傷口から血が溢れ出たが、ヴァーストスが泉の水をかけると血は止まり、濡れた背中を布で拭く時には傷口は綺麗に塞がっていた。
少し肉が盛り上がって跡が残ってしまったが、それだけだ。
泉の水は私が触れてもただの水だが、ヴァーストスが触れれば癒しの力を持つ水になるらしい。
肩の傷も直してくれとヴァーストスを見上げると、何を言うまでもなくヴァーストスは泉の水を樋代勇一の肩へとかけてくれた。
「おまえの言うとおりだった」
こんな言葉で始まった樋代勇一の世界を見た感想は、酷いものだった。
まずは本当にヴァーストスが悪神なのか、と自分を召喚した国へと戻ったらしい。
そこで為政者と対峙し、ヴァーストスが本当に悪なのかと問い質したところ、城の衛兵に追われることになった。
要らぬ知恵をつけた勇者は、為政者にとっては困る存在だったらしい。
次に樋代勇一がしたことは、以前の勇者のその後を追うことだ。
召喚された以前の勇者は、樋代勇一の調べによると元の世界へは帰れなかったようだ。
これには元の世界への帰還を条件に悪神を倒す勇者を引き受けた樋代勇一は、自分が騙されていたのだと怒った。
以前の勇者も同じだったようだ。
ヴァーストスを封じた以前の勇者は、約束を反故にされたその場で為政者の首を刎ね、そのまま国を乗っ取った。
為政者としての教育など受けておらず、特別にその資質があったわけでもない勇者に治められることになった国はすぐに瓦解し、今は狂乱都市と呼ばれているそうだ。
勇者はこの世界の命ではなかったため、その後は普通に死んで魂は元の世界へと戻れたらしい。
「俺にはおまえが悪神であれ、他の神であれ、関係がない。ただ、誰かの意図でもって神が人間に封じられているという状況は、やはりおかしいと思う」
自分の目と耳で世界を見た樋代勇一は、為政者に乞われるままにヴァーストスを討つことをよしとはしないと判断したようだ。
これで本当に、私の役目は終わるのだと思う。
……樋代くんがヴァーストス様を討たないのなら、私が守る必要はない。
ヴァーストスとの別れの時がやってきたのだ。
「では、剣を抜け、勇者よ」
以前の勇者が突き立てた剣が、今もヴァーストスの本体に刺さっているらしい。
その剣があるせいで、ヴァーストスの力の回復は遅いそうだ。
「どうすればいい?」
「簡単だ」
ヴァーストスが腕を振ると、泉の水が左右に割れた。
中央までの道が出来たかと思ってその先へと視線をやると、泉の中央で水竜がとぐろを巻いて眠っているのが見える。
その体に鈍い輝きを放つ剣が突きたてられていた。
……あの竜が、ヴァーストス様の本体?
人の姿をしているが、本当は竜だったらしい。
もしかしたら、人と言葉を交わすためには人と同じ姿の方が良い、というような理由があるのかもしれない。
「剣を抜けば私は目覚める。また、その剣を持って私の本体の首を落とせば、私は死ぬ」
どちらでも好きな方を選ぶがいい、と言ってヴァーストスは樋代勇一を泉の中央へと誘う。
樋代勇一は一度私へと視線を寄こすと、あとは迷わなかった。
真っ直ぐにヴァーストスの本体が眠り泉の中央まで行ったかと思うと、そのまま水竜の体に突き刺さった剣を引き抜く。
そして一度剣を振り上げたかと思うと、今度は剣を泉の底へと叩きつけた。
長い年月泉の底にあった剣は、風化していたのかそのままパキリと音を立てて折れる。
神を縛り付けてきた剣の、あっけない最後だった。
「……首を刎ねなくて良かったのか?」
「しかたがないだろう。おまえを殺せば相薗さんが後を追うと言ってるんだから」
泉の中央から戻ってくる樋代勇一の背後で、水竜がゆっくりと目を開く。
白い鱗に覆われた水竜は、鬣は黒く、瞳はヴァーストスと同じ金色だ。
ゆっくりと何度か瞬き、頭を持ち上げる。
……あ、身震いする。
そう思った瞬間に、世界が白く染まった。
「え? あれ? ここは?」
気がつけば真っ白な空間にいて、足は地に着いていない。
浮いているとは判るのだが、不安定感も覚えない不思議な感じだ。
……あ、セーラー服。
いつの間にか、この世界に来る直前まで着ていたセーラー服を着ていることに気がつく。
この世界に来てからというもの最初に着替えて以来、布を幾つも重ねたような衣装を用意されていて、セーラー服で過ごすことはなかった。
そのセーラー服を、いつの間にか着ている。
「約束を果たす時が来た」
周囲にヴァーストスの声が響き、反射的に顔をあげ、ヴァーストスの姿を探す。
一瞬前までは誰もいない空間だったのだが、すぐ目の前にヴァーストスがいた。
「役目を果たせたら元の世界へ、というのは最初のお約束でしたからね」
これからあの世界はどうなるのか、と聞いてみる。
あの『死』を遠ざけるという方法で歪んでしまった世界は、ヴァーストスの目覚めで再び『死』と隣り合った世界になったはずだ。
増えすぎた命のせいで均衡を失っているというのだから、ヴァーストスがこれから行うのは間引きだろう。
世界規模で、人も動物も区別なく神によって命が間引かれる。
「これからあの世界にはひと月の間雨が降り続け、山は揺れ、海はかき回され続ける。陽を遮られた作物は腐り、森の木々共に獣は流され、土と混ざった海水に魚も溺れるだろう」
一番単純な方法として、災害で命を間引く。
次に失われた命によって、純粋に食料が不足する。
日照不足で病気も蔓延するだろう。
増えすぎたのは人間の責任だが、想像するだけでも恐ろしい災厄だ。
「……約束どおり、おまえを攫ったその時、その場所へと帰そう」
「それが一番いいことだと思います。だけど……」
あなたの側にいたい、と自然に唇が動いた。
まさか自分の口からこんな感情的な言葉が出てくるとは思ってもいなかったので、自分で自分に驚く。
「おまえが私に恋するのは、私が故意にしむけたことだ。本物の心ではない。まだ幼いおまえの心には、心を支配するたった一人がいなかった。そこへ私が故意に入り込んだのだ。おまえ好みの容姿を写してな」
私がヴァーストスにひと目で引かれたのは、私の心を写して私の無意識にある好みの姿をとったかららしい。
本当の姿は泉で見たとおり、人型ですらない、とヴァーストスは言う。
水竜の姿は私も見ているが、あれがヴァーストスの本当の姿だと知っても、私の気持ちは変わらなかった。
元の世界に帰りたいが、ヴァーストスを愛しく想い、ヴァーストスの側に在りたいとも望んでいる。
「あなたの側にいたい」
「いずれ忘れる感情だ。いつか本当におまえが恋する相手に出会えた時に失われる、偽りの心だ」
「……そんな人、いません」
恋への憧れはあったが、これといった兆候を感じたことはない。
あの日、下校途中にヴァーストスの背を見るまでは、誰にも惹かれることなどなかったのだ。
ここでヴァーストスと別れれば、二度と誰かに恋をする予感はしない。
「大丈夫だ。私が予見してやろう。梨乃は恋をし、その相手にも愛される。今度こそ本当の想いだ。私のように隙間へと入り込むような卑劣な輩ではない」
これで本当にさよならだ、とヴァーストスの唇が額へと落とされる。
唇にキスをされたことなど、初めて会った時に血を分け与えられた時だけだ。
本人が言うように、最後まで子ども扱いされてしまった。
「樋代勇一、おまえも私が送る」
名前を呼ぶと、私とヴァーストスしかいなかった空間に樋代勇一が現れる。
どこか気まずそうな顔をしているのは、今までの会話を聞かれていたのかもしれない。
私はセーラー服を着ていたのだが、樋代勇一は少しくたびれた厚手の服と鎧姿だ。
髪も金色で、目も赤い。
私の知っている高校生の樋代勇一とはかけ離れた姿をしていた。
「俺はこの世界に来て四年経っているんだが……」
「残念ながら、その四年の成長は巻き戻せない。おまえの召喚は私の関与したものではないからな」
四年後の世界へ送るか、四年成長した体で私と同じ時間へ戻るか、とヴァーストスは樋代勇一に提示する。
樋代勇一は四年間両親に心配をかけるか、四つ年下になる同級生たちと再び学び舎を共にするかと悩み始めたようだが、ヴァーストスは樋代勇一の考えが纏まるのを待つ気はなかったようだ。
おまえに選択肢はない、と言い捨て、ひでぇ! と不平の声をあげる樋代勇一へと腕を振るう。
その腕が下ろされる頃には、樋代勇一はこの空間から姿を消した。
「……一度でも勇者と名乗ったのだ。勇者らしく人を救え」
梨乃、と改めて名を呼ばれ、顔をあげる。
離れたくない、とヴァーストスの服を掴めば、その手にヴァーストスの手が重ねられた。
「私から手放してやるのは、これが最初で最後だ」
「え?」
どういう意味だろう、と瞬く間にヴァーストスの唇が私の唇へと重ねられる。
少し乾いた唇の感触に、視界が真っ白に塗りつぶされた。
……あ、れ?
突然やってきた音の洪水に、一瞬わけがわからなくなって身が竦む。
これまで人の立てる生活音と風や水といった自然の出す音しかない世界にいたため、自動車や信号の出す音が酷く大きく聞こえた。
呆然と見つめる先にあったのは、歩行者用の信号だ。
赤信号が変わるのを待っているのだ、と遅れて理解し、首を傾げる。
いつもは渡らない横断歩道を渡ろうと、信号を待っている自分が不自然だった。
……帰って、来たんだ。
ぼんやりと信号を見つめながら、周囲の音に自分の帰還を確信する。
音に溢れた世界だ。
キキッ! と自動車が急ブレーキを踏んだような音が周囲に響き、顔をあげる。
自分に向って突き進んでくる乗用車を見つけ、頭にひらめくものがあった。
――そなたを攫ったその時、その場所へと帰すことを約束する。
ヴァーストスは私にそう約束をした。
そして私はヴァーストスに攫われる直前には車に轢かれかけていた。
……ああ、そうか。
自然と現実を受け入れる。
車に撥ねられる直前に戻ってきたのだ。
私はこのまま車に撥ねられるのだろう。
……これも、いいかな?
ヴァーストスは故意に心の隙間へと入り込んだと言っていた。
ヴァーストスへの気持ちなど、ヴァーストスに故意に作られた偽物だと。
けれど、偽物でも私の心は私の心だ。
ヴァーストスに二度と逢えないのなら、私はきっともう恋などしない。
「相薗さん!」
あの時も、誰かが私を呼んでいたな、と背後から聞こえてきた声に思いだす。
あの声は誰だったのだろう? と思った瞬間に、肩を強く引っ張られた。
あとは一気に時間が動き始めた気がする。
私を引っ張った男性の腕の中へと抱きこまれ、突き進んできた乗用車の進路上から離れる。
緊急回避だったためか、背後の男性も姿勢を保てなかったようで、大きく尻餅をつくことになってしまった。
車の体当たりほどではないが強い衝撃を受け、何か金属が滑るような音が耳元で響く。
いったい何が起こったのだろうか、としばらく呆然としていたら、周囲に人が集まってきた。
「相薗さん? 相薗さん!? 大丈夫?」
パチパチと軽く頬を叩かれて正気に返る。
よくよく自分を抱きしめている人間の顔を見てみれば、真っ白な空間で別れたばかりの樋代勇一だ。
金色の髪も、赤い目もあちらの世界で会ったままの樋代勇一だった。
「……勇者らしく人を救え、ってこのこと、だったの?」
「そうらしいな。あいつ、やっぱ絶対悪神だろ。こっちに戻ってすぐに相薗さんが死にそうだから助けに行け、って。おかげで俺はこの格好のまま全力疾走してきたよ」
ちょっと休憩させて、と言って樋代勇一は歩道へと寝転がる。
胸が激しく上下しているところを見るに、本当に全力でここまで走ってきてくれたのだろう。
……どうでもいいけど、そろそろ放して欲しい。
車を避ける際にしっかりと抱き込まれ、そのまま歩道へと寝転がられてしまったので、私も樋代勇一の体の上に寝転がっている形になってしまっていた。
心配してこちらへと覗き込んできてくれる歩行者や、慌てて車から降りてきた運転手の視線が痛い。
「樋代くんは、私のせいで今に戻ってきちゃって、良かったの?」
体の成長をどう周囲に説明するつもりだろうか、と心配になって聞いてみる。
早く離れたくはあったが、密着している状態では内緒話に最適だった。
「これでいい! 相薗さんを助けられたんだから、絶対にこれでいい!」
両親も四年間息子が行方不明になるよりも、一日で息子が四年分も老けた方が苦労は少ないはずだ、と樋代勇一は腕を天へと突き上げた。
その手には、あの世界で纏ったままの篭手がついており、どこからどう見てもコスプレ男性なのだが、そこはあえて指摘しないことにした。
私と樋代勇一は、異世界召喚などという稀な体験をした者同士ということで、急速に親しくなっていった。
もうただの知人ではなく、友人といって間違いのないレベルだと思う。
体の急成長や髪と目の色については、色々と苦しい言い訳をしていたようだ。
不良になってしまったのか、と一部の教師には目を付けられてしまったようなのだが、元が人当たりの良い性格をしているため、教師たちも扱いかねているようである。
何か悩みがあったのか、と教師から何度も呼び出しを受けていると、先日愚痴をこぼしていた。
そんな樋代勇一は、学校の中でも目立っていた。
もとから女生徒の目を惹いていたのだが、一人だけ大人の体格をし、背も伸びきっていて同級生たちよりも頭一つ分背が高い。
金色の髪は近頃ようやく濃くなってきたのだが、サイズが合わなくなってしまった制服に、彼だけ特別に私服で授業を受けていた。
私たちよりも四年多く人生を積んだ樋代勇一は間違いなく四つ年上の男性で、顔が良くて背も高く、他の男子生徒とは違う雰囲気をまとう樋代勇一を女子生徒が放っておくはずもなく、以前にも増してアイドル扱いされているようだ。
「相薗さんと樋代くんって、付き合ってるの?」
またそれか、と口から出かかった言葉を飲み込む。
四年という異世界での生活の中で、高校の授業内容など忘れてしまった、と嘆く樋代勇一の勉強を見るようになってから、このようなことをよく聞かれるようになった。
毎回私はこれを否定しているのだが、問題は樋代勇一だ。
「今、口説いている最中だよ。相薗さんのガードが固くてなかなか……」
「樋代くん、問い三、間違ってる。あと、ガードの固い私はそろそろ帰ります」
私が否定する横で樋代勇一が噂を肯定するようなことを言うものだから、噂は沈静するどころか悪化の一途を辿る。
私としては数少ない異性の友人との間におかしな横槍など挟まれたくはないのだが、樋代勇一は違うようだ。
どちらかというと、群がってくる女の子に対する防波堤として使われているような気がした。
教科書を鞄へと詰めて教室を出る。
慌てた様子で樋代勇一が追いかけてきたが、無視をした。
樋代勇一がはっきりと否定してくれないから、付き合っているのか、などと日に何度も聞かれる目にあっているのだ。
「……樋代くんは、どうして私に構うの?」
「え? それ今さら聞くの?」
いつの間にか横へと追いついてきた樋代勇一に、故意に無視していたことも忘れて話しかけてしまう。
我ながら付き合ってはいないが、かなり気安い関係にはなったと思う。
「それは俺がずっと相薗さんを好きだったからだよ。ひと目惚れだったね、あれは」
「……私、樋代くんのことは顔と名前ぐらいしか知らなかったんだけど?」
どこかで逢った? と聞き返すと、樋代勇一は判りやすく肩を落とした。
一世一代の告白をスルーして、突っ込むことはそれなのか、と。
……あれ? 今のって、告白だったの?
どのあたりが告白だったのだろうか、と首を傾げる私に、樋代勇一はため息混じりに聞かせてくれる。
初めて会ったのは幼稚園の頃で、当時は一緒によく遊んでいたらしい。
……言われてみれば、そんな男の子がいたような気が?
ぼんやりとそのような男の子がいた気はするのだが、顔も名前も思いだせない。
幼児期の記憶など、こんなものだ。
それを考えると、当時の私を覚えていたという樋代勇一は地味にすごい。
「あっちの世界に召喚されて思ったんだ。人生なにが起こるがわからないから、伝えたいことは伝えておいた方がいいって」
もう一度改めて言うよ、と言葉を区切り、樋代勇一が私を見つめる。
金色の髪は濃さを取り戻し、近頃は茶髪に近い。
赤くなっていた目も、黒い色を取り戻しつつあるようだ。
色が戻ってきたな、と他所事を考えていることがわかったのだろう。
樋代勇一の眉が情けなく下がった。
……あ、この顔は覚えているかも。
樋代勇一の言う幼稚園の頃に、よく見せていた顔だ。
「相薗さん、俺、今から告白しようとしているんだけど」
「あ、ごめんなさい」
他所事なんて考えないで、自分を見てほしい、という樋代勇一に詫びる。
樋代勇一に関する新しい情報が多すぎて、目の前の会話になど集中していられないのだ。
「ごめんはやめてよ。これから告白しようって時に、不吉すぎる……」
「えっと……ごめんなさい?」
「だから……」
告白の前に「ごめんなさい」はやめてください、と懇願する樋代勇一へ、もう一度「ごめんなさい」と謝っておく。
告白など、改めて言い直されても答えは同じだ。
「私はヴァーストス様が好きです。偽物の恋心だってヴァーストス様には言われたけど、忘れることなんてできない。だから樋代くんの気持ちには応えられません」
ごめんなさい、と改めて頭を下げる。
随分長く好きでいてくれたことは嬉しいが、その気持ちに応えることはできない。
故意に仕組まれた好意だろうと、私の心にはまだヴァーストスがいるのだ。
「……俺は待つよ。片思い歴長いんだから、相薗さんがあいつの顔を忘れるぐらい、余裕で待てる」
「たぶん、きっと一生忘れません」
ここは気を持たせるようなことを言ってはいけない場面だろう、ときっぱり樋代勇一の申し出を断る。
これで心地よい友人関係も終わりかと、少しだけ残念に思いながら顔をあげると、樋代勇一の目は驚愕に見開かれていた。
……? 後ろに誰かいるの?
なんだろう? と不思議に思いながら背後を振り返る。
最初に目に映ったのは、こちらへと戻ってきた夜に気がついた、あの世界へと忘れてきてしまった紺色のリボンだ。
リボンだけでもヴァーストスの世界に在れるのなら、と思っていたのだが、どうやらこちらへと戻ってきた時に落としてしまっただけだったらしい。
差し出されたリボンを受け取り、誰が届けてくれたのだろうか、と再び顔をあげる。
その顔を私が認識するよりも先に、力強く抱きしめられた。
終わりです。
あとがきの類似品は活動報告にでも置いておきます。