【転】恋/故意の奴隷
ヴァーストスに見せられた外の国と、ヴァーストスが治める都市イソツ・ウオヤリスの様子はまるで違った。
外の国では頻繁に騒乱が起こっているようなのだが、イソツ・ウオヤリスは平和そのものだ。
今日も物売りたちの威勢のいい声が響き、路地からは子どもたちの笑い声が聞こえている。
『ああ、巫女姫様。丁度良かった』
「はい?」
日除けの下で活気ある市場を見渡していると、横から声をかけられた。
そちらへと顔を向けると、三歳ぐらいの孫と思われる男の子を連れた老女がにこやかに笑いかけてくれる。
『都市の外れで、桃が生っているのを見つけたのです。こちらを巫女姫様に』
『ん』
老女に促されて男の子が私へと桃を差し出してくれる。
このぐらいの年齢の子どもであれば、お菓子や果物など他人にあげることを惜しみそうなものなのだが、男の子の顔に憂いはない。
満足な食事を与えられ、食べ物を惜しむ必要はないと心が満たされているのだろう。
『こちらの桃でしたら、巫女姫様のお口にも合うかと存じます』
「ありがとうございます。でも、ヴァーストス様から食事は自分が用意した物だけを食べるようにと言われていますので……」
『まあ、そうでございましたか。大切にされているのですね。……それでしたら、その桃は我等が神への供物といたします。どうか巫女姫様から、我等が神へお渡しください』
「はい。必ず」
男の子から手渡された桃は、見るからにまだ青い。
ついでに言えば粒も小さく、神に捧げる供物としては貧相だ。
……でも良い匂い。
手にした桃に鼻を近づけて匂いをかぐ。
果実としてはまだ熟れていない桃だったが、これなら確かに喉を通る気がした。
「どうした?」
老女と男の子を見送った後、しばらく桃の香りを楽しんでいると、今度は背後から話しかけられる。
反射的に振り返ろうとしたのだが、私が振り返るより先に声の主が私の隣へと腰を下ろしていた。
「ヴァーストス様。今、街の方からヴァーストス様へと、桃をいただきました」
「これは……どこから持って来たと?」
「都市の外れに生っていたそうです」
神へと捧げる供物にしては貧相な桃なのだが、ヴァーストスは受け取った桃を愛おしそうに見下ろす。
コロコロと手の中で玩んだかと思ったら、今度は私がしていたように桃の匂いを嗅いだ。
「そうか。我がイソツ・ウオヤリスにも、まだ生る物があったのか」
「……?」
不思議な言い方をするな、と聞き返そうかと考えていると、ヴァーストスは痩せた桃を懐へとしまい、次に懐から出てきた手には大きな桃が二つ載っていた。
この世界に来てから何日も続いている、私の食事だろう。
相変わらず、泉の水とヴァーストスの持ってくる果物ぐらいしか私の喉を通ってはくれない。
……さっきの桃なら、食べられそうな気がしたんだけどね。
あれはヴァーストスが大切そうに懐へとしまったので、私の食事になることはないだろう。
「……食べないのか?」
「いただきます、けど……」
食べろ、とヴァーストスに目で訴えられ、少々気まずい。
自分が用意したもの以外食べるな、と言われているし、実際に他の物を食べようとすれば喉が飲み込むことを拒絶するしで、ヴァーストスが持ってきてくれるものしか食べてはいない。
ヴァーストスが持ってくるものは果物がほとんどで、他に口にできるものと言えば泉の水だけだ。
日本にいた頃では考えられないような空腹状態にあると言ってもいい。
それでも桃にかぶりつくことを躊躇うのは、ここが外出先だからだ。
神殿の私室であれば、すぐにでも桃の皮を剥いて食べやすい大きさに切っていたことだろう。
……外で、それも好きな人の前で、丸ごとの桃にかぶりつくとか無理ですっ!
欲望のままに桃へとかぶりつくなど、なけなしの乙女心が拒否をする。
これが隣にいるのがヴァーストスでなければできるのかと聞かれれば、それもたぶんできない。
私が受けてきた家庭の躾とはそういうものだ。
放課後の寄り道ぐらいならまだしも、買い食い、食べ歩きなどもってのほかである。
それらはすべて行儀の悪い行為として、刷り込まれてきた。
……まあ、世代とか、お国柄なんだろうなぁ。
今も目の前の露店で若い男が果物を買い、支払いが済んだ途端にその果物へとかぶりついている。
さすがに食べながら歩いている女性は見かけないのだが、女児は若い男と同じように果物を食べ歩いていた。
「梨乃は巫女に皮を剥いてもらわなければ食べられないのか?」
「そんなことはありません、けど……」
ヴァーストスの前で大口を開けてかぶりつくのは恥かしい、と正直に答える。
巫女たちがいれば、道具があれば、食べやすい大きさに桃を切って上品に口へと運ぶことができるが、道具もなにもない場所で桃を食べようとしたら、そのままかぶりつくしかない。
「おかしなことを気にするな。物を食べる時、口を開くのはあたり前のことだろう」
いつまでも桃を食べない私に焦れたのか、ヴァーストスが私の手から桃を奪って自分の衣で皮を拭く。
そうやって桃の産毛を取ったのだと思う。
そのままがぶりと桃に噛みつくと、みずみずしい果汁があふれ出した。
「……あ」
おいしそうに桃へとかぶりつくヴァーストスに、私のお腹がクルルと情けない悲鳴をあげる。
食べ方を気にはしていても、はやり空腹は誤魔化せないのだ。
「う~」
外で食べるのはお行儀が悪いですよ、というのは、ここでは私の考えの方が異端らしい。
郷に入っては郷に従えというように、体面など捨ててかぶりつくべきだったのだろうか、と美味しそうな顔をして桃を齧るヴァーストスを恨みがましい目で見つめていると、ヴァーストスはもう一つの桃を私にくれた。
新たな桃とヴァーストスの顔を見比べ、しばし悩む。
やはりお行儀が悪い、という葛藤があったのだが、ヴァーストスに倣ってかぶりつくことにした。
……やっぱり恥かしいから、背は向けるけどね。
ヴァーストスに背を向けて、お行儀が悪いと思いつつも服で桃の皮を拭く。
皮ごと桃にかぶりついたことなどないが、ヴァーストスがそうしていたので、と意を決して桃へとかぶりついた。
「……美味しい」
少し皮がチクチクとするが、空腹には勝てない。
二口、三口と食べている間に、気恥ずかしさも薄れてきた。
「そろそろこの国の食事にも慣れたいのですが」
泉の水で喉の奥へと流し込めば、飲み込むことができると思うのだ。
挑戦してみても良いだろうか、とヴァーストスへと相談をしたら、悪いことは言わないから止めておけ、と言われてしまった。
ここの食事が美味しく食べられるようになると、どうやら元の世界へと帰せなくなるそうだ。
「帰せなく? それは……」
それはいったいどういう意味なのだろうか。
聞いてみたかったのだが、ヴァーストスは既に違う方法を考え始めていた。
「空腹が辛ければ、私と繋がって人をやめるという手もあるが……」
「待って下さい。人をやめるってなんですか。さすがに人間はやめたくありません」
そもそも『繋がる』とは肉体的な意味ではなかろうか、と緊張してしまったのだが、ヴァーストスはそこには触れなかった。
おそらくは肉体的な意味ではなく、ヴァーストスが神であることに由来する話なのだろう。
……意識しすぎて、私が恥かしいっ!
一人で勝手に耳まで赤くなっている横で、ヴァーストスは『繋がる』ことによって空腹から逃れる方法を模索し、やはり無理である、と諦めた。
どうやら彼の言う「繋がって人をやめる」という行為は、人として元の世界に帰すのが難しくなるらしい。
私としても、人間をやめた状態で元の世界に帰されても困ってしまうので、もうしばらくは空腹に耐えることにした。
イソツ・ウオヤリスに火の手が上がる。
夜間の何者かの襲撃に、民の悲鳴が響き渡り、建物の崩れ落ちる音や逃げ惑う人々の不安が漣のように都市の中を蠢いた。
子どもを抱いて逃げる母親は襲撃者に背中から切り裂かれ、建物の下敷きになった老人を救い出そうとした若者もまた襲撃者に首を刎ねられる。
……夢?
逃げ惑う人波から外れた巫女が私の方へと走りより、ぶつかると身構えた瞬間に巫女の体がすり抜けていく。
そこでようやくこれは夢なのだ、と気がついて、少しだけ呼吸が楽になった。
イソツ・ウオヤリスが襲撃を受けているのは、私の見ている夢である。
内容としては恐ろしい夢なのだが、夢だと自覚ができたのならそこまで怯える必要はない。
……ヴァーストス様は?
夢の中とはいえ、民が襲撃を受けている時に彼らの神であるヴァーストスは何をしているのだろうか。
それが気になって、巫女の走り去った神殿へと思考を向ける。
……ヴァーストス様っ!?
ヴァーストスへと思考が向いた瞬間に、視界が切り替わった。
夢とは便利だ、と頭の片隅に冷静な自分がいたが、冷静な私以外の思考は目の前の光景に支配されてしまう。
襲撃者の剣が、ヴァーストスの胸に深々と突き立てられている。
致命傷なんてものではない。
心臓のある位置へと突き立てられた剣に、ヴァーストスの胸と唇から血があふれ出した。
……勇者!
パッと頭に浮かんだ襲撃者の正体がこれだ。
ヴァーストスは『勇者』に討たれた。
……変。何か、変。
何がおかしいのだろうか、とその場に呆然と立ち尽くす。
ゆっくりと崩れ落ちるヴァーストスを見下ろしていた勇者は、やがて視線を巡らせてぴたりと私へ固定する。
その赤い目が私の姿を捉えたと思った瞬間に、勇者の次なる標的が誰なのかがわかった。
『リノ様っ!』
がくりと体が揺すられて、強制的に意識が引き戻される。
薄暗い世界に、今がまだ夜も明けていない時間だということが判った。
「え? あれ……? 夢……」
巫女がうなされた私を起してくれたのか、と思ったのだが、どうも様子がおかしい。
普段は数人で私の周囲を固めている巫女たちなのだが、今は私を起した一人しか見える範囲にいなかった。
「……何か、あったのですか?」
夢見が悪かったせいか、妙な胸騒ぎを覚える。
薄っすらと汗ばんだ夜着の胸元を握り締めると、目覚めてすぐだというのに意識のはっきりしている私に巫女がホッと息をはいた。
『リノ様、襲撃者です。すぐにお隠れください』
「……襲撃者?」
『説明は後ほど。急いでください』
こちらです、と巫女に手を引かれて寝台を抜ける。
先ほどの夢を引きずっているせいか、襲撃者と聞いても静かな周囲に違和感があった。
移動をしながら窓の外を覗いてもみたが、夢とは違い街に火の手が上がっていることもないようだ。
『泉へ参りましょう。泉ならば、我等が神の領域です』
襲撃者も容易には近づけない、と私を元気付けるように手を引きながら巫女が振り返る。
その首が、振り返った弾みで横へと転がり落ちた。
「え?」
ころり、と石畳を赤く染めながら転がる巫女の首に、一瞬にして頭が真っ白になる。
どこかへと隠れる途中だった。
物音を立てれば襲撃者に気づかれる。
そんなあたり前のことが頭から飛び、衝撃のままに私の口から悲鳴が漏れた。
「きゃあああああああああああっ!?」
「うわっ!? 驚いた……って、相薗さん?」
「へ?」
どこか間の抜けた声音と、目の前の凄惨な光景に頭がパニックになって腰を抜かす。
襲撃者から逃げなければいけなかったはずなのだが、石畳に転がった巫女の首から目が離せず、でも襲撃者の存在も気になって仕方がない。
結果として忙しく巫女の遺体と襲撃者を見比べ、そうしているうちに少しだけ考える余裕が戻ってきた。
……相薗さんって、この人、どうして私の苗字を知っているの?
ポンッと浮かんだ疑問に、襲撃者を観察する余裕が生まれる。
髪はサラサラとした金髪で、目は血のように赤い。
流暢な日本語で「相薗さん」と呼ばれた気がしたのだが、どう見ても日本人の色ではなかった。
ということは、たまたま日本語の「相薗さん」に聞こえる発音だっただけで、彼は私の名前を知っていたわけではないのだろう。
……や、違う。髪と目の色は違うけど、この人の顔はどこかで……?
じっと見上げる私をどう思ったのか、金髪の襲撃者は服で手を拭く。
そして手のひらが綺麗になったことを確認すると、その手を私へと差し出してきた。
「えっと……相薗さん、だよな? 相園梨乃さん。俺は樋代勇一って言うんだけど……」
覚えてない? と首を傾げた動きに合わせて樋代勇一と名乗った青年の金色の髪が揺れる。
金髪をもった知人など私にはいなかったはずだが、青年のどこか必死さの滲む顔つきに、一概に否定するのも悪い気がした。
……でも、見るからにこの世界の人、だよね?
相薗さん、と『さん付け』で呼ばれたことを思えば、同じ高校の人間なのかとも思うが、我が校にこれほど見事な金髪をした生徒はいない。
もちろん、中途半端な脱色をして常に根元が黒い金髪なら見たことはあるが、眉毛や睫毛まで金にしている者はいなかった。
……そもそも年齢が合わないから、高校生ってことはないと思うのだけど?
二十歳はいっていると思われる身体つきに、少しくたびれた厚手の服と鎧、マントを付けていた。
どこからどう見ても『この世界人間』なのだが、青年は日本人風の名前を名乗る。
……うん? 樋代、勇一……?
容姿の全てが日本人であることを否定するかのような色をしているが、だんだん情けない顔になってきた青年の顔と、『樋代勇一』という名前に思いだせる面影があった。
時々級友たちの間で名前があがっていた、いわゆる学校のアイドル的な存在の男子生徒が、そんな名前をしていたはずだ。
私も顔を見たことがあるが、黒髪黒目の一般的な日本人の色をしていた。
目の前の青年と学校で見た樋代勇一の顔は、樋代勇一がもう数年すればこんな感じに成長するかと思える面影がある。
面影は確かにあるのだが、髪と目の色はどうしても日本人からかけ離れたものであった。
「えっと……樋代勇一くんの、お兄さん、か親戚の方?」
「本人だよ。樋代勇一本人!」
樋代勇一という同級生がいたな、と思いだせたので、親戚かと聞いてみたのだが、青年は樋代勇一本人だと言う。
樋代勇一は私と同級生なので、未成年なのだが、青年はどう見ても成人済といった容貌をしている。
本人を自称されても、はいそうですかとは納得ができなかった。
樋代勇一は日本の高校生だ。
躊躇いなく人を殺したりなんて、できるはずもない。
「……相薗さん?」
差し出された手にうっかり自分の手を重ねそうになり、目の前の青年が人殺しであることを思いだして手を引っ込める。
自称樋代勇一は、襲撃者から隠れるために私を案内していた巫女を殺しているのだ。
彼の言葉は信用しないほうがいい。
巫女が私を隠そうとしていた襲撃者が、おそらくはこの青年だ。
そして、夢の中の勇者も血のような真赤な目をしていた。
「本当の樋代勇一くんなら、人殺しなんてできるはずがありません」
普通の高校生男子に、躊躇いなく人間の首を刎ねるなんてことはできないだろう。
自称樋代勇一から数歩距離をとって自力で立ち上がる。
なんとか隙をついて、この男から逃れなければならないだろう。
「待ってよ、相薗さん。俺は人間なんて殺していないよ」
「今、私の目の前で殺したじゃないですか!」
「今……? そうか。相薗さんは騙されているんだね。今、相薗さんの目の前で倒したのは、人間じゃない。死霊だよ」
「死霊? 何を言って……」
死霊と聞いて、ひらめくものがある。
瞬きにあわせて世界が切り替わり、石造りの神殿が、風に吹き曝された廃墟へと変わった。
「え? あれ?」
そんな馬鹿な、と周囲を見渡す。
壁があったはずの場所には何もなく、街並みと人々の営みの光があったはずの場所も闇に包まれていた。
冷たい風の吹く廃神殿の回廊に、では先ほど首を刎ねられた巫女はと視線を落とせば、そこに血の海なんてものはなく、乾いて風化した頭蓋骨が一つ転がっている。
……ああ、だからか。
巫女たちの言葉が不思議な響きをもって聞こえていた理由がわかった。
彼女たちの言葉は、声帯を震わせて話しているものではなかったのだ。
どのような力によるものかはわからないが、私の心や頭といった、言葉を理解する部分へと直接思念のようなものを届けていたのだろう。
巫女達は声を出していたわけではないのだ。
「ここは死霊都市。悪神ヴァーストスの治める、千年以上前に滅びた都市だよ、相薗さん」
滅びた都市、と聞いてもう一つ繋がった。
私が巫女たちの出してくれる料理を食べられなかった理由、ヴァーストスが食べるなと言った本当の理由。
そのどちらもが理解できた。
……ヨモツヘグイって言うんだっけ?
あの世の食べ物を口にすると、現世に帰れなくなるという神話だ。
日本の神話にもあった気がする。
そうと知ってしまえば、生きている私の口に、死者の食事が合うはずもなかった。
おそらくは、泉の水だけが現在にも存在する水で、ヴァーストスが持って来た食べ物だけを食べろというのは、彼が都市の外から食べ物を運んでくれていたのだろう。
あれほど緑に溢れた都市だったというのに、月明かりに照らされた周囲には木どころか、草一本はえてはいなかった。
ここでは、私が食べられるものなど手に入るわけがない。
……でも、この都市のどこかに桃の木が今も残っているのね。
彼女も死霊だったのだと思うが、老婆が私に持ってきてくれた痩せた桃は、生きた匂いがしていた。
桃を渡した時に、ヴァーストスは愛おしげに桃を見つめ、大切に懐へとしまったはずだ。
死霊都市にも、まだ生る物があったのか、と。
ヴァーストスの豊かな死霊都市が、外の国が荒廃していく影響を受けない、というのも同じ理由だ。
すでに滅びたという意味で時を止めた都市が、現在の外の影響など受けようがなかった。
「近頃廃墟の様子がおかしいってことで様子を見に来たら、死霊が襲いかかってきたんだ。生きた人間の目撃例もあって……それは相薗さんだったみたいだけど」
とにかく無事でよかった、と樋代勇一は笑う。
死霊に取り付かれていたわりには元気そうだ、とも。
「……信じられません。巫女たちは、ここに来てからずっと親切に私のお世話をしてくれて」
騙されていた、とは思いたくない。
少なくとも、私の記憶にある彼女たちはいつも笑顔で、私の世話をしてくれていた。
死霊と聞いて想像するような恐怖も、陰鬱さもなにもなかったのだ。
「世話? 相薗さんは、死霊に捕らえられていたんだよ。この廃墟には、生き物なんていやしない。もう少しでとり殺されるところだったんだ」
殺される前に見つけられて良かった、と樋代勇一は笑う。
私を助けることができて良かった、と。
……今日までお世話になった巫女と、その巫女を切った自称樋代勇一くんと、どっちを信じるかと言ったら――
巫女を信じたい。
樋代勇一は確かに同じ日本人で、年齢は一致しないようなのだが同級生でもあるのかもしれない。
でも、暗闇から突然人を切りつけてきて、巫女の首を刎ねたような人間だ。
同級生です、日本人です、と言われたからといって、はいそうですかと信じることはできない。
おまえが巫女と呼んで信じているものは死霊だ、と言われても、そもそもが信用できない樋代勇一と死霊の巫女ならば、今日まで共に過ごした巫女の方が信用できる気がするのだ。
『リノ様!』
『こちらです、リノ様!』
横合いから声が聞こえて、そちらを振り返る。
二人の巫女が私を見つけて連れ出しに来てくれたのだろう。
『リノ様!』
差し出された巫女の手を躊躇わずに取ると、その手は冷たい。
これまでは体温のようなものも感じていたのだが、死霊と聞いてしまったせいか、巫女の体温を感じることができなかった。
巫女の案内に任せて後に続くと、もう一人の巫女は樋代勇一の前に立ち塞がったようだ。
「こいつめっ!」
『きゃああああああ!』
背後で何か軽いものを叩く音とそれが石畳に落ちる音がして、巫女の声が消えた。
振り返って巫女に駆け寄りたい気はしたが、死霊だといって巫女を切り捨てることに躊躇いをみせない人間など恐ろしくて近づくこともできない。
なにより巫女たちは私をどこかへと案内しようとしているようで、私がここに残って樋代勇一に都市の外へと連れ出されることは望んでいないだろう。
「相薗さん! いっちゃダメだ!」
背後から樋代勇一の叫び声が聞こえたのだが、その声は巫女たちの悲鳴によって掻き消される。
樋代勇一が死霊というように、廃墟のあちこちに潜んだ巫女たちが、私の逃走を手伝ってくれているのだろう。
私はただ、今日まで私の世話をしてくれた巫女たちを信じることにした。
「ヴァーストス様!」
巫女に案内された泉では、ヴァーストスが泉の淵にたっていた。
神殿が襲撃されているというのに、ヴァーストスはいたって平静だ。
神殿を荒らす樋代勇一に怒っているようでも、死んでいく巫女に悲しんでいるようにも見えない。
「どうした、梨乃。このような時間に慌てて」
「どうしたもなにも……襲撃者が、勇者が、神殿を襲って……巫女たちが……」
勇者、と自然に口から出てきた。
樋代勇一という名前ではなく、勇者だ。
勇者が死霊を切り捨てながら、廃墟を蹂躙している。
「落ち着け。巫女たちは死なん。すでに一度死んでいるからな」
死んでいる人間をこれ以上殺すことは不可能だ、とヴァーストスは言う。
理屈で言えば確かにそうなのかもしれない、と少し頭が冷える。
冷静さを取り戻してきた頭で周囲を見渡すと、泉の淵に私を起して逃げ、出会いがしらに樋代勇一に切り殺された巫女と、先ほど回廊で私と樋代勇一の間に立ち塞がった巫女が現れた。
二人とも樋代勇一に殺されたと思ったのだが、ヴァーストスが言うようにすでに死んでいるため、これ以上死ぬことはないようだ。
巫女たちの無事な姿にホッと息をはき、この異常な事態を受け入れてしまっている自分に驚く。
死者はこれ以上死なない、と言われてホッとするというのもおかしい。
そもそも、死者が生者のように振舞うこと自体がおかしいのだ。
「……勇者が、樋代勇一と名乗る襲撃者が言っていたのですが」
聞いていいのだろうか、と不安に思いながらも口を開く。
聞いてしまったからには、確認をしないままにもしておけない気がした。
「ここは死霊都市なのですか? 千年以上も前に滅びた都市だと、聞いたのですが……」
「おまえに与えた知識にも入っていたはずだ。イソツは『都市』、ウオヤリスは『死霊』。このオアシスは千年以上前より、死霊都市と呼ばれている。大昔に勇者を名乗る若者によって滅ぼされた」
勇者に滅ぼされたと聞いて、先ほどの夢を思いだす。
あれは本当に起こったことだったのだと知って、疑問も出てきた。
「……勇者は、何故この都市を滅ぼしたのですか?」
「この都市が私の守護を受ける都市だったからだ。あれは私への攻撃である」
「では、何故その時の勇者は、ヴァーストス様に攻撃をしたのですか?」
夢で見た内容は『攻撃』などという可愛らしいものではなかったが、ヴァーストスが『攻撃』というのだから、私も『攻撃』といっておく。
力いっぱい心臓を剣で一突きにしていただなどと、口に出すのも恐ろしかった。
「此度の勇者も言ってはいなかったか? 悪神ヴァーストス、と」
確かに、樋代勇一はヴァーストスをさして『悪神』と言っていた気がする。
しかし、ヴァーストスから与えられた知識によれば、ヴァーストスは破壊と再生を司る神だ。
悪神などではない。
……あれ?
破壊と再生と聞いて、一つ引っかかる。
以前にヴァーストスから聞いたことがあった。
この世界が混乱しているのは、死を司る神が封印されたためだ、と。
死が遠いものになってしまったため、人も動物も増えすぎて、騒乱が絶えないのだ、とも。
破壊がもたらされれば人は死ぬ。
たとえ未来に再生が待っているとしても、現在を生きる人間にしてみればヴァーストスは死を司る神と同じものに見えたのかもしれない。
ヴァーストスが破壊と再生を司るように、本来は増えすぎた命は程よく間引かれなければならなかったのだろう。
その間引きの過程が失われてしまったから、命が増えすぎて地上は混乱しているのだ。
……それだと、民に安らぎを与える、というのは?
死霊都市の住民に安らぎを与える、というわけではないだろう。
彼らはすでに死んでいるため、今生の苦しみからは解放されている。
ならば死霊都市に魂が縛り付けられて成仏できないのかと思えば、ヴァーストスの加護によって彼らの心は穏やかだ。
……増えすぎた人間に、与えられる安らぎって、もしかして――?
大量殺人、という単語が頭に浮かび、ゆるく頭を振る。
増えすぎたのは人間だけではなく、地上の命全てだ。
それらを大量に『間引く』のだから、殺人ではない。
神の行なうことなので、その規模は想像もつかないが、自然災害か何かが起こるのだろう。
「つまり、私は人間や動物を大量に殺す手伝いをするのですか……?」
ようやく繋がった答えに、唇が震える。
気がついてしまえば、ただただ恐ろしい。
「梨乃、その理解は間違いだ」
「間違い……?」
すっぽりとヴァーストスの腕の中へと抱き込まれ、やさしく髪を梳かれる。
ヴァーストスの胸に耳を当てれば、彼の心臓の鼓動が聞こえた。
夢のなかでは勇者に刺し貫かれていた心臓は、今は規則正しい鼓動を打っている。
「梨乃に私が求めることは、ただここに在ることだけだ。その先の仕事は、神である私の仕事である」
その先に待っているのは、大災害か何かだろう、という指摘は飲み込んでおく。
結果はともかくとして、私にはなんの責任もないのだ、とヴァーストスが言ってくれているのが判った。
「……では、私が民に安らぎを与えるというのは、何をすれば良いのでしょう?」
「最初に言った通りだ。ただ私の側にあればいい。梨乃はそこにいるだけで、必要な役目を果たす娘だ。そういう娘を、私が選んで連れてきた」
選んだ、という言葉に胸が高鳴り、また安堵もする。
わけもわからず異世界へと連れてこられ、何をしろと求められるでもなく、自分の世話すらできない神殿生活を続けるうちに、少しだけ不安があった。
本当に私がヴァーストスの求めた巫女なのだろうか、と。
しかし、ヴァーストスが故意に連れてくる相手を選んだというのなら、間違いはないだろう。
私がヴァーストスの役に立てる巫女なのだ。
「必要な役目とは、どのようなことでしょう?」
私は何をすれば貴方の役に立てますか、と続ける。
何もしないということは、案外苦痛なものだ。
私にできることがあるのなら、なんでもしたい。
「……樋代勇一と言ったか、今の勇者は。梨乃は私の身を守る鎧だ。樋代勇一が決して斬ることのできない存在がおまえだ」
「鎧……? 斬ることができない? でも、あの樋代くんは、巫女を躊躇わずに斬って……」
巫女を躊躇わずに斬る勇者が、同級生だからといって巫女姫と呼ばれる私を斬れない理由にはならない。
決して斬ることができない、とヴァーストスが断言できる理由がわからなかった。
「樋代勇一に梨乃は斬れない。死霊に囲まれた梨乃を死霊の仲間とは判断せず、手を差し出してきただろう?」
樋代勇一は私を斬ることができない、とヴァーストスは言葉を重ねる。
樋代勇一に斬ることができない私に身を守らせることで、ヴァーストスは時を稼ぎたいそうだ。
時を稼ぎ、力を蓄え、神の力が戻りさえすれば、崩れた世界の均衡を取り戻すことができるのだ、と。
「ヴァーストス様の言葉を、私はどうやって信じればいいのでしょう」
樋代勇一は同郷の人間で、ヴァーストスは異世界の神だ。
樋代勇一と死霊の巫女であれば、今日まで世話をしてくれた巫女を信じるが、ヴァーストスは勇者から身を守る鎧として私を異世界へと連れてきた。
そして、ヴァーストスが力を取り戻すということは、何らかの大災害が起こって多くの命が失われるということだ。
命で溢れて均衡を失ってしまっている世界とはいえ、その引き金を自分が引くことになるのは怖い。
「言葉で不安があるのなら、再び私の血を飲むがいい。人の身にはあまる甘露だが、血による知識の伝達に、隠蔽や改竄は通用しない」
望むのなら血を与えよう、と言ってヴァーストスの腕が持ち上がる。
その手首へと添えられたヴァーストスの手に、慌てて自分の手を添え押し留めた。
例え他人の血であったとしても、手首を切る瞬間など見たくはないし、ヴァーストスを傷つけたいわけではない。
「相薗さん!」
ヴァーストスの腕へ寄り添うようにすがり付いていると、咎めるような声が響く。
ゆっくりと視線を巡らせると、崩れた柱の隣に立つ樋代勇一の姿があった。
勇者と呼ばれ、死霊を切り捨ててきた樋代勇一には、彼が悪神と呼ぶヴァーストスに縋りつく自分はどういう風に見えているのだろうか。
一瞬だけ目が合ったのだが、樋代勇一の視線はそのまま私の上方へとそらされる。
おそらくはヴァーストスを睨みつけているのだろう。
「相薗さんを返せ!」
噛み付くような樋代勇一の視線を受けて、ヴァーストスは笑った。
実に場にそぐわない軽快な笑い声だ。
肩を揺らして笑ったかと思うと、腕を開く。
その腕へと縋りつく形になっていた私はというと、突然逃げだすことになったヴァーストスの腕を反射的に追いかける。
解放されてすぐにヴァーストスへと抱きつく形になった私に、樋代勇一が息を飲む音が聞こえた。
「……返すもなにも、梨乃は進んで私の腕の中に飛び込んで来たようだが?」
「おまえが相薗さんを騙しているのだろうっ! 相薗さん、騙されちゃダメだ! そいつは悪神で、世界に混沌をもたらした……」
「世界に混沌をもたらす、か。まあ、ある意味では間違いではないが……」
ふん、と鼻を鳴らしてヴァーストスが笑う。
腕に縋りついた私の腰へと手を回し、抱き直したのは、おそらく樋代勇一への挑発行動だ。
奥歯を噛み締める音が、夜の静寂のせいでよく響く。
「相薗さん!」
「……私は、ヴァーストス様を信じます」
叫ぶ樋代勇一とヴァーストスを見比べ、樋代勇一を見据える。
樋代勇一の事情はわからないが、どちらを信じるかと考えれば、判断材料の多いヴァーストスだ。
樋代勇一はしきりに「騙されている」というが、ヴァーストスは私に嘘をついたことは無い。
今も剣を構えたまま、騙されているとだけ叫ぶ樋代勇一とは違う。
「だから、相薗さんは騙されているんだよ! そいつは悪神……」
「私は、自分に不利な情報でもちゃんと話してくれたヴァーストス様を信じます」
悪神と呼ばれていることも、自分が破壊と再生を司る神だということも、ヴァーストスは聞けば話してくれた。
それに、人間をやめさせれば管理が簡単であっただろう私のことも、ちゃんと元の世界に返しやすいようにと、人間のままでいさせてくれた。
多少空腹に悩むことはあったが、私は私のままでここにいる。
髪や目の色、人を殺すことへの忌避感すら無くしてしまった勇者とは違う。
身体つきが変わっていることを思えば、樋代勇一は何年かこの世界で生きてきたのだろう。
騙されているのは、おそらく樋代勇一の方だ。
悪神と詰られるヴァーストスは、何もしていない。
この世界の混沌は、破壊と再生を司るヴァーストスを恐れ、死を遠ざけた勇者が結果としてもたらしたものだ。
地上に命が溢れ、混沌を呼び込んだのはヴァーストスではない。
「巫女たちを斬ったようにヴァーストス様を斬るのなら、先に私を殺して」
「相薗さんを殺すなんてことはしない!」
「ヴァーストスを殺せば私も後を追います。ヴァーストスを斬るのなら、樋代くんが私を殺すのよ」
ヴァーストスの前に立ち、巫女たちが私を守ってくれたようにヴァーストスを守る。
体格が違うので、私という盾などヴァーストスの全身を守ることはできないが、私の役割はヴァーストスの鎧だ。
樋代勇一の戦意さえ削げばいい。
間があきました。
次で終わりです。




