第三話 「ありがとう」
ありがとう。
ありがとう、ありがとう。
本当に、ありがとう。
「ありがとう、遥」
赤崎が声をかけると、突然話を振られたことに驚いたのか、最愛の妹は微かな動揺を見せた。ありがとう、と言われたことを訝しく思っているように見える。
そんな彼女の様子に目を細め、赤崎は心の内で静かに決心を固めた。
「君の存在には、本当に救われた」
初めて会った日は、突然すぎて、唐突すぎて、僕はやっぱり動揺したし、ひどい事もたくさん言ったね。
どうしてこんな大事なことを今まで隠していたのか、今更そんなことを言われたって受け入れられるはずがないって。
遥は何も悪くなかったっていうのに、僕はまるで子供のように散々怒鳴り散らして。
『一度吐いた嘘なら、最後までつき通せよ』
挙句の果てに、おじいちゃんとおばあちゃんにも八つ当たりして。
(それでも君は、)
そんな、どうしようもない僕に、少しずつ歩み寄ろうとしてくれたね。
僕が必死になって拒絶しても、君はそれと同じくらい必死に、僕のことを知ろうとしてくれて。
だから僕も、変わろうと思えたんだ。
時間はかかってしまったけれど、“藤黄遥”という現実に、向き合うことを決めたんだ。
「遥が僕の妹でよかった」
彼女は、綺麗な黒色の瞳にいっぱい涙を浮かべて、体を小刻みに震わせている。お兄ちゃん、と掠れた声で赤崎はそう呼ばれた。
この世でただ一人、自分のことを“兄”と呼ぶ彼女に。
「…遥」
赤崎も、それに応えるように彼女の名前を呼んだ。
(もう、覚悟は出来た)
「今から言うよ。僕があの日、どうしても君に言えなかったことだ」
ふと、赤崎は緑間の表情が歪んでいることに気がついた。
そう、彼は知っている。赤崎がこれから何を言い、それに対して遥が何を思うのか、そして、いつか実現したはずのその未来を、不本意にも奪う結果となってしまった自分に、緑間はどうしようもないほど絶望しているのだろう。だからおそらく、そんな顔をしているのだ。
(でも、僕はきっと、そんな顔はしていない)
「僕は、遥と離れていた十年をやり直したい。過去を変えることが出来ないことはわかってる。それでも僕は、遥と一緒にこの空白を埋めたいんだ。だから」
赤崎は彼女に向かって手を伸ばし―笑って、言った。
「僕と一緒に暮らさないかい」
その言葉に、遥が目をまん丸に見開いた。
はっとした表情で顔を上げ―端整なその顔をくしゃりと歪める。いっぱいに溜まった涙が、ようやく彼女の目から零れ落ちた。
その涙は不思議と、初めて“兄妹”になった二年前、遥が流したものと同じ色をしているように、赤崎には見えた。
愛しいと、そう思う。本当に、心から。
この感情は、恋愛のそれではないけれど―それでも。
自分は確かに、彼女のことを愛しているのだろう。
確かに赤崎は、この時そう思った。
「勿論裕福は望めないだろうし、遥には苦労をかけると思う。おばあちゃん達とも離れ離れになるし…」
この提案を、必ずしも遥が承諾するとは思っていなかった。断られることも、十分覚悟の上だった。
遥は、自分を本当の娘のように育てて、愛情を注いでくれた祖父母のことを本当に愛していたし、赤崎の家で暮らすとなると、中学校までの道も遠くなる。最悪、転校も考えなくてはならなくなるかもしれない。
高校三年生になってから、今後のことも考えて少しでもお金を溜めようと、アルバイトを始めたはいいが、赤崎の性格上長続きしていないというのが現状だったし、学生のバイトの月給などたかがしれているのは明白だった。
万が一遥と一緒に暮らすということになったら、祖父母は二人分の生活費を仕送りしてくれると言ってはくれるだろうが、そんな余裕もそろそろ彼らにはなくなってくるだろう。もしかしたら今でさえ、多少なりの苦労をかけているかもしれない。
貯えだって、いつかは尽きるのだ。二人の老後を考えると、そろそろ自分は祖父母の援助から卒業し、自立しなくてはならないと赤崎はずっと思っていた。
だからやっぱり、彼女には迷惑をかけてしまうだろう。
だが、それでも。
「もしも遥が、それでもいいと言ってくれるなら」
遥が、口元を両手で覆って必死に首を縦に振っている。
赤崎は伸ばしたその手で彼女の手を引こうとして―その寸前、自分が彼女に触れられないことを思い出し、思い留まった。そして、一歩足を踏み出して遥の体を抱きしめる。
勿論今の赤崎にはどうしたって遥に触ることは出来ないし、その逆もまた然りなので、構図的にはそう見えていても、実際は抱き合うことなど出来るはずがないのだけれど。
それでも不思議と彼女の温もりを微かに感じて、赤崎はほんの少しだけ泣きそうになった。
泣きそうになる自分をぐっと喉の奥に押し込み、赤崎は宥めるように彼女に言った。
「一緒に暮らそう。大事にしたいんだ、遥といる時間を…たった二人の、家族なんだから」
それは叶えることも出来なくて、どうしたって叶うこともない願いだけれど。
不意に遥の腕が持ち上がった。そして、彼女がパーカーのポケットからあるものを取り出す。赤崎にはそれがなんなのかすぐにわかった。
そっと彼女を解放すると、取り出したそれが迷いなくこちらへと差し出された。
「“今度はずっと、一緒にいよう”」
黄色の、短冊だ。
「手紙、読んだよ。私は、結局お兄ちゃんの一番にはなれなかったけど…でも、それでもいいんだ。ありがとう、私の気持ち、受け入れてくれなくて」
彼女の言う手紙―というのは、赤崎が響に代筆してもらった、机の引き出しにしまっておいたあの手紙のことだろう。
赤崎は、今ここでその手紙の話になると思っていなかったので、少しだけ驚いていた。
「もっと、話したいことが、たくさんあったね。色んなところに、行ってみたかったね。一緒にいたかったよ…お兄ちゃん、私、もっと、ずっと、一緒にいたかったよ」
「…僕もだよ。僕も、ずっと、一緒にいたかったんだ。遥、僕は…もっと、君のことを、大事にしてあげたかった」
たくさん大事にしてもらったよ、と彼女は笑った。泣きそうな顔で、目いっぱいに涙を溜めて、彼女は最愛の兄に向って微笑んだ。
「私達、きっとまた、会えるよね」
ありがとう。一緒に暮らそっか。
今度は遥の方から赤崎へと抱きつく。押し込んだはずの熱がせり上がってきて、堪えきれずに赤崎は涙を流した。
「…遥……っ」
(どうして、)
どうして自分は、彼女の涙を拭ってやれないのだろう。
どうして自分は、彼女を抱きしめることが出来ないのだろう。
どうして自分は、彼女を置いてひとりいかなくてはならないのだろう。
(こんなにも未練を残して、どうして僕は)
「……ごめん。本当に、ごめん…」
謝ると、ふるふると遥が首を横に振った。
「謝らないで。私、幸せだった。お兄ちゃんと兄妹になれて、本当に、幸せだったの。だから、」
最後に一つだけ言わせて、と彼女が言う。うん、なんだい、と涙混じりの声で赤崎は聞いた。
「お兄ちゃん、大好き」
それは。
その言葉は。
彼女がずっと、赤崎に対して言えずにいた言葉だった。
今まで一度だって、彼女が赤崎に“好き”と言ったことはなかったから。
それが兄に対しての「好き」なのか、それとも恋愛感情としての「好き」なのか、赤崎にはわからなかったけれど。
「……うん、僕も。大好きだよ、遥」
今この瞬間に、それ以上の言葉は必要ないと、確かに赤崎はそう思った。




