第二話 「彼の未練」
緑間が海岸の脇に自転車を停めるのを待たずに、赤崎は石造りの階段を使って砂浜に降りた。
ザ、ザ、と砂を蹴りながら両腕を広げ、すうっと空気を吸い込む。塩のにおいがした。
息を吐き出すと、後ろから緑間に名前を呼ばれる。
「なんとなく、ここかなあって思ってはいたけれど…こんなところまで自転車で来ようって思うのは、多分祭くらいだと思うよ」
「ああ、まあ、おかげで大分疲れた」
緑間が赤崎の隣りに立った。ザーっという波の音が聞こえる。
「連れてきてくれてありがとう…多分僕、最期はここに帰ってきたかったんだと思うから」
ここ―というのは、目の前に広がっている海のことである。
そう、彼らは今、海に来ていた。
緑間が必死に自転車を漕いで辿り着いた場所は―何日か前、赤崎と共に訪れた、藤黄家のそばにあるあの海のことである。
幼い頃、“母親”に何度か連れてきてもらった、赤崎にとっては後にも先にもそれだけの場所。
それだけの場所―であるはずなのに、心のどこかでもう一度、ここへ来たいと思っていた自分がいたらしい。赤崎は苦笑いをする。
やはり、“母親”への執着心というのは、自分でも思っている以上に大きなものであったようだ。それがどちらの母親を指すのかは、赤崎自身にもわからないけれど。
だが、それでも。
はっきりと、覚えていることもあったのだ。
この海で、この砂浜で、この景色を背景に自分の手を引いてくれていたのは―。
藤黄奏と、赤崎結。
後にも先にもこの二人だけだった。
陽だまりのようなあたたかい体温でいつも自分を包んでくれていたあの人を、そして、少し冷めたぬくもりをいつも自分に注いでくれていたあの人のことを、全部、全部思い出した。
もしかしたら自分は、この場所に来てそのあたたかさに触れることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
―最期に、来れてよかった。
「…もう、時間かな」
赤崎は、ぽつりとそんな風に呟いて遥の体から出る―否、正確には“追い出された”という表現の方が正しいかもしれない。つまりもう、遥の体を借りる力すら、赤崎には残っていないということだ。
赤崎が離れたことでぐらりと遥の重心が傾く。そんな彼女を倒れる寸前で支えたのは緑間だ。
「ナイスキャッチ」
からかい気味に言うと、「お前なあ…」と若干呆れた様子で緑間がぼやく。
「出るなら出るって言えよ、アホ」
「だから言ったじゃないか。“もう時間かな”って」
そう、もう―そろそろ、時間だったのだ。
それは言わば、タイムリミットであったわけで。
自分のことは、自分が一番よくわかっている。
自分の霊体が、思念などでは保てなくなってきているということを。
「ん……んん、」
緑間に肩を抱かれている態勢に甘んじていた遥が、うっすらと目を開けた。
初めて―ではないにしても、響達とケンカした時と比べて彼女の目覚めが早いのは、つまり赤崎の力が弱まっているからで。
まあ、乗り移られるという行為そのものに、遥が慣れたからというのもあるのだろうが。
遥が渋い顔をしながら周囲を見渡し、緑間を上目遣いで見た。
「頭痛い…眠たい…」
うー、と不機嫌そうな顔で唸る遥。やはりというかなんというか、赤崎が乗り移るということは、多かれ少なかれ彼女の体に負担をかけるようだった。
「大丈夫か?」
「なんとか…」
頭を押さえながらよろよろと態勢を立て直し、遥が緑間の手を離れる。
赤崎は、断わりも入れずに無断で体を借りたことについて謝ろうと思い、口を開いたわけだが―それは、口からこぼれる寸前で勢いよく彼の喉の奥へと引っ込んでいった。
何故なら、遥が―視えていないはずの遥が、驚いたような顔で赤崎の方を見ていたからだ。
(そんな、まさか…)
今まで何度か、視えていないはずの遥と目が合うことがあったのは事実だ。本当に、視えているのではないかと錯覚してしまうくらい。
だが、それに対して彼女が明確な反応を赤崎に返したことは、一度もなかったのだ。たまたま遥の目線の先に赤崎がいた、ただそれだけだった。
それなのに。
「は…遥、もしかして」
僕が、視えてる?
遥が、両手で口元を覆い、わなわなと体を震わせて目にいっぱい涙を溜めた。
それに対し緑間が若干驚いたような顔をしたが、彼は何も言わず彼女の頭にそっと手を置いた。
「お…お兄ちゃん?」
ぽろぽろと溢れ出る遥の涙が、ひとつふたつと砂浜にしみを作っていく。
(ああ、僕も泣きそうだ)
「……うん?なんだい、遥」
赤崎が、空いた距離を埋めるように、一歩一歩遥の方へと歩き出す。そして、遥との距離が拳五つ分くらいになったところで、赤崎は足を止めた。
ゆっくりと手を伸ばし、彼女の涙を拭う―動作をした。
わかっていたことだ。赤崎はおそらく、もう二度と誰にも触れられないし、触れない。
だから、今の彼にはもう遥の涙を拭うことは出来ない。
それでも、せめて真似事くらいは、したかったのだろう。
「…ずっと、」
遥が、震える声で言葉を紡ぐ。
「ずっと、会いたかったの…あの日から、ずっと」
「…うん。僕も会いたかったよ、遥」
本当は、抱きしめたかった。抱きしめて、これからはずっと一緒だと、そう言えたらどれだけいいか。
どんな言葉を使っても、それが虚構であることが目に見えてしまって、何も言えない自分がひどくもどかしい。
「待ってるって約束したのに…なんで、こんな」
「それは…」
緑間の手が、途端に遥の頭から離れていく。その表情はひどく陰っていた。
なんとなく、彼が何を思っているのか赤崎にはわかった。
罪悪感。
あの日から今日までずっと、緑間を苛んでいた一番根っこの感情。
バカだなあ、と赤崎は思う。
(君を庇ったことに、後悔はしたけれど)
「僕が選んだ道だから」
他の誰でもなく自分自身が、流されるままに生きてきたこんな僕が、自分で選択して、選んだ道なのだから。
「誇りだよ。あの日祭を庇えたことは」
ひどく穏やかな表情で、赤崎はそう言った。
(君に向けた言葉だよ、祭)
どう思おうと勝手だけれど、これは紛れもなく僕の事実だから。
罪悪感とか、やめなよ。そんなの辛いだけだからさ。
そんな赤崎のテレパシーがどこまで伝わったのかはわからないが―緑間の目は、ひどく充血していて、涙をたくさん溜め込んでいた。最近の祭は昔みたいに泣き虫だ、と赤崎は小さく笑う。
(まあそれは、僕にとっても例外ではないのだけれど)
死んでからというもの、涙腺が緩んでしょうがない。
「…そんなに大切な人?」
私よりも?と聞いてこないあたり、さすが僕の妹だとも赤崎は思った。相手の逃げ道は塞がない、そういう優しい聞き方だ。
(…いや、違うか)
それは、自分の逃げ道を残しておく為でもあるのだから。
私よりも―と、聞かれなくて本当によかった。
僕の中で、“どっちかなんて選べない”という選択肢は、初めから存在していない。そして、僕が選んだ答えでは、多分きっと、彼女のことを傷つけてしまっただろうから。
赤崎は言った。迷いはなかった。
「うん、大切な人」
その答えに満足したのか―していないのか、それは赤崎にはわからないことであったけれど。
彼女は涙を拭って、「そっか」と不器用に笑ってみせた。
「祭兄も、そうなんだよね」
いきなり話を振られたことに、緑間は少し驚いているようだった。その時一瞬目が合ったが、緑間は気まずそうにさっとそっぽを向いた。挙動不審な幼なじみを、赤崎は少しだけ訝しく思う。
緑間は何かを言いかけて口を開いたが、結局再び口を閉じた。
だが、しばらくして何かを決心したのか、もう一度赤崎の目と緑間の目が合った。
「俺も一つだけ、お前についた嘘がある」
どこか情けない表情で―緑間は笑ったのだ。
「成仏なんて、すんなよ」
その言葉に。
その、たった一言に、ツキンと赤崎の胸が痛んだ。
まっすぐに向けられた幼なじみのそれに、喉が焼けるように熱くなった。
“成仏させてやる”
“成仏しろよ”
まさかそんなことを言われるだなんて思ってもいなかったものだから、本当に、赤崎は驚いていたのだ。
―“成仏なんて、すんなよ”―
僕を中心に自分の世界を回しているはずの祭が、僕を困らせるような我儘を言うなんて。
(そんなこと、今までなかった)
今更それが、何故だか赤崎には泣きそうになるくらい嬉しかった。
「…あんなに、成仏させたがっていたのに?」
喉に熱い塊がつっかえていて、うまく声が出なかった。
それでもおそらく、その声は届いただろう。今までだってずっと、二人はそうだったのだから。
「その気持ちに嘘はねえ。でもそれは…俺にとって、本心でもないんだよ」
僕、ここにいてもいいの?
「いてくれよ、頼むから」
祭の手が伸びてくる。その手はしっかりと僕の手を取った。
(もう、触れることも、触れられることもないんだと思っていたのに)
君がまだ、こんな僕の手を掴んでくれるというのなら。
―僕はもう、それだけで十分だ。
「…もしもさ、」
***
「明日世界が終わるって言われたら、どうする?」
対象を指定しなかったということは、それはおそらく自分と遥に向けられた問いかけだったのだろうと、緑間は思う。
今の流れで何故そんな言葉が出てくるのかはわからなかったが、あえて緑間はそれに関して触れなかった。
それはおそらく、赤崎には必要なことなのだと思ったからだ。
「どう、と言われても…なあ?」
「うん…」
遥と顔を見合わせ、肩を竦めた。
生憎だが、そんなことは生まれてこの方一度も考えたことがない。
世界が終わる―というのは、具体的に言うと自分が死ぬ時のことを指しているのかもしれないが、それにしたって、自分が死ぬ前日のことなど、その時にならなければわからないし、状況もうまく想像できないし、そもそもやっぱり考えたことなどないわけで、答えようがなかった。
あまりの途方の無さに、緑間は戸惑ってしまう。
(…そういえば)
不意に思った。
十八年間生きてきて、自分は一度でも“もしも静がいなくなったら”と考えたことがあっただろうかと。
答えは勿論否だった。
そんなこと、考えただけで泣きたくなる。
考えれば考えるほど論点がずれていく緑間に、赤崎が「いいんだ」とストップをかけた。
「そんなこと、いきなり聞かれても簡単には答えられないだろうから」
きらめくオレンジ色の地平線を眺めながら、赤崎が苦笑いをする。まるで初めから、全てをわかっていたかのように。
「だから考えたんだ。もしも世界が明日終わるって言われた時、僕は一体何を望むんだろう。―何をしたいと思うんだろうって」
そうしたら、答えはすぐに出たんだ。赤崎は言う。
(ああ、バカだ)
答えなんて、出さなくてもよかっただろうに。
そうすれば、いつまでも一緒にいられただろう。本当に、どうしようもないほどの執着心に、緑間は怒りを通り越して笑ってしまう。
「僕の望みは、初めから一つだけだ」
わかっている。
わかっては、いる。
(こいつの考えていることくらい、初めからちゃんとわかってた)
「…僕はもう一度だけ、みんなに会いたかっただけなんだ」
(俺がお前なら、多分同じことを言っただろうから)
『良くも悪くも、僕と青子は似た者同士だったから』
(俺とお前も、対して変わんねえよ)
とびっきり“遠い”、似た者同士だ。
だからやっぱり、静だって成仏したくはないんだろう。
俺が成仏してほしくないと望んでいる、もしも逆の立場だったら、やっぱり俺は、成仏なんてしたくねえよ。お前だって、そうだろ。
(…でも、)
想いだけでは遂げられぬ望みが、俺達の間に生じているのは確かで。
俺達はそれを、よく知っていて。
だからお前はいくんだろう。自分の想いも、俺の望みも全部丸ごと抱えて。
そして俺は、
“最後は笑って、”
―見送ってやると、この海に約束をした。
それは多分、今の俺が静にしてやれる唯一のことで、永遠のような一瞬に過ぎなかったこの一ヶ月に終止符を打つ、最善の選択だとわかっているから。
俺は一人で立って歩いていけるようにならなきゃならない。
俺達は、前に進まなきゃならないんだ。
(そうだろ、静)
その為に俺は、自分の望みをこういう形で言葉にしたんだ。だったら今度は、お前が言葉にする番だよな。
「でも、違ったんだ。僕の本当の望みは、その延長線上にあった」
穏やかに、穏やかに、穏やかに。
けれどもどこか泣きそうな顔で、バカな幼なじみは笑ったんだ。
「僕の未練はさ、“ありがとう”って言えなかったことだったんだ」




