第一話 「最後のトキ」
チリリン。
自転車が揺れる度、微かにベルの音が鳴る。
「どこに行くの?」
「さあな。お前が一番、よくわかってんじゃねえの?」
二人は自転車に乗っていた。この自転車について一応補足しておくと、これは赤崎のものでなければ緑間のものでもない(彼の自転車は、響達と“ケンカ”した際、仲良し広場に置いてきている)。
持ち主は不明で、つまるところ彼らは、その辺に停めてあった自転車を無断で拝借してきたということである。勿論後で返そうとは思っているが。
「まさかこの日記を持ってくるとは、思わなかったよ」
緑間が持ち出してきたあの日記は、今赤崎が抱えている。やむを得ない、緑間は今自転車を漕いでいるのだから。
聞いた話によると、どうやら赤崎は、響達が“絶対に開けるな!”と書いてあったダンボールを開けたこと、そしてその中に入っていた日記を緑間に渡していたことを知っていたようで、さして驚いた様子は見せなかった。
「でも、祭の手に渡っているなら、心配いらないな。出来ればそのまま、預かっていてほしいんだけれど」
「え?ああ、それは別に構わないけどよ…いいのか?俺が持っていても」
「うん。それと、一つお願いが―」
と、そこで赤崎の言葉が唐突に止まった。
前を向いて自転車を漕いでいる緑間には、当然赤崎の様子など窺えるはずもなく―それでも、何か言葉に詰まっていることを察し、どうかしたのかと訊ねた。
「…いや、ちょっとだけ、驚いただけだよ。響かな、これを日記に挟んだのは…」
「これ?」
「写真」
(―それは)
お前は、それを、一体、どんな気持ちで。
何を言ったらいいかわからず、緑間はそれっきり押し黙った。そんな緑間の後ろ姿を、目を細めてじっと見つめながら、赤崎は言いかけた言葉の続きを伝えた。
「…そう、一つ、お願いがあって」
紙の上をペンが走る音が聞こえた。おそらく赤崎がその日記に何かを書いているのだろう。緑間はただ黙って赤崎の言葉を待った。
「もしも―――」
声が小さかったのと、その時すぐ横を車が通ったこともあって、うまく聞き取れなかった緑間であったが―それをわざわざ赤崎に聞き直すことはしなかった。
「ああ、わかった。約束する」
「うん。頼んだよ、祭」
「お前が素直に物を頼んでくるなんて、なんか気味悪いな…つうかお前、やっと俺のこと名前で呼んだな」
ついでのように続けられたその思いがけない緑間の言葉に、赤崎が目を丸くする。
勿論緑間には、後ろにいる赤崎の表情の変化を読み取ることは出来なかったけれど、肩に置かれている赤崎の手に、若干力が込められたことはわかった。
「…気づいてたの?」
「いや、俺は全然。ただまあ、ちょっとな…遥に言われたんだよ、“お兄ちゃんって、祭兄のこと名前で呼ばなくなったね”って。言われた時は、さすがにそんなことないだろって思ったんだけどな、ちょっと意識して聞いてたら、本当にお前俺のこと名前で呼ばないもんだから、驚いた」
理由は、と緑間は問う。名前を―祭と呼ばなくなった理由を、赤崎は問われる。
「…さあ。もう、忘れちゃったよ」
「はは、そうかよ。お前らしいな」
***
チリリン、チリリン。
自転車は進む。漕いでいるのは緑間だ。
緑間と二人乗りをすることは度々あったけれど、今まで赤崎がハンドルを握って自転車を漕いだことは一度もなかった。
その理由として、赤崎の体が軟弱であることが挙げられる。
赤崎は、運動神経は抜群だが、体力と持久力に乏しく、おまけに非力だった。筋肉にはほぼ遠い体の造りをしていたので、必然的に緑間が自転車を漕ぎ、赤崎は後ろでのんびり座っているのが、最早暗黙の了解であったと言える。
今だってそう。
まるで何も変わらない。
自転車を漕いでいるのは緑間だ。
「……ね、祭」
「んー?」
「代わってよ、場所」
「は?」
主語がなさすぎた為に、おそらく赤崎の真意は緑間には伝わりきらなかったのだろう。
怪訝そうな顔で後ろを振り返った緑間の前髪が風圧で凪いでいて、彼の広いおでこが惜しげもなく晒されている。
自他ともに認めるくらいには、緑間はおでこを出すとかなり子供っぽく見える。本人はそれを嫌がっているようで、だから彼の前髪は、他と比べて随分長い。
「代わってって、何を」
「僕が漕ぎたい」
その言葉に、緑間はしばらくの間赤崎を見上げるような形で(出来れば安全運転をお願いしたいので、前を向いてほしいのだが)ぽかんとしていたが、しばらく経ってからブレーキをかけ、自転車を止めた。
サドルから腰を上げた緑間に、「ほら、」と赤崎は促される。
「別に構わないけどよ…無理じゃね?お前、だって今遥の体なわけだし」
「いいんだよ、別に。それならそれで」
赤崎は素っ気なく言い放って、緑間が譲ったサドルに腰を下ろす。
少々渋った様子を見せはしたものの、次いで緑間が本来荷物を置く為に設置されたそれに跨った。さすがに、女子のように後ろから背中に手を回されたりはしない。
グリップをしっかりと握って、赤崎は初めの一歩を右足で踏み込み、ペダルに体重をかけた。
が、あまりの重さにスムーズにペダルを漕ぐことができず、よろよろとそれでも二メートルほど前進したのだが、途中で横転しかけたので、赤崎は大人しく緑間にその席を返却した。
「だから言っただろうが。遥の体で俺を乗せて自転車を漕ぐなんざ無理だって」
「…うっさい」
結局安定の定位置に戻り、緑間は赤崎を乗せて再び自転車を漕ぎ始めた。自転車は緩やかに坂を下り、線路に沿って進んでいく。
赤崎は現在の時刻を確認しようと、パーカーのポケットをごそごそと漁って遥のスマホを取り出した。
勝手に彼女のスマホをいじることに多少の罪悪感を感じつつ、赤崎は画面をタッチしてディスプレイを確認する。もう四時近かった。
こうして自転車に乗ってからどれくらい時間が経ったのだろうと、ぼんやり思う。
携帯の待ち受けは、いつかに遥と二人で撮った写真だった。
「で、一体どうしたんだよ。自転車を漕ぎたいだなんて、お前らしくもない」
「…別に」
赤崎は、きゅっと唇を噛んで、妹のスマホをポケットへとしまい込む。赤崎は立ち乗りをしようか一瞬迷って、結局やめた。
「ただ、生きている間にやらなかったことを、死んでからやっておけばよかったなって後悔しているだけ」
少し意地の悪い言い方だったな、と赤崎は思った。そして案の定、緑間が押し黙る。
ぽすんと、そんな効果音と共に赤崎は緑間の背中にもたれかかった。
「バカだよ、本当に…今更になって僕は、やらなかったことばかり後悔する」
それは。
それはきっと、出来なくならなければ到底理解出来るはずのない感情で。
だから緑間には、やらなかったことに対する赤崎の後悔だなんて、やっぱりわかるはずもなくて。
それでも。
何を言いたいのかくらいは、わかっているつもりだった。
「……お前、そんなんで成仏出来んのかよ」
「無理かもね」
***
チリリン、チリン。
辺りは未だ真っ暗である。日の出まで、あと一時間くらいはかかるかもしれない。
それでも緑間は、自転車を漕ぐ。
前へ、前へ。
ひたすら前へ、進む為に。
「ああ、そうだ。あのさ、祭。頼みがあるんだけど」
「頼み?」
前を向いたまま、緑間は赤崎の言葉を反復する。
「遥のこと」
遥は本当に、祭のことが大好きみたいだから。赤崎がそんな風に続けた。
傍から―というか、彼女の兄には、遥が自分のことを大好きなように見えるのかと、冗談交じりに緑間は思う。正直、そこまで好かれている自信は緑間にはない。
「そんなこと言っていいのかよ。俺、手出すかもしんねえぜ?」
「それは絶対嫌だけど…まあ、どこの馬の骨ともわからない男についていかれるくらいなら、祭の方がまだマシかな」
「ひっでえ言われ方…」
響ほどではないにせよ、やはり赤崎はシスコンだった。
まあ、そのことに関しては、ある意味緑間も人のことは言えないのだけれど(これで結構、緑間は姉を溺愛している節がある)。
もしも美咲に彼氏ができたらと思うと、それは勿論相手を呪いたくもなるだろう。だから、赤崎の気持ちを全く理解出来ないというわけでもなかった。
まあもっとも、彼の妹に手を出すつもりなど緑間には更々ないのだけれど。
「少なくとも、信用はしているよ。だから頼むんだ、遥のこと」
「お前のそれは、俺からすれば少なくとも信用じゃあねえけどな…まあ、いいか。おう、確かに任された」
遥のことを頼まれたからといって、具体的に何をどうすればいいのかはさすがにまだわからないけれど―どのみち、今後も遥と赤崎祖父母との付き合いは続けていきたいと緑間自信も思っていたし、何より。
出来うる限り、彼女のために時間を割こうと―“祭兄”―そう呼ばれるに足りる存在になろうと、緑間はもう既に決めている。
頼まれるまでもない。
「ああ、そう、頼むと言えばもう一つ」
「あ?なんだよ」
赤信号にひっかかり、緑間が自転車にブレーキをかけて一時停止をする。
こんな時間だ。早朝の、尚且つ車通りの少ない道を、緑間はあえて停まった。
赤崎ならば、確実に信号無視を決め込むところだというのに…緑間はそれをしない。自転車は盗んだくせに、信号は守るのだ。
それもまた、赤崎と緑間の間に生じる、ほんの少しの差異でもあった。
「青子のこと、幸せにしてあげてね」
信号が青に変わり、緑間が再び自転車を漕ぎ始める。
「…それは確かにお前の意思だろうが、本心じゃあねえだろ」
「本心だよ」
「嘘つけ」
(お前の嘘を、俺が見抜けないはずねえだろうが)
あくまで赤崎の方は向かず、ただ前を見据えたまま緑間は自転車を漕ぎ続ける。
―あの時。
『小さい頃から好きだったんだって』
あの時は、聞かなかったことに安堵した。聞かなくても答えは初めからわかっていたけれど―それでも。出来ることなら、目を背けていたいと思ったから。
だが、今ならちゃんと聞ける気がした。ちゃんと聞いておかなければいけないと、緑間は思った。
曖昧にしたまま青子と一緒になることは、自分が一番許せない。
だから緑間は言ったのだ。
「青子のこと、好きなんだろ。お前」
赤崎は。
赤崎は、迷わなかった。
「うん」
誤魔化すことは、いくらだって出来ただろうに―今までだって彼は、いつだって誤魔化して生きてきたというのに―それでも赤崎は、今この局面で誤魔化さなかった。自分の気持ちを正直に吐き出したのだ。
十八年間ずっと、誰にも言わずに胸の奥底にしまい込んできた、彼女への想いを。
「好きだった…いや、好きかな、今でも。出来ることなら、僕が幸せにしたかった」
でも、それが無理だってことは、こうなる前からわかっていたよ。赤崎が言う。
「だって青子は、今も昔も、これからだって…祭のことが一番だったから」
その言葉に、緑間の眉間に皺が寄った。
それは。
それだけは本当に―聞き捨てならない。
「んなわけあるか。あいつはずっとお前のことを、」
「…そうだね。僕も、そう思う」
その声音があんまり寂しそうだったものだから、緑間は押し黙るしかなかった。
「言い方を間違えたよ。そう、多分僕は知っていたんだ。青子はいつか、祭のことを好きになるって」
青子が僕を好きだっていう気持ちに、嘘はなかったと思う。でも、それでもいつかきっと、彼女は僕じゃなくて君を選んでいくんだろうって、心のどこかでわかっていた。そんな風に、赤崎が言う。
その言葉には、どこか諦めも混ざっていた。
「良くも悪くも、僕と青子は似た者同士だったから」
「…なんだよ、それ」
たったそれだけの言葉で片付けてしまう赤崎が、そんな言葉では到底片付けることが出来ないほどに青子のことを好きだったと知っている緑間には、とても面白くなくて。仏頂面で、緑間はそう呟いた。
「本当、なんなんだろうね。僕にもわからないや」
でも、わかることもあるよ。まるで自分に言い聞かせるように、赤崎が静かに続けた。
青子のことは、本当の本当に、大好きだけれど、と。
「祭だから、僕は諦められる…強がりとかじゃ、ないよ」
「……、」
「だって僕は、祭のことも大好きだから」
その、裏表のないまっすぐな言葉が、緑間の胸の奥底に沈んでいた何かを―深く、抉るように貫いていった。
ぼんやりと涙で視界が滲む。
貫かれた胸が、どうしようもなく痛かった。
そのまっすぐさが、緑間にはいつも辛かった。
赤崎といると、いつも自分が矮小な存在であるように思えてならないからだ。
惨めな気持ちになる。
「青子と一緒に、幸せになってよ。祭」
「お前の分もか?」
「君自身の為にだよ」
しばらく経って、「言われなくても」と掠れた声で緑間は返した。それに対し、赤崎は満足気に「うん」と相槌を打った。
***
チリンチリン、チリリン。
大分広い道路に出てきたような気がする。みぎてには海が見えてきた。
どれくらい時間が経っただろう。
今何時だ?と緑間が訊ねると、赤崎は再び妹のスマホで時間を確認する。五時三十二分だ。
「そういやお前、遥の体には一時間くらいしか乗り移ってられないんじゃなかったか?」
緑間が、赤崎を探して家を飛び出したのが二時半過ぎくらいのことである。
そこからあの公園での赤崎との一悶着を差し引いたとしても、現時点で既に一時間以上は経過している。
だが、依然として赤崎は、遥の体に乗り移ったままだ。
「ああ…うん、平気。今の僕にはもう、遥に取り憑くほどの力はないからね。いずれこの体にも、乗り移ってはいられなくなる」
それは。
それはつまり―本格的に、赤崎の成仏が近づいてきていると考えて、いいのだろう。別れの時が、もうすぐそこまで近づいてきているということだ。
「…あのさ、祭」
やはり夏は日の出が早い。昇り始めた太陽が、徐々に東方の空を黄金色に染め始める。海がきらきらと光っていて、とても綺麗だった。
日の出を見る機会なんてそうそうないものだから、緑間は思わず自転車を停めて、スマホで写真を撮る。全部終わったら、携帯の待ち受けにしようと心に決めて。
それをきちんと保存してから、緑間は再び自転車を漕ぎ始めた。
「…綺麗だね」
「おう」
目的地まで、おそらくあと一時間もかからないだろう。行き当たりばったりの思いつきによる無茶だったような気もするが、どうやら自転車で行けないわけでもないらしい。
時間はかかるものの、今度から“こっち”に来る時は、電車ではなく自転車という移動手段も念頭に置いておこうと、緑間は思った。
まあ、もっとも。
その時にはきっと、今後ろに乗っている幼なじみはもういなくなっているのだろうけれど。
そうしたら自分は、この長い道をひとりで進まなくてはならなくなる。
「あのさ、祭」
「なんだよ、静」
しばらく間が空いて、そうしてようやく、絞り出すように赤崎が言った。
「僕さ、一つだけ…君についた嘘がある」
その声は微かに震えていた。緑間は、きつく唇を噛んだ。随分前からずっと、遥の声が赤崎の声にしか聞こえない。
なんとなく、今から自分はひどいことを言われるのだろうと緑間にはわかった。それでも決して、自転車を漕ぐ足を止めたりはしないけれど。
止めてしまったら、進めなくなってしまうから。
そうなったら、終われなくなってしまうから。
赤崎が、ゆっくりと、緑間を傷つけるその言葉を口からこぼす。
「後悔していないっていうのは、嘘だ」
一瞬。
本当に一瞬、ハンドルを握る手から力が抜けたが、緑間は必死に自分に言い聞かせ、無理矢理体勢を立て直した。
ペダルをこぐ足が若干重くなったような気はするが、大丈夫、まだ進める。
緑間は、逸る心音を深呼吸することでなんとか納め、何度も心の中で“大丈夫”と復唱した。
後ろに乗っている赤崎の手は、緑間の服の裾を握っている。
その手に、若干力がこもった。
「祭を庇ったことに後悔はしていないって、ずっと自分に言い聞かせてきたけれど…君を庇うんじゃなかったって、やっぱり生きていたかったんだって、そう思う自分が、確かにいた」
―そうだろう。
(そりゃあ、そうだよな)
お前は、色んなことを知ったんだから。
生きている間に知れなかったことを、死んでようやく、知ることが出来たんだから。
お前は、たくさんの人に愛されていたことを、ここにきてようやく、知ったんだから。
でも、と赤崎が続ける。その声音はひどく穏やかで、緑間は泣きそうになる。
こいつはいつでも、どこまでも自己嫌悪ばかりを抱えるだけ抱えて―いつだって周りを責めることはしなかった。今もきっと、その延長線にいるのだろう。
静は自分ばかり傷つける。損な生き方をしているとしか、言いようがないほどに。
「でも、最期に来てくれたから…それで十分だって、今はちゃんと、そう思えてる」
背中からあたたかい感触が伝わってくる。おそらく赤崎が寄りかかってきているのだろう。緑間は、自転車を漕ぎながら若干目を細めた。
あたたかい、生きた人間の体温だ。
思わず振り返りそうになってしまって、緑間はなんとかそれを堪える。
振り返ったその時、この眼に映るのが赤崎ではないことがわかりきっていたからだ。
緑間は背中越しに熱を感じたまま、ただただ海沿いの道を自転車で漕ぎ続ける。
午前六時七分。
目的の場所へと到着する。
明けないでほしいと願っていた夜は、もう明けていた。




