第四話 「指切り」
ありがとう。
ありがとう、ありがとう。
本当に、ありがとう。
バーカ。
そんなのは全部、俺の台詞だろうが。
それからほどなくして、ぷつんと糸が切れたように遥は気を失った。どうやら体の疲労がピークに達したようである。緑間はそんな彼女の体を抱え、砂浜の階段まで連れて行った。
そして、階段のところに遥を横たわらせると、優しく彼女の涙を拭ってやった。
「ちょっとの間、ここで待っててくれな」
緑間はそれだけ呟いて、赤崎のところへと戻った。
「…遥、大丈夫そう?」
「あーまあ、大丈夫じゃないんだろうけど、今はとりあえず寝てるだけだ。そんな心配しなくても大丈夫だよ」
「…そっか」
気休め程度の言葉でも、どうやら赤崎にとってはそれなりに意味と効果を伴っていたようで、緑間には心なしか胸を撫で下ろしているように見えた。
それからしばらく沈黙が続いたが、先に口を開いたのは意外にも赤崎の方だった。
「ありがとう」
唐突なそれに、緑間の思考が一瞬停止する。瞬きを数回繰り返した後、自分なりに彼の言葉と向き合ってから深く溜息をついた。
「何に対する“ありがとう”なんだよ、それは」
思い当たる節なんて、あってないようなものだけれど。
「うーん…そうだね。全部、かな」
幼なじみからの返事はある意味予想通りで、緑間は思わず笑ってしまう。全部って。ありがとうの範囲広すぎるだろ。
「そうでもないよ」
例によって例の如く、考えていたことを口にする前に先回りされ、こうしてテレパシーを使うのは久しぶりかもしれないと緑間は思った。
そしてきっと、これが最後になる。
「僕の祭に対する“ありがとう”はさ、祭が思っているよりもずっとたくさんで、大きいんだよ」
君は、わかっていないだろうけれど、と自嘲気味に赤崎が笑った。その笑い方が、何故だか緑間の中で癪に障った。
その“癪”が、苛立ちへと変わる。
「祭の存在が、僕のことをずっと支えてくれていた。その結果、僕は君の優しさに、ただ甘えることしかできなくなったけれど」
緑間の中で、苛立ちがだんだん大きくなる。
奥の方からこみ上げてくる熱い塊に、吐き気がした。
吐き気がして―吐き出してしまいそうになる。
「今更だから言うけどさ、僕はずっと、祭みたいになりたくて、なりたくて、なりたくて…僕が持っていないものを持っている君が、羨ましくて、羨ましくて―嫉妬して。同じくらい、尊敬もして、憧れていた」
それでもなんとか飲み下して、緑間はぐっとその熱を自分の中に押さえ込む。
依然として、熱は冷めない。
「君は太陽みたいに眩しくて、あたたかくて、いつだってバカ正直にまっすぐだった。みんなに好かれる人気者で、君の笑顔はいつも周りを惹きつけて―なんていうかさ、僕と正反対の祭が、僕はずっと、」
(ああ、ダメだ)
もう限界。
静のアホ。馬鹿野郎。
「ふざけんな」
ふざけんなよ。
「勝手なことばっか言ってんな。そんなのは全部、俺の台詞だろうが」
その言葉に、赤崎が驚いたかのように目を見開いた。
こみ上げてくる熱の正体。緑間は口にしてようやくわかった。
これはとても―怒りに似ている。
「支えられていたのも、お前になりたかったのも、お前が羨ましくて嫉妬していたのも、裏表ないまっすぐさに憧れていたのも―それは全部、俺の方だ。お前に対する“ありがとう”だって、俺の方が何百倍もでかいんだよ」
お前は、それをわかっていて、そんなアホみたいなことを言ってんじゃねえだろうな?
「嫉妬も感謝も憧れも、そいつは全部俺の特権だ。お前にくれてやった覚えはねえぜ」
そして彼は。
赤崎静は。
そんな理不尽を当然のように言ってのける幼なじみに向かって。
「…本当、変わらないよね、祭は」
泣きそうな顔で笑顔を浮かべ、最高の皮肉を、緑間の名前と共に吐き出すのだった。
「そいつも俺の台詞だなあ?変わってないのはお互い様だろ、アホ静」
「…それもそうだね、バカ祭」
「バカって言うな、バカって」
「祭こそ、アホとか言わないでよ」
そうして二人は、顔を見合わせて小さく笑った。子供の頃に戻ったみたいな感覚だった。
懐かしかった。
懐かしくて―涙が。
涙が、出そうになる。
「君は昔っからそうだ。我儘で、俺様で、自己中心的で、独占欲が強くて、正直僕は、祭のことがすごく苦手だった。よく喋るし、ぎゃんぎゃんうるさいし、そのくせ人の話は聞かないし」
「はっ同感だな。自己主張しないし、ひ弱だし、大人しいし、滅多に笑わないし。俺は、お前のノリ悪いところがすっげえ気にくわなかったな。無口だし、すぐボーっとして、自分の興味がないことは全てにおいて無頓着だったしよ」
(そう、昔は)
―昔は、そうだった。
初めて静に会った時も、一緒に行動するようになってからも、なんとなく自分の城が侵食されていくみたいに感じて、良い気はしなかった。青子が何かと静の肩を持っていたから、尚更かもしれない。
自分の大切なものが、一瞬にしてかっさわれていくような―そんな不安を彷彿とさせる、本当に初めは、俺にとって赤崎静はそういう存在だった。
(いつから、)
いつからこいつは―俺の内側に入り込んで、数え切れないほどの「跡」を残していくようになったのだろう。
「でも、いつからか…君はびっくりするくらい自然と、僕の中でとても大きな存在になって。命をかけてもいいと思えるくらい、君の存在は僕の内側に深く根付いて」
「だから、それは俺の台詞だっつうの」
再三同じ台詞で緑間が毒づくと、赤崎は小さく肩を竦めた。
「僕達の関係って、一体なんだったのかな」
赤崎静と緑間祭の関係―言葉にしたことのなかった、言葉に出来なかった、言葉にするにはあまりにふわふわしていて曖昧だったこの距離感に、名前をつけるとするならば。
「そんなもん、決まってんだろうが」
緑間は、徐々に体が透け始めていく幼なじみに向かって―笑って言った。
「幼なじみで、友達で、家族で、好敵手で、きょうだいで、親友で、信友で、心友で、真友で―やっぱり幼なじみ。後にも先にもこれだけだろ、俺らの関係なんて。全部ひっくるめて、俺とお前だ」
赤崎が、「そっか」と満足気に笑って、泣いた。
「それだけ、聞きたかった」
静の体が、すうっと透けていく。どうやらもう―タイムリミットのようだ。
わかっている。
ここで引き止めてはいけないのだと、わかってはいる。それはもう、痛いほどに。
それでも腕が、無意識にも静の方へと伸びていく。伸ばしてしまう。
けれど、伸ばした手は容易く静の体をすり抜けた。静かに首を横に振って、幼なじみが困ったような顔で笑っている。もう、触れない。
“泣かねえよ”
涙が、一筋頬を伝う。
(ああ、ダメだ)
笑って見送るなんて、出来ねえよ。
「……いくな」
掠れた声が、緑間の唇から漏れる。その呟きを耳で拾った赤崎の喉が、小さく鳴った。
「…最後は笑ってって、言ったでしょ」
何度も何度も、駄々をこねる子供のように祭は首を横に振る。
「最後だなんて、言うなよ…」
だって俺、まだお前に、言いたいこと全部、言えてねえよ。お前と行きたいところだって、たくさんある。やりたかったこと、やり残したこと、たくさんあるんだ。お前だってそうだろ。
未練を、残してるはずだろ。
「頼む…頼むから。俺を置いて、勝手にひとりでいくな。お前がいないと、俺は、どうやって歩いていったらいいか、わかんなくなっちまうんだよ…っ」
(なあ、頼むよ。俺には、お前が必要だ。必要なんだよ)
「いくなよ…俺は、お前と…俺は、お前がいたから」
「僕だって!」
祭の言葉を遮るように、静が声を張り上げた。滅多なことでは声を荒げないはずの静が、そんな風に大声を出したものだから、ぽつりぽつりと零れていた祭の弱音も、一瞬で引っ込んでいく。
祭が顔を上げると、今にも泣き出しそうな幼なじみと目が合った。
「僕だって、叶うなら…ずっとここにいたいさ!離れたくなんかない、幽霊のままでいいから、一緒にいたい、成仏なんて―したくないんだよ…っでも、仕方ないだろ!?」
ああ、そうだ。そうだった。
仕方ないと、妥協しなければならないことの方が、この世界には多すぎる。
「僕がそれを望んだら、代わりに祭が死ぬんだから!!」
―わかっている。
“祭さんまで…いなくならないで下さい”
どうしようもない我儘を言っているのだと、わかっている。ただ静のことを困らせているだけなのだと、わかっている。わかっては、いるんだ。
でも、
(それでも)
「じゃあ、どうしろって言うんだよ…!」
「だから、前にも言ったじゃないか、祭」
生きるんだよ。生きて、君自身の幸せを見つけるんだ。
何の為に?
「君自身の為に」
それが僕の幸せだから。そんな風に、幼なじみが言う。
―“僕の為を願うみんなが、幸せになってくれますように”
「…お前がただそこにいてくれれば、それだけで俺は、十分なのに?」
「僕も、それだけで十分だったよ。祭」
目尻から溢れ出る涙を、拭おうとは思わなかった。
祭の頬を伝う涙は砂浜に落ち、しみを作らない静の涙の代わりに、点々と跡を残していく。
静の手が伸びてきて、そっと祭の肩に手を置いた。まあ、触れないので実際には手を置かれているわけではないのだけれど。
「僕を理由にするのは、もうやめるんだ。君の人生は、これ以上僕に捕われちゃいけない」
お願いだ、祭。生きてくれ。
こつんと、静が額をくっつける―動作をした。
(最初から最後まで、捕われていたのはお前の方なのに)
やっぱりお前は、そんな風に言うんだな。
額が離れ、静の手が肩から退く。
「こんな僕の為に泣いてくれて、ありがとう。僕と―出会ってくれて、ありがとう」
それは俺の台詞だ、とはもう言えなかった。
(出会ってくれてありがとう…か)
俺と出会っていなければ、お前の人生は、こんなところで終わってなんかいなかっただろうに。
「祭に会えて、本当によかった」
お前は、全部ひっくるめてそれでも。
俺に会えてよかったと―そう、言ってくれるんだな。
強がりや、偽りや、同情などではなく。
「…俺も、静に会えて、よかった」
辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、特に静が死んでからは、それがいつも自分の周りをまとわりついていたけれど。それでも、出会わなければよかったとは思わなかった。そんな風に思ったことは一度もない。
(だから、)
祭は上着のポケットから、家を出る際にくしゃくしゃにしてつっこんだ緑色の短冊を取り出して、静の方へと差し出した。
「…“また、会えるように”?」
静が、短冊に書かれている殴り書きの“お願い”を口に出して読んだ。
「約束、したもんな。精一杯生きて、幸せになるって。お前を成仏させてやるって…でも、だからせめて」
短冊を握る手に、力がこもる。
「また会いたいって、何十…何百年かかってもいいから、生まれ変わって、めぐりめぐって、またどこかで会える日を、俺に夢見させてほしい」
お前に会いたいと願う俺を、許してほしい。
静が少し驚いたような顔で、短冊から祭の方へと視線を移し変える。きょとんとした表情が、不意に困ったような笑みへと変わった。
「…こんな僕に、また会いたいって言ってくれるんだね」
当たり前だろ、と言うのはなんとなく気恥ずかしくて、かと言ってそれは紛れもなく事実なわけだから結局否定もできなくて。
祭が何も言えずにいると、目の前を何かが過ぎった。
それは静の腕で、突き出されたのは小指だった。
「え、」
「約束をしよう」
指きりだった。
『約束する、俺達は絶対にお前を裏切らない。ずっと一緒だ』
『私と、静と、祭、三人の一生の約束ね』
幼い頃の、こんな結果を迎えるだろうとは露ほどにも思っていなかった自分達が、一瞬祭の脳裏を掠める。
なんの躊躇いもなく差し出された静の小指に、祭はどうしていいかわからなくなる。というか、その小指に対して自分が取るべき行動に、迷ったという方が正しいかもしれない。
一度目の約束を、青子も、そして自分も―守れなかったから。
そんな祭を見兼ねてか、静が盛大に溜息をついた。その溜息に動揺してしまう。静の目は、どこか祭のことを咎めていた。
「察しろよ、バカ祭」
ぞんざいな、心底呆れると言いたげな表情と口調の静に、「何を、」と祭は掠れた声で返事をした。
「僕も同じ気持ちだ。また会おうっていうのは、僕の台詞だよ。だから祭も約束、必ずまた、僕と会って」
「しずか、」
「大丈夫、また会えるよ」
小指が絡め取られる。
「なんで、そう言いきれるんだよ」
「だって僕ら、何度生まれ変わったって出会えるよ。僕はきっと祭を探すだろうし、祭もきっと僕を探すだろうから」
静の表情は、どこまでも優しくて穏やかだった。
「こんなに引かれ合っているんだ、出会わない理由がないよ」
だから本当は、約束なんて必要ないんだけどね。静が苦笑いを浮かべる。
「でも、この約束が君の道標になるならって…そう、思うからさ」
「…しず、か……お前、」
消えかかっていた静の体は、祭が強く引きとめたことで一旦元に戻りはした―それは、祭の未練が静の体を現世に引きずったからだ。
だがそれも―どうやらここまでのようだった。
静の体が、ゆっくり、ゆっくりと。
けれど確かに―薄れていっている。
消えかかっている。
反射的に、やっぱり祭は静へと手を伸ばしたが、寸でのところで我に返り、その手は空しく空を切った。行き場を無くした自分の手を、祭は何かを掴むようにぐっと握りしめる。なけなしの理性で、引き止めたいと思う感情を押さえつけた。
そんな祭を、どこか満たされたような表情を浮かべて静は見る。
「幕を引こう、僕と君の物語に」
祭は、静の小指に自分の小指を絡ませた。感触は、やはりない。
もう、感じ取れない。
そして二人は同時に口を開く。
ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます。
「なあ、静」
「うん?なんだい、祭」
消える、消える。
消えるな、消えるなよ。一緒に、一緒に…一緒に。
俺も一緒に、なんて。
大丈夫、わかってる。俺は…生きなきゃなんねえから。
お前の分も生きて、幸せになるって、そう約束したから。
お前のところには、まだ行けない。
―お前と一緒には、いけないから。
だから言うんだ、最後に一つだけ。
「お前、幸せだったか?」
「―うん」
それに対し、幼なじみは。
「最高に、幸せだった」
やわらかい笑みを浮かべて、確かにそう、言った。
(そうか)
それなら、よかった。
本当に―よかった。
消える、消える、消える、消える。
もう、逝くのか。
うん、そうだね。もうそろそろ―僕は逝くよ。
「今まで…ありがとな。忘れない、これからもずっと。お前がいた毎日を、そして、この一ヶ月を…またな」
「ありがとう、祭……また―」
会おう。
その言葉と同時に、静の姿が消えた。
跡形もなく、もしかしたらそこには、初めから誰もいなかったかのように、綺麗さっぱり、消えていった。
全て夢だったのではないかと、錯覚してしまう。
けれども確かに、あいつは今ここにいたんだ。
俺がそれを覚えてる。
他の誰が忘れても、俺だけは。
この小指が置いていったものを、確かに覚えているから。
祭は、残された指きりの「跡」を静かに見つめ、そして。
「…指、切った」
幕を引いた。
彼はその小指を胸に抱え込み、小さな嗚咽を漏らす。
誰もいない海辺に突っ立って、ただただ溢れ出る涙を噛み締めていた。
こうして、赤崎静と緑間祭の物語は終わりを告げた。
八月七日、午前七時七分のことである。




