第三話 「残された時間」
青子と遥(正確には赤崎)がリビングに戻ってきた頃には、もう一時を回っていた。
二人とも、どこか吹っ切れたような顔をしていて、一体上で何の話をしていたのだろうと、そんな疑問が一瞬脳裏を掠めたが、緑間は別段それについて問いただそうとは思わなかった。
まあ、青子が赤崎を連れ出した際、引き止めようともついていきたいとも思わなかったのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど。
「しずかせんぱーい!!」
いきなりそんな風に叫びながら、リビングに姿を現した赤崎に向かって琴乃が脱兎の如く駆け、その勢いのままがばあっと抱きついた。その時の赤崎の表情といったら、それはもう、笑えるくらいのアホ面だった。
遥の体ではうまくその勢いを相殺できず、それに加え響から受けた脇腹の痛みのせいもあり、赤崎は隣りにいた青子も巻き込んで、フローリングに強かに背中を打ちつける破目となる。
「ど…どうしたの、琴乃」
自分の体―というには語弊があるが、とにかく、自分に覆い被さって顔をうずめている琴乃に、かろうじて赤崎がそれだけを口にした。
それに対する琴乃の返事は、実に簡素だった。
「ただ、こうしたかっただけです」
その声に、涙が混じっていることに気がつかない赤崎ではない。あれで結構、他人の感情の変化に関しては敏感に察知する方なのだ。極端に人と距離を取りたがるくせに。
赤崎が、ぽんぽんと優しく琴乃の頭を撫でる。
「おい、琴乃…!静先輩に迷惑を…」
「大丈夫だよ、優。迷惑なんかじゃないから」
「いえーい!私も私もー!」
若干シリアスに浸りかけていたこの場の雰囲気を、一つ残らず払拭するように、空気の読めないタイミングで両腕を広げ、優に突撃していったのは酔っ払い―もとい、緑間美咲である。
突然の強攻に反応が遅れた優は、美咲と一緒にその場に倒れこんだ。
極度の女性恐怖症である優は、美咲との近すぎるその距離に、途端に顔色を変える。
「あの…ちょ、美咲さ…どけて、」
自分に覆い被さっている美咲に対し、体を小刻みに震わせながら優が若干の抵抗を示す。ちなみに優は今、赤崎のすぐ傍でうつぶせている状態だ。
「おねが…いですから、マジで…」
いよいよ顔を真っ青にして白目になりかけている優に―響が動いた。
響が、うつぶせている優のすぐ傍にかがむ。
てっきり助け舟でも出すのかと思いきや―響の口から放たれたその言葉は、緑間の予想を十分裏切った。
「素直に羨ましいって言えばいいのに。俺の頭も撫でてくださいって言ってみなよ、優」
「んな…っ!?」
途端に優の声音が変わる。先ほどの死にかけたゾンビ状態などどこ吹く風で、響の一言に優は不自然なほど慌てだした。
うつぶせの状態なので優がどんな顔をしているのかまではわからなかったが…両耳が真っ赤なところを見ると、どうやら響の言ったことは満更でもないようである。
「ち、違…そういうわけじゃなくて、ただ、俺は」
「なんだ、言ってくれれば別にしてあげるのに」
きょとんとした表情でそんなことを言い、赤崎が優の頭を撫でた。されるがままに頭を撫でられている優の耳は、更に真っ赤になった。
「任務完了!いえい!」
そして、役目は終わったとでも言うように、びゅーんと美咲がこちらへと駆け寄ってくる。
二人がハイタッチをするのを見て、緑間は「任務ってなんのことだよ」と首を傾げた。それに対し、特に隠す様子もなく、美咲が言う。
「優くんのデレを後押ししよう作戦だよー」
「…は?デレ?」
素直に意味がわからなかった。きっと今、自分はとてつもないアホ面を引っさげているに違いない、と緑間は思う。
緑間がそういう反応をすると初めからわかっていたのだろう、響が苦笑いをしながら、あらかじめ用意しておいた台本を読むように、説明口調で言った。
「いやーほら、優って見るからに堅物でしょう?守りが堅いというか、保守的というか…自分のイメージを崩したくないんでしょうね、多分。本人は無意識なんでしょうけど。でも、本当はあいつ、結構寂しがりだったり甘えたがりだったりするんですよ、これが。だからせめて、こういう時くらい素直になれるよう、背中を押してやろうと思いまして」
背中を押すというか―あれはまあ、背中を突き飛ばすという表現の方が正しい気もするが。
(なるほど…ね)
それで響は、あんなことを言ったわけか。
確かにそういうイメージを優に対して抱いていなかったので、緑間としては大分信憑性のない話だったのだが…大人しく赤崎に頭を撫でられているところを見ると、嘘ではないのだろう。
意外と子供っぽいところもあるんだな、と緑間は新しい後輩の一面に苦笑いをこぼす。
そして、優と同じくらい―それ以上に素直じゃない後輩に対し、緑間は言った。
「お前は行かないのか?」
「ははは…冗談やめてくださいよ。あんなごった返したところに混ざったりなんかしたら、確実に僕の意識は激痛でぶっ飛びます」
響が、労わるような手つきで自分の背中をさすった。
あまりにも響が普通だったので対して気にも留めていなかったけれど―自分達が負わせた背中の怪我は、かなりひどい状態なのだ。
確かに響の言うとおり、あの中に混ざってうっかり背中を打ったり叩かれたりでもすれば、かなりの確率で気絶するに違いない。それくらいの怪我を、自分達は響に負わせたのだから。
若干後ろめたさはあるが、そのことについて謝るつもりはない―だが、代わりに引っかかった部分があったので、緑間はそれについて響に聞いた。
「…っつうことは、怪我さえしてなけりゃあお前も混ざりたかったってことだよな?」
「……さあ?どうでしょう。祭先輩こそ、混ざってきたらどうです?ああいうの好きでしょう?」
ああいうの好きでしょうって、青子といい静といい、お前らは本当に俺をなんだと思ってるんだよ、と内心で毒づいてから、緑間は少しだけ考えた。果たして自分はあの中に混ざりたいと思っているのだろうか、と。
考えて、つうか俺が混ざってどうすんだよ、と自分に突っ込む。
答えはすぐに出た。出ていた。ずっと前から、自分の目の前に。
「後輩ひとり置いていくのは気が引けるからな。行きゃあしねえよ。それに今は…少なくとも、混ざりたいとは思ってねえし」
そう、おそらく自分は、混ざりたいとは思っていないのだ。今はただ、当たり前のように手が届くところにあったこの光景を―見ていたいだけなのである。
―今日、確かにあいつが、ここにいたことを忘れないように。
「あ、あのー…ごめんなさい。そろそろどけてもらえると助かるんですけど…」
と、先ほどまでとはまるで別人のように、ひどく弱弱しい声で赤崎が言った―と思ったら、すぐ傍を赤崎がふよふよと浮いていて、遥の体に対しごめんと謝っている。
そこで緑間は、その違和感にようやく気がつく。
(…ん?静がそこにいるっつうことは…)
「私…お兄ちゃんじゃなくて、妹の方です」
どうやら赤崎は、遥に体の所有権を返上したらしかった。
時計を見ると、もう一時半。確か赤崎が遥の体を借りていられる時間というのは、一時間と十五分程度だったか。
それ以上は乗り移るのではなく取り憑くことになる―と、あの時赤崎は言っていた。
あと、一度体を返したら、その後は一時間以上経たなければ、再び乗り移ることが出来ないとも言っていた気がする。
遥の言葉に、青子と琴乃と優が一斉に反応した。ばっと彼女から離れ、そして遥がゆっくりと体を起こす。
優に関しては、赤崎の乗り移っていない通常の遥に対し女性恐怖症が作動するらしく、異常なスピードで彼女と距離を取った。
対して遥はというと、どうしていいかわからないようでおろおろとしている。
それが妙に小動物っぽくてツボに入った緑間だったが、あのまま放置しておくのも可哀相だと思い、助け舟として「遥ーこっち来ーい」と手招きをした。すると、一目散に遥がこちらへと向かってくる。
とりあえず遥を隣りに座らせて、緑間はその場にいた全員に集まるよう声をかけた。
「そういやまだ、こいつの紹介をしてなかったな。まあ、薄々感づいている奴もいるだろうが…こいつは藤黄遥って言って、」
その続きを促すように、緑間は遥に目配せをした。若干不安げな表情で、彼女は小さく頷く。
「あ、えっと…は、はじめまして。私、赤崎静…お兄ちゃんの、妹です」
よろしくお願いします、と遥が頭を下げる。呆気に取られている者もいれば、うんうんと妙に納得している者もいて、反応は様々だった。
「本当に妹だったんですね…」
響は、どこか遠い目をしていた。
そして、次に全員が口にしたことといえば、それはほぼ満場一致で「妹がいるだなんて聞いてない!」だった。
「いやーその、それはだなあ…」
「静自身、ある程度事情が落ち着くまでは、遥ちゃんのことを隠しておきたかったのよ。遥ちゃんはちょうど今年受験生だったし、それ以前に静の心の整理もついていなかったの。遥ちゃんが妹だっていう事実には、あまりに矛盾が多すぎたから」
そんな風に、まるで初めから全てを知っていたかのような口振りでまくし立てたのは―青子だった。今度は緑間が驚く番である。
「な…、お、お前…なんでそれを、」
「言ったでしょ、聞いてるって。静に妹がいることは、随分前から知っていたわ。よく―話を聞いていたから」
会うのは今日が初めてだったけれど、と彼女は言う。おそらく自分は今、限りなく阿呆に近い顔をしているに違いないと緑間は思った。
「う…嘘だろ、だってあいつ、遥のことは、俺にしか話してないはずだ。それに」
赤崎が“妹”について緑間に話を振ってきたのは、後にも先にもあの一回きりだった。
妹がいたみたいなんだよね―なんて、とてもどうでもよさそうに、赤崎は言ったのだ。妹がいたからって、何が変わるわけじゃないけど、と。
それなのに。
青子の言う通りだよ、と赤崎のテレパシーが伝わってくる。この局面で赤崎が嘘をつくはずがないし―そもそも赤崎は、必要な嘘しかつけない。
ということは、やはりそれが、事実なのだろう。青子は遥のことを、随分前から知っていて、赤崎から遥の話をよく聞いていて、そしてそれを、緑間に話すことはしなかった―それは、事実なのだろう。
「…勘違いしてほしくないのが、私達は祭を仲間はずれとか、蚊帳の外にしたかったわけじゃないってこと。静にも思うところがあって、」
「わかってるって。別に…そんな風には思ってねえから」
確かに驚いたし、青子の発言は大いに予想外であったけれど、緑間はそれを聞いて、心のどこかでほっとしていた。
仲間はずれとか、蚊帳の外とか、そんな風にしたかったわけではないけれど―てっきり青子は何も知らないのだとばかり思っていたから、多かれ少なかれ、罪悪感を抱いていたというのも本当だ。
だから、青子が遥のことをよめ静から聞いていたと聞いて、正直緑間は良かったとさえ思っている。
「まあ、とりあえず見て分かる通り、こいつは割りと可愛い顔をしている。だが、遥に対して変な気を起こしたら、真っ赤なお兄さんに呪われるから、そこんとこよーく覚えとけよ」
「祭兄、真っ赤なお兄さんって?」
「んーお前は何も知らなくていいんだぞー」
よしよし、と緑間は遥の頭を撫でた。
なんかこの感じはまりそうだなあと思いつつ、とりあえず今は隣りにいる真っ赤なお兄さんの形相が般若の如く見るに耐えないので、緑間はぱっと遥の頭から手を離す。
そんな心配しなくても、こいつ相手に変な気なんて起きねえっつうの。前にも言っただろうがアホ。そんな風にテレパシーを送ったが、赤崎からの返事はなかった。
「…脇腹、大分痛みますか?すみません、思いっきり蹴ってしまって…」
遥の紹介が終わって、初めに彼女に声をかけたのは響だった。心底申し訳なさそうに頭を下げている。
優も若干距離は取っていたものの、響につられるように謝罪の意を込めて頭を下げた。
「あ、いえ…私よりお二人の怪我の方がひどいと聞いてます。だから、その…謝らないでください」
おあいこです、とはにかむように遥が笑う。その笑顔に、優はともかくとして響の方がポッと頬を赤くした。それを見逃さない赤崎ではない。
「ひーびーきー?」
四つ角の怒りマークを浮かべながら、引きつった笑顔で赤崎が響を威嚇する。
途端に響の顔は真っ青になり、「いやいやいや!」と慌てて両手をぶんぶんと振った。
当然、一連の流れを理解していない青子達には、響が突然一人でに慌てだしたようにしか見えないだろう。
「誤解です!不可抗力です!」
―と、まあ、こんな感じで。
遥がみんなと打ち解けるのに、時間はそんなにかからなかった。
「え、遥ちゃんって中三なの?」
「あ、はい。だから、私に敬語は使わないでほしいんです。私の方が年下ですし」
「でも、祭先輩には敬語使ってないみたいだし…それに、静先輩の妹だもんなあ。うん、決めた。遥さんも、僕らに対して敬語使わなくていいよ。タメでいい」
「遥でいいです。でも、敬語を外すのは…」
「いいじゃんいいじゃん!細かいことは置いておこうよ!私、白金琴乃!琴乃って呼んで!よろしくね、遥ちゃん!」
握手握手!と、子供のような―まあ、実際子供なのだけれど、まるで新しいおもちゃをもらった子供のようにはしゃいで、琴乃が手を差し出す。
遥は、そんな琴乃に対し、若干おののきはしたものの―すぐに固かった表情をほぐし、「うん。よろしくね、琴乃ちゃん」と握手を交わした。
「僕は白金響。琴乃とは双子の兄妹なんだ。よろしく、遥」
「え、二人って双子だったの?そういえばどことなく似ているような…んん?あれ、ていうか、どこかでそんな名前の双子の噂を、聞いたことがあるような…」
眉間に皺を寄せ、腕を組んで深く思い出そうとする遥に、「き、気のせいじゃないかな」と顔を引きつらせて響が言った。
「それよりもほら、優も、いつまでも隠れていないで挨拶しなよ」
遥から大分離れた場所でビクビクと、捨て犬のように怯える様子を見せている優を、響がぐいぐいと無理矢理引っ張り出して遥の前に突き出す。
優からしてみれば、最早死刑執行目前と言っても過言ではなかっただろう。
「う、あ…お、おい、響…っ」
「?顔色悪いですけど…大丈夫ですか?」
遥が、何の躊躇いもなく優の額に手を伸ばし、熱を計るようにそっとその手を押し当てた。そして、もう一方の手で自分の体温を測る。
優はビクっと、まるで痙攣したかのように体を仰け反らせ、そのまま後ろへと倒れた。
響が、「よっ」と傾いてきた優の体を支える。こうなるだろうと薄々感づいていただろうに…と緑間は若干呆れつつ、気を失っている優に対し哀れみの視線を送った。
えっ!?と、優が倒れたことに慌てだした遥に、「大丈夫だよ」と響が制する。
「えーと、まあ、なんていうかさ、こいつ、結構重度の女性恐怖症なんだよ。名前は、黒銀優。気難しい奴だけど、良い奴だからさ、よろしくしてやって」
「そう、だったんだ…なんか、ごめんなさい」
―と、そこで優の名前を聞いた遥が、何かを思い出したかのような様子で「あ、」と小さく声を上げる。
「黒銀…白金…」
「遥ちゃん?」
琴乃が声をかけると、まるで何かを思いついたかのように遥が勢いよく顔を上げ、そして白金ツインズの出身中学校を訊ねた。ぎくりと、またも響がその言葉に動揺する。
おそらく―自分達が中学時代、「壊す双子」などと呼ばれていたことを、知られたくないのだろう。その気持ちは、理解は出来ないもののわからなくはない。
せっかく仲良くなれそうだったのに、自分達の過去が後ろをついて回り、そのせいで離れていった人間が、きっと二人の周りには多すぎたのだ。
だからこの局面で、遥の問いかけに対し、どうしても響は渋ってしまう―感づかれてしまうかも、しれないから。
だが、そんな響の心情など露知らず、なんの躊躇いもなく琴乃が勝手に答えてしまったのである。
「私達は凛々中(正式名称は凛々垣中等学校)だよー!ちなみに優は黎明中!」
「ちょ…っ琴乃、」
「凛々中…白金…双子………あーーーーーーーーっ!!」
出身中学を聞いたことで、おそらく遥の中で全てのパーツが噛みあったのだろう。近所迷惑など一切考慮なしに、遥が大きな声で叫んだ。
「さっきは全然、気にもしてなかったけど…も、もしかして、響くんと琴乃ちゃん、あの有名な…」
「うん、そうだよ。凛々中最凶の双子「壊す双子」―だなんて、呼ばれていた時期もあったね」
「まあ…もう、とっくの昔に捨てた名前だけどね」
どこか気まずそうに、響が言った。そのことで遥に怖がられるかもしれないと―不安に思っているのかもしれない。
バカだなあ、と緑間は苦笑いをした。
そんな心配なんて、する必要はないのに。
(あいつの“妹”が、たかがそんなこと如きで怯えるわけねえだろうが)
そして案の定、緑間の思うとおり―響の不安の吹き飛ばすように、遥がぎゅっと白金ツインズの手を握った。響の不安は、これで杞憂となったわけだ。
「やっぱり!雰囲気が大分変わっていたから気がつかなかったんだけど…私、ずっと、二人に会いたかったんだ!」
杞憂となったわけだが…さすがにここまでの超展開は、緑間の予想外である。
遥の言葉に、琴乃が「へっ?」と呆けた顔をした。響の方も、思ってもみなかった彼女の言葉に、目を丸くしている。
「は…遥、君は、僕らのことが怖くないの?ていうか、会いたかったって…」
「怖くなんてないよ、全然。私が二人を怖がるなんて、ありえない」
様子を窺うような探り探りの響に、遥は真正面から断言する。怖がるだなんてありえない―と。
それはきっと、琴乃の心にも、響の心にも、大きく深く響いただろう。
「あの時、お礼が言えなかったから。ずっとそれを、後悔してたの」
遥の目に、じわりと涙が浮かんだ。
そこで響が、はっと何かを思い出したかのように目を見開いた。何かしらのデジャヴを、この時響は経験したのかもしれない。
そして、おそるおそる、若干唇を震わせながら響が聞いた。
「まさか…君は」
うん、と遥が頷いた。当事者であるはずの琴乃も含め、響を除く全員が、一体どういうことなんだ、とクエスチョンマークを浮かべている。
遥は、笑った。
それは、あの日確かに響と琴乃が守った笑顔でもあったのだ。
「二年前、私のことを助けてくれて、ありがとう」
どうやら二年前―遥が中学一年生で、響たちが中学三年生の頃、一度だけ会ったことがあるらしかった。
それはまだ、遥が赤崎の存在を知らなかった頃のことで、響達が優と再会してからの話らしい。
不良に絡まれていた遥のことを、その当時総称「壊す双子」という通り名で有名だった響と琴乃が、助けたとかなんとか。
ちょうどそれが二年前の暑い夏の日で、場所はあの仲良し広場であったらしい。
つまるところ、赤崎達が初めて「壊す双子」と出会ったあの日のことだったのだ。
赤崎達は、響達が不良の集団とケンカしているところを目撃し、注意したわけだが―あの日彼らは、不良達に囲まれていた少女を、助けるような形でケンカになったのだと言っていた。
その時の少女というのが、赤崎の妹―藤黄遥であったというわけだ。
ここまでくると、最早偶然にしては出来すぎている。奇跡に近いものを、全員が感じた。
「まあ、なんていうか、ただの気まぐれだったんですけどね。別に、何か正義感に駆られたわけでもないですし…」
まさかあの時の女の子が、静先輩の妹だったなんて、思いもよらなかったですけどね。それに、今の今までそんなことがあったことすら、すっかり忘れてましたし。響はそんなことを言った。
遥はといえば、相変わらず気絶している優の顔に、琴乃と一緒にマジックで落書きを書いている。
「偶然って怖えな…」
私も私も~と、青子と美咲の二人も遥たちに混ざり、優の顔に落書きを開始した。というか、顔だけでは飽き足らず、腕や腹にも手を出している。
優は「うーん…」と苦しげに眉間に皺を寄せてうなされていた。
「その話は聞いたことがなかったな…ありがとう、響。遥を助けてくれて。兄としてお礼を言うよ」
「いや…そんな、お礼を言われる程のことじゃあないですよ。どちらかと言うと、彼女がいなければ、僕らは静先輩達に出会わなかったかもしれないわけですし、お礼を言うのは、案外僕らの方かもしれませんね」
響が、どこか遠い目をして言った。もしかすると、あの日のことを思い出しているのかもしれない。
「そういや、お前と遥が初めて会ったのって、高一の時だっけ?」
「ああ、うん…確か、高一の……夏休み、だったかな」
「そっかーじゃあ、俺も響達も、お前が遥と会うより前に、遥と会ってたんだな」
緑間のその発言に引っかかる部分があったのだろう。赤崎が、一瞬表情を固まらせて、若干目を見開いた。俺も、ってどういう意味?と首を傾げている。
緑間は苦笑いを浮かべながら、別段隠す必要もないだろうと判断し、あの日のことを話し始めた。
「思い出したんだよ、なんで俺、お前のばあさん…環さんの家に、一回行ったっきり行かなくなったのか。ずっと思い出せずにいたけど、今回のことでようやく合点がいった。怖かったんだ、俺は。だから、今までずっとその記憶に自分で蓋をしてた」
嫌な思い出があったからじゃなかった。
怖かったんだ―俺はただ、怖がった。
「俺が初めて、お前に付き添って藤黄家に行った時…お前と環さんが話している間退屈だった俺は、ほんの少しの間家の中を探索してたんだよ。その時に俺は、髪の長い女のお前に会ったんだ」
「それって…」
遥のことだ、と緑間は頷いた。
「初めは、静が俺のことをからかっているんだと思ったんだけどな。いつまで経ってもそいつは、“静って何?”とか“あなたは誰?”とか言うもんだから、怖くなってよ。静が女になって俺のことを忘れやがった、ってな。そうしたらいつの間にか気を失ってて」
「で、目が覚めたらその時のことを綺麗さっぱり忘れていたってわけですか?」
「まあ、そういうことになるな」
「あー…そういえばなんか、そんなこともあったね」
いきなり君の叫び声が聞こえて、急いで二階に上がったら、君が気絶していて…と、どこか懐かしむように赤崎が言う。随分昔のことであったが、どうやら赤崎は覚えていたようだ。
「何があったの、って聞いてもわからないの一点張りだったし」
「ああ…今更だけど、悪いことをしたなって思うよ。遥は、何も悪くなかったのにな」
「遥は覚えているんですか?その日のこと」
「覚えてないんじゃねえかな。俺らが確か…小五くらいの時のことだし。あいつは三歳年下だから、まだ低学年だったわけだしな」
緑間は、ちらりと遥の方を遠目に見やる。
もう五年以上も前の話だ。自分が今の今まで忘れていたのだから、あの時もっと幼かった彼女が覚えているとは到底思えない。
確かに会話は交わしたけれど、そもそもあれは、会話というにはあまりに噛みあわなさ過ぎた。あの一瞬で、遥が緑間のことを記憶するなど、限りなく不可能に近い。
だが―それでいいのだろうと思う。
遥と自分は、ついこの間初めて出会った―それでいい。
「もしかしたら、君が僕と遥を見間違えたのって、そういう記憶が多かれ少なかれ残っていたからかもしれないね」
「…そうかもな」
言われてみればそうかもしれない。つい先日初めて遥と出会った時、何故か初めて会った気がしなかったのは、単に赤崎に似ていたからだけではなく、幼少の頃の記憶が、霞んでいたとしても消えない程度には残っていたからで、それが彼女と再会したことによって掘り起こされたからだったのかもしれない。
今まで蓋をしていたはずの記憶であったというのに。
「祭兄ー!見て見てー!」
傑作でしょ!と、落書きだらけの優の顔を、琴乃と一緒に指差して遥が笑っている。その面影が一瞬幼い頃の彼女と被った。
(…もう、大丈夫だ)
こいつは、静じゃない。だからもう、遥を通して―遥の後ろに幼なじみを被せて見るのは、やめにしよう。
緑間はこの時、確かにそう心に決めた。
「…ったく。後で怒られても知らねえぞ」
「そうなったら祭兄のせいにするからいいもん」
「アホ。そこは俺じゃなくて響のせいにしとけ。それなら優も、思う存分キレられるだろ」
「ちょっ!?」




