第二話 「そして、」
遥が目を覚ましたのは、それからすぐ―十七時頃だった。
彼女はぱちりと目を覚ますなり、きょろきょろと辺りを見渡して、ここはどこ?と首を傾げた。
「俺ん家だ…つうかお前、体は大丈夫か?」
声をかけると、そこでようやく遥は緑間の存在に気がついたようで、ほんの少しだけほっとしたようだった。
そしてもう一度、今度は緑間の問いかけに対して首を傾げる。
「体?」
きょとんとしたそのアホ面を見る限り、どうやら遥には、赤崎が乗り移っていた時の記憶が全く無いらしい。「あれ、さっきの人達は?勝負はもう終わったの?」や、「痛たっ痛たたたたたたい!え、何!?私いつこんな怪我したの!?」などと言っているところを見ると、おそらくそうだ。
「まあね、遥はずっと眠っていたわけだから」
「あ、お兄ちゃんの声!」
「ああ…今お前のすぐ隣りにいるよ。つうか静、お前起きたなら起きたって言えよ。いきなり会話に割り込んでくんな」
「起きたよ」
「もう遅せえよアホ」
そしてかくかくしかじか、響達との勝負のことを話し、脇腹の怪我についての謝罪を伝え、零時に赤崎の家に招かれていることを説明した。
「で、どうするよ。一応お前のことも呼んでいいって言われてんだけど」
えええ…と、かなり困った様子の遥が、悩ましげな声を上げる。まあ、突然そんなことを言われても困るのは確かだろう。
しかも、仮に赤崎の家に行ったとして、そこから先に何が待ち受けているのか、緑間には皆目検討もつかない。
何があるか分からない以上、遥が身構えてしまっても、それは仕方の無いことかもしれなかった。
「零時って…そんな時間じゃもう、電車どころかバスも通ってないし…」
「ああ、それは気にすんな。今日は泊まっていけよ。この家、部屋は割りと余ってるし」
「……そういうことをサラっと言えちゃう辺り、やっぱり祭兄はひどい奴だよね」
「あ?」
少しだけ陰りのある表情で、ぼそりとそんなことを呟いた遥を怪訝に思い、緑間は首を傾げる。
どういう意味かと訊ねようとしたその時には、もう彼女はいつもの陽気な雰囲気に戻っていたので、緑間は結局聞けずに口を噤む。
「じゃあ、祭兄の善意に甘えようかな」
緑間は、「おう」と短く返すことしか出来なかった。
その後は、姉に軽くと念を押された夕飯を、遥と一緒に作って食べ、入浴を済ませると、赤崎も交え三人で零時まで談笑をすることにした。
話のネタは口を開くたびにポンポンと浮かんできて、ちょっとしたことで三人は腹を抱えて思いっきり笑った。
これが最後で、なんとなくだけれど、赤崎がもうすぐいってしまうような気がしたから、この時間を出来る限り楽しく過ごそうと―緑間は、そんなことを考えながら。
途中で遥が眠たそうに目を擦ったので、緑間は時間まで寝てもいいぞ、と彼女の顔を覗き込む。
すると「うーん」と唸りながら力なく頷き、遥がごろんとソファに横になった。ベッドじゃなくていいのかと聞くと、大丈夫だと遥は薄く微笑んだ。
「あ…でも、枕は欲しいかも」
「あ?だったらほら、膝枕してやるよ」
こいこい、と緑間は遥を手招きする。
「いや…そういう意味で言ったんじゃ……ごにょごにょ…」と、些か膝枕という行為に対し渋っていたわけだが、しばらく経って決心がついたらしく、遥が体を起こしてそろそろと緑間の膝(性格には太腿と言う)に頭を置き、横向きに寝転がった。
体が若干縮こまっていることに気がつき、もしかして寒いのかと思った緑間は、何か掛けるものはないかと辺りを見渡したが、そんな都合良く見つかるはずもなく。
かと言って、自分から来いと言っておきながら、何か掛けるものを取ってくると彼女を起こすにも若干の抵抗があったので、仕方なく緑間は、自分が着ていた上着を脱いで掛けてやることにした。
嫌がるかもしれないと遥の反応を窺ったが、すーすーという寝息が聞こえてくるだけで、どうやらもう眠っているようだった。もう寝たのか、と緑間は苦笑いをする。
本当にこの兄妹はそっくりだと思いながら、遥の長い黒髪を優しく梳いた。
「僕はたとえ幼なじみであっても、遥に手を出すなら容赦なく呪うからね」
「うわおっ!?」
だが、途端に悪魔(悪霊?)の囁きがすぐ傍から聞こえてきて、緑間はぞわりと背筋を悪感が通り抜けていく感覚を感じた。
おそるおそる振り返ってみると、般若のような形相の赤崎がぎろりと睨んできていたものだから、緑間の顔が引きつる。
先ほどの膝枕のやり取りに口を出してこなかったので、てっきりセーフなラインだと思っていたのだが、どうやらそんなことはないらしかった。
「お前にだけは呪われたくねえな…」
「そう?僕は、呪うなら絶対君にするって決めているけどね」
二人は顔を見合わせて、それから小さく笑った。
緑間は、柔らかくて指通りの良い遥の髪を撫でながら、感心したように言った。
「それにしても、ほんとそっくりだよなあお前ら。見てみろよこの髪、このまつ毛、この寝顔…絶対こいつ、お前と同じ細胞から出来てんだろ」
「もし仮にそうだとしたら、僕と遥は双子ってことになるんだろうけれど…そんなに似ているかな、僕ら」
「そりゃ似てるだろうよ。この俺が、お前と見間違えたくらいなんだからな」
そういえばそんなこともあったね、と赤崎が短く相槌を打った。
「あーあ、羨ましいぜ、このまっすぐな髪。遥はともかく、お前のは間違いなく宝の持ち腐れだったよな。手入れしないし、髪乾かさないで寝るし…ほんと、俺のクセ毛と交換したいくらいだった」
「僕はその髪、嫌いじゃないけど」
「そうかい、俺は好きじゃねえよ」
緑間は、遥の頭を撫でながら溜息をついた。このクセ毛は先天的なもので、父親譲りである。
そこでふと、この幼なじみは父親似なのか、それとも母親似なのかと緑間は疑問に思った。
赤崎と遥は最早言うまでもなくそっくりなので、おそらくどちらも同じだけどちらかに片寄っているとは思うのだが。
藤黄家を出る際、緑間は仏壇に線香を立てている。
あの時飾ってあった遺影に写っていたのが、赤崎兄妹の実の母親―つまり、藤黄奏だったらしいが、あまり似ているようには感じなかった。
ということは、二人は父親似なのだろうか。緑間は考えて、ま、どうでもいいかと考えることをやめた。
「そういえば、ご両親が次にいつ帰ってくるのか、もう聞いているのかい」
突然振られた両親の話に、一瞬呆けたような表情を浮かべた緑間だったが、大方また自分が考えていたこと(赤崎の両親について)が伝わってしまったのだろうと解釈し、特に考えることもなく「いや、」と首を横に振った。
「今のところ、何も連絡はねえよ。…でも、この間、お前のことで無理にこっちに帰って来たらしくてさ。そのせいもあって、今はすっげえ忙しいらしいから、当分は帰ってこれないんじゃねえかな」
そう、緑間の両親はどこからか赤崎の死を聞きつけて、わざわざたった一日の葬式のために、海を渡って日本へと帰ってきたのである。しかもそのことを、上司に何も連絡を入れずにだ。我が両親ながら、恐るべき強行である。
そしてそのたった一日のツケは、減るどころか溜まる一方のようで、この間テレビ電話で話した時、「あと三年は帰れないかも~」などと言っていた。
あの時は頭の中で、“何故わざわざ息子の幼なじみの為に、仕事を放り投げてまでこっちへ帰って来たのか”なんて考える余裕も緑間にはなかったわけで、葬儀の場に両親がいることに対しても無関心だったわけだが、後々考えてみると、それがいかに常軌を逸していたか分かるというものだ。
そしてそこに、どんな感情が伴っていたのか―赤崎の祖母、環の話を聞いてようやくわかった。
赤崎は、緑間の母―緑間小唄にとって、ただ息子の幼なじみというくくりではなかったのだ。おそらく、大切な存在だったのだろう。ただ、それだけのことだ。
「そっか…寂しくない?」
「あー…いや、まあ、寂しくないわけじゃねえけど、姉ちゃんがいるし。お前や青子だって」
いるから平気だ、と続けたかった言葉が、口から出る寸前で喉に引っかかった。認めたくない現実が、冷たく緑間の心に突き刺さる。
(違う…こいつはもう)
いなくなるんだ。
「……」
「ま、みんながいるからな。平気だよ、割と。それに、父さんと母さんがいないことにはもう慣れっこだしな」
務めて明るく、緑間は言った。
(大丈夫。まだ…大丈夫だ)
目をそらすな。この現実を、俺は受け入れなくちゃならない。じゃないと、いつまで経っても俺は前に進めないし、こいつは縛られたままになる。
「強いね」
赤崎が、困ったように眉を八の字に下げてはにかんだ。
「当たり前だろ、俺を誰だと思っていやがる」
ふふん、と胸を張って笑ってみせた。大丈夫、俺は笑える。
強いと言えばと、緑間はふとあることを思い出した。
「そういやあいつら、強くなってたよな」
「あいつらって…響達のこと?」
「響達っつうか…優とは今日初めて手合わせしたわけだから、測りようがねえけど…でも、優がまさかあそこまでやれるとは、正直思わなかったな」
「それには同感。本当、優は君にそっくりだよね」
若干の間を置いて、緑間は「はい?」と首を傾げた。
何故このタイミングで、自分と優がそっくりだという方向に話が逸れていくのだろう。というか、優と似通っているところなんて心当たりがないというか、むしろ皆無だと思うのだが。
「そんなことないでしょ。響に尽くしているところとかさ、そっくりじゃないか」
「……なんか……その言い方、嫌だ……」
尽くすって。世話を焼くとか、もう少しマシな表現の仕方を選べなかったのだろうか。残念な言葉の選択に、緑間はがっくりとうな垂れる。
勿論緑間としては、赤崎に尽くしているつもりなど毛頭ない。
確かに傍から見れば、一方通行の関係に見えていたかもしれないが…少なくとも彼自身は、いつだって赤崎と対等でいたいと思っていた。尽くしているだなんて、もっての他である。
(…でもきっと、これからも変わらなかったんだろうな)
これから先、たとえどれだけの時間が自分と赤崎の間に流れようと、おそらく赤崎が生きていれば、緑間はやはり赤崎に尽くしているように見えてしまうのだろう。
赤崎が寄りかかって、緑間がそれを支える。そういう関係に甘んじていたから。
響と優は―変わったけれど。
「今までずっと、あいつら見てると自分達を見てるみたいで嫌だったんだけどな…なんつうか、いざあんな風に変わられちまうと、なんとなくやるせない気持ちになるよ」
「…そうだね。でも、これでよかったんだ。二人は、僕達みたいになるべきじゃない」
「それはあれか?幼なじみを庇って、庇われたこっちの身も知らず、勝手に死んじまったような奴のことを言ってんのか?」
「いや?どっちかって言うと、その幼なじみの後を追おうとするような、馬鹿な奴のことを言っているのかもよ?」
どっちもどっちで、力なく二人は笑った。
「そういやお前、体借りる条件を遥と約束したんだろ?言わなくていいのか?」
“次に会った時、私に言うはずだったこと、教えて”
それが、響達との勝負の際、赤崎が体を借りる為に遥と約束をした条件である。
「ああ…うん、言わなくちゃって、思ってはいるんだけどね。なんていうかさ」
珍しく、歯切れ悪く言葉を紡ぐ赤崎に緑間は少しだけ驚く。よほど、言い出しにくいことなのだろう。たとえそれが、緑間相手であったとしても。
無理に続きを強要しようとはせず、緑間はただじっと赤崎の言葉を待った。
「やっぱり…怖いんだろうね。それを伝えた時、遥がどんな顔をするか…拒絶されたらどうしようってさ」
「拒絶…されるようなことなのかよ」
場合によってはね、と赤崎が短く肯定する。
「だから僕には、時間が必要だった。拒絶されるだろうことを踏まえた上で、それを言葉にすることを決める覚悟と、裕福にとまではいかないまでも、平凡に暮らせるくらいのお金を溜める時間が」
おばあちゃん達にはこれ以上迷惑はかけたくなかったから、と赤崎が言う。
それで、わかってしまった。
赤崎が遥に対し、また今度と言って濁したその言葉を―皮肉にも緑間は、理解してしまった。
(だって静は、三年生になってバイトを―)
「お前…」
「まあ、結局、死んじゃったんだけどね」
別に責めているわけじゃないから、と赤崎が慌てたように両手をぶんぶんと振った。
たとえ責めているわけではないとしても、だからといって罪悪感の一つや二つ、緑間が感じていないかと言えばそれは一目瞭然である。
不本意であったとしても、確かに彼は、赤崎静に庇われてしまったのだから。
「だから…さ、それを遥に伝えたところで、僕にはもう、どうやったって実現不可能だ。それもあって、やっぱり伝えることが怖いんだろうね」
それが条件で遥の体を借りたわけだから、約束を破るわけにはいかないんだってわかってはいるけれど。そんな風に、赤崎が続ける。
緑間は何も言えなくなった。
一瞬、眠っているはずの遥の肩がぴくりと揺れた。
そして。
現在の時刻、二十三時半。窓から覗く外の景色は、もう既に夜のものだ。
多少重苦しい雰囲気になった場面もありはしたが、二人が他愛のない会話をしている内に随分と時間が経っていたようだ。響達と別れたのが、つい先ほどのことのように思える。
「そろそろ…だな」
「ん、」
緑間は、ぐっすりと眠りこけている遥の体を軽く揺すり、「おーい起きろー」と声をかけた。一度で起きないあたり、さすが赤崎の妹であると言える。
何度か繰り返し声をかけると、ようやく遥が反応らしい反応を返した。
「う…ううん……?」
「お、起きたか」
うっすらと瞳に光を宿していることを確認し、緑間は遥から手を離す。
いつぞやの朝のように大声を上げられたらどうしようかと頭の隅の方で考えていたりしたのだが、緑間の心配もどく吹く風で、事のほかあっさりと彼女は目を覚まし、「おはよう」と笑った。
その笑顔に若干の違和感を感じはしたものの、とりあえず緑間も挨拶を返し、赤崎も「おはよう」と言った。
「まあ、おはようって時間じゃねえけど」
体を起こした遥が、自分の体にかけられていた上着に気がついたようで、「意外と紳士なんだね」と緑間をからかうように言った。
緑間はそっぽを向いて「うっせえ」と、どこかふて腐れたように返す。
「あはは、照れてるー。ありがとうね、祭兄」
はい、と遥から上着を渡され、緑間は素早く腕を通し、遥のありがとうに対して「おう」と短く返事をした。そしてソファから腰を上げる。
「そんじゃ、行くか」
「うん!」
こうして二人と一人の幽霊は、響達に招待された赤崎の家へと向かうのだった。




