第一話 「ただいま」
そうしてしばらくの間響は泣いていたわけだが、まあ、涙もおそらくは無限ではない(?)し、当然半永久的に泣き続けるなど不可能なわけで。
ようやく響が落ち着いた頃には、既に十五時半を回っていた。
そして、涙が収まり本来の冷静さを取り戻した響が、目元をごしごしと拭って体を起こし、こんなことを言ったわけである。
「今日の午前零時に、静先輩の家に来てください」
その言葉に、緑間と赤崎は目を見開いた(ちなみに、赤崎は遥の体からはもう出ている。彼女はまだ気を失っていて、ベンチで横になっている状態)。
勿論響が今までの「さん」ではなく、初めて「先輩」という敬称を使ったことにも気づきはしたが、それよりも近寄るなと言われていた赤崎の家に来てほしいと言われたことの方に意識を取られ、二人はさほど疑問には思わなかった。
「もういいのか」
「はい。我儘を聞いてくださって、ありがとうございました。よければ彼女…遥さんも、ご一緒に」
優がぺこりと頭を下げ、ベンチに横たえている遥の方をちらりと見やった。そこで、「あ、」と何かを思い出したように緑間が声を上げる。
「あー…そういやまだ、あいつのこと紹介してなかったよな」
あいつ、というのは言わずもがな、藤黄遥のことである。
だが、紹介しようと口を開いた時、響がやんわりとそれを制した。
「今はいいです。静先輩の家に来た時にでも」
緑間としては、今遥のことを紹介してもよかったのだが―彼女も赤崎の家に行くことになった場合、おそらく響達以外にも説明しなくてはならなくなるだろうし、それならいっぺんに説明した方が楽だろうと思ったので、緑間は素直に「わかった」と頷いておいた。
「今日は、本当にありがとうございました。おかげで吹っ切れました。あと、遥さんには“ごめんなさい”と伝えてください」
それじゃあ、今夜十二時に。
そう言って響は、覚束ない足取りで優に肩を借りながら帰っていった。
二人の後姿を見送り、緑間は言う。
「そんじゃ、俺達も帰るか」
「ん、そうだね」
緑間は、ベンチの上ですやすやと眠っている遥の頬をぺしぺしと叩く。そして、「おーい起きろー」と呼びかけたわけだが、残念なことにいくら待っても返答はなかった。
赤崎曰く、「多分しばらくは起きない」らしい。遥の意識は、赤崎が乗り移った際に、予想以上に深いところまで沈んでしまったのだという。
それならもう一度乗り移って遥の体を動かせと緑間は言ったが、一時的にとはいえ幽体である自分が、他者の肉体と神経を結ぶというのは非常に疲れることなので却下、と一蹴されてしまった。
「じゃあどうすんだよ」
「おぶっていけばいいじゃないか」
「体の節々が痛てえんだけど」
「遥の方がよっぽど痛いよ」
「自転車は」
「置いていけば?」
こうして緑間は泣く泣く自転車を駐輪場に置いていき、赤崎の命令通り遥をおぶって家へと帰った。
徒歩で、尚且つ遥をおんぶして帰った為、家に着いた頃にはもう既に十六時を過ぎていた。空が夕焼け色に染まり始めている。
緑間は遥をおんぶしたままの状態をなんとか維持しつつ、インターホンを鳴らした。
反応なし。
「おーい、姉ちゃーん。俺だけどー」
呼びかけたものの、家の中から返事らしきものは聞こえてこなかった。耳を澄ませてみたが、テレビの音も聞こえない。というか、家の中から人の気配が感じられなかった。
仕方なく、遥を落とさないよう最善の注意を払いながら鍵を開け、緑間は家へと入る。
「……あれ、」
玄関に入ってすぐ、普段ならこの時間にあるはずのものがないことに気がついた緑間は、小さく声を上げた。それに対して、赤崎がどうかしたのかと訊ねてくる。
「いや、大したことじゃねえよ…ただ、姉ちゃんまだ帰ってきてないんだなって思っただけだ」
姉の靴が、一足分足りなかったのである。
つまるところ、美咲は今出払っているということなのだろう。これなら確かに、家の中から反応がないのも頷ける。
(そういや確か、今日は昼から出かけるって言ってたっけか)
行き先を告げてはいかなかったので、どうせすぐに帰って来るだろうと緑間は適当に返事をしたのだが―今日の夕飯担当は姉の方だというのに、一体どこで油を売っているのだろう。
それに、美咲がいなければ遥の手当てができない。緑間が応急処置を施すという選択肢もなくはなかったのだが、それはおそらく赤崎が許さないだろう。
赤崎のシスコンっぷりは目に余る。うっかり変なところに触れてしまったらと思うと、緑間自身も出来ることなら遥の手当てをすることは避けたかった。
緑間はとりあえずそのまま二階の自室へと向かい、ベッドに遥を寝かせる。そしてスマホを取り出した。姉に何時頃帰るのかを聞く為である。
三コール目でようやく、姉が電話に出た。
『…もしもし?どう…かしたの?電話なんて、珍しい』
何故そんな、探るような電話の応対をするのか不思議に思った緑間だったが、とりあえず遥の手当ては急を要する具合だったので、手短に用件だけを伝えることにする。
「姉ちゃん、今日何時頃に帰ってこれそうだ?」
かくかくしかじか、響達とケンカ紛いの殴り合いをしたことだけは伏せて、遥という女の子の怪我の手当てをしてほしいと頼んだ。
看護学校に通っている彼女なら、的確な治療を施せるだろう。そんな姉の、医療知識と技術をアテにして緑間は電話をしたわけだが、
『ごめん。今、とてもじゃないけれど手を放せる状況じゃないのよ』
あろうことか美咲はそんなことを言い、
『それと、今日は家に帰れないから』
と言って、
『本当にごめん。それじゃあ』
と、電話を掛けたこちら側の都合は一切合財無視して、勝手に電話を切りやがったのである。
ツー、ツー、と空しい音がやけに響き渡った。
「あ、電話」
だが、それから五秒と経たない内に、姉から折り返し電話が掛かってきたのである。
通話ボタンを押し、緑間はもしもしと言おうと口を開いたものの、そんな挨拶も満足にできないまま、「夕飯は軽く済ませてね。軽くよ。か・る・く」と一方的にそれだけを早口で喋られ、緑間には喋る暇すら与えずにまたも勝手に電話を切っていった。
「どうしたの、随分おっかない顔をしてるけど」
「…ほっとけ」
とりあえず赤崎に事情を説明し、姉が帰ってこないとの旨を伝える。すると、ふむ、と考えるような神妙な顔つきで赤崎は腕を組んだ。
姉から簡単な応急処置のやり方くらいは習っているので、やってやれないことはないだろうが…はたしてこのシスコン野郎は聞く耳を持っているだろうかと緑間が考えていると、ピーンポーンとインターホンが鳴った。
誰だよこのくそ忙しい時に、とぐちぐち文句を言いながら、緑間はどたばたと乱暴に階段を下りる。
その間にインターホンが三回程鳴ったので、「はいはい今開けますよ!」と口を尖らせてガチャリとドアを開けた。
そこには、本当に―予想外の人物が立っていたのだ。
「……何よ」
水沢青子が、仏頂面で立っていた。
家でテレビを見ながらのんびり休日を満喫していたら、美咲さんから連絡があって、祭のところに怪我をした女の子がいるみたいだから行ってやってくれないかって言われたの、と家へ上がるなり彼女はそんな風に、説明口調でまくし立てた。
正直、早口でそう言った青子の表情はどこか強張っていて、これは何か裏がありそうだと思った緑間だったが、あえてそれを口にはしなかった。
青子が来てくれたことは確かにイレギュラーなことであったけれど、それでも有り難いことであったし、何より―。
「…えーっと…なんか怒ってる?」
「怒ってないわよ」
何より彼女が、仏頂面を通り越してとても不機嫌そうな顔をしていたからだ。
なんとなく久しぶりの再会で気まずさもあったわけだが、ひとまず遥の手当てをしてもらう為に青子を部屋へと招く。
そういえば、彼女を部屋に上げるのは久しぶりのことだった。
今度はお前が来るんだから―などと、先日青子の家に上がった時、冗談交じりに緑間はそう言ったわけだが、まさか本当に彼女の方が家に来るとは思っていなかった。
(…二人っきりじゃなくて、よかった、な)
それと同時に、彼女は遥を見てどう思うだろう、とも思う。
青子は藤黄遥のことを知らない。というか、そもそも赤崎に妹がいること自体を知らないはずだ。
緑間だって、赤崎に妹がいるというニュアンスの話をされたことがあっただけで、それもついこの間その妹本人に会うまで、そんな話をされたことすら忘れていたのだから。
それに―緑間でも、寝ぼけていたとはいえ、遥のことを赤崎と見間違えている。
しかも、とりわけ眠っている、つまりは目を瞑っている遥は、双子と言っても遜色ないほどに赤崎と瓜二つだ。それを見れば、聡い彼女はおそらく一瞬で事の真相に気づくだろう。
遥のことをどう説明しようか考えている間に部屋に着いてしまい、まあなるようになるだろ、という軽い気持ちで緑間は青子を部屋に入れた。
ベッドの上に横たわっている遥を見て、彼女はやはり驚いたように目を見開いていたが―「この子の怪我を、手当てすればいいのね」とだけ言って、遥のことは聞いてこなかった。
予想外の彼女のそれに呆気に取られてしまって、しばらくぽかんとしていた緑間だったが、青子が救急箱を開けた音で我に返り、慌てて傍に駆け寄る。
「どこを怪我しているの」
「わ、脇腹」
そう、と短く返すと、青子が遥の服をまくった。
これはギリギリアウトだな、と思い赤崎の方をおそるおそる見やった緑間だったが、肝心の赤崎がすやすやと眠っていて、思わずずっこけてしまう。
さっきまで起きていたはずなのに―一体いつの間に眠ったのか。
悩んだ末、結局緑間は、そのまま青子が手当てする様を隣りで見ていることにした。
赤崎と同じ、透けるような真っ白な肌に一瞬目が眩んだが、それとは相反した異様なまでの紫色が目立って、自然と眉間に皺が寄る。まさかここまでひどい痣になっていると、緑間は思っていなかった。
青子の方もやはりその怪我を見て顔をしかめたが、救急箱から冷却スプレーを取り出し、痛々しいその紫色にふきかける。この冷たさでも遥は目を覚まさないのだから、本当にびっくりだ。
淡々と遥の手当てをしていく青子に、緑間は聞いた。
「…聞かないのかよ、こいつのこと」
彼女は、顔色一つ変えずに言った。
「聞いたわ。静の…妹なんですってね」
体が固まる。
何故それを、一体、誰から。
緑間は頭の中で思考を巡らせる。そして、
「…響達に会ったのか」
最終的に、緑間はそこに行き着いた。
赤崎に妹が存在していること、その事実を知っているのは、おそらく現時点で(藤黄家を除いて)緑間と、先ほど戦った響と優だけのはずだ。
緑間のそれに対し、彼女は「さあ?」と答えをはぐらかした。
「…やっぱ怒ってんだろ、お前」
「怒ってないって言っているでしょう」
「じゃあ、なんなんだよ…なんだってさっきから」
そんな、やるせなさそうな顔をしやがる。
青子は、笑った。
「そういう表情を上手く隠せない自分に、怒っているのかもね」
はい終わり、と遥の体から手を退き、そっと布団を掛け直した青子が、なんとまあ驚くことに、緑間の方を見るなり「脱いで」と言い出した。
「……は?」
緑間の口から素っ頓狂な声が飛び出す。
よほどひどい顔をしていたのだろう、一向に動こうとしない緑間に対し、彼女は溜息をついた。
「手当てしてあげるから、服を脱いでって言ってるんだけど」
何勘違いしてるのよ、と悪戯っぽい笑みを浮かべてからかうように青子が言った。
その笑みがあまりに―あまりに、儚げで。
思わず緑間は、手を伸ばしてしまう。
「祭?」
青子が、不思議そうな顔をしている。
緑間は、そんな彼女の手を掴み―掴んで。
ぎゅっと、抱き寄せた。
一瞬、びくりと青子の体が強張ったのが緑間にはわかった。
突然こんなことをされては、特に女性はそういう反応を返してしまっても仕方がないかもしれない。
それでも緑間は、青子を抱きしめる腕を解こうとは思わなかった。
少し力を込めるだけで壊れてしまいそうで、抱きしめる腕の力は自然と緩む。こんな風に―こんな感情で、青子を抱くのは初めてのことだった。
(青子の匂い…)
ほんの二、三日会わなかっただけで―こんなにも変わってしまうのだろうか。たったそれだけの日数、会わなかっただけで。
こんなにも、彼女を愛しいと思うだなんて。
心拍数が早くなっているのがわかる。柄にもなく、自分から仕掛けたにも関わらず緊張しているんだな、と緑間は小さく笑った。
「…なに笑ってるのよ」
「別に…ただ、可笑しくなっただけ」
なによそれ、と青子も笑った。
ああ、やっぱり好きだな、なんて思いながら。
青子の鼓動も早くなっていることに緑間は気づいて、少しだけ、抱きしめる腕に力がこもる。
「…壊れ物みたいな扱いをしないで、するならちゃんと、抱きしめて」
殺し文句のようなその台詞に、緑間は目を見張って―そして。
「…ただいま」
それだけを言って、緑間は青子の肩口に顔を埋めた。彼女は、そんな緑間の頭に手を乗せて、ぽんぽんと優しく撫でた。
「ん、おかえり」
***
それからまあ、緑間は青子に怪我の手当てをしてもらい、それが終わると彼女はそそくさと帰り支度を始めた。
使った救急箱の中身をきっちりと元に戻し、「じゃあもう行くわ」と腰を上げる。
「ゆっくりしていけばいいじゃねえか」
「そうもいかないのよ。急ぎの用事があってね」
「お前、ついさっきまでテレビを見ながらのんびり休日を満喫してたんじゃねえのかよ」
「それはそれ、これはこれ」
一応引き止めてはみたものの、どうやら緑間の家に留まるつもりはないようで、彼女は本当にさっさと部屋を出て行った。
慌てて追いかける際、ちらりと緑間は赤崎の方を見やって―やっぱり眠っていたから、ほんの少しだけ、ホッとしている自分がいた。
玄関に出て、青子が靴をはく。話したいことや言いたいことはたくさんあったが、とりあえず当初の目的通り「ただいま」と言えたし、正直何をどういう風に言葉にすればいいか、整理がついていないのが現状だったので、緑間は結局「じゃあな」としか言えなかった。
「…あんまり妬かせないでよ、馬鹿」
「?なんか言ったか?」
青子が何かを呟いたような気がして聞き返したが、繰り返すつもりはないようで、なんでもないと彼女は首を振った。
そして。
「お邪魔しました。じゃあ、また今夜ね」
彼女はひらひらと手を振って帰っていった。
バタンと閉じたドアを見つめながら、緑間は青子の言葉を反復する。
「……?」
今夜?




