第四話 「響と優」
白金響は二重人格である。
ということを琴乃から聞いたのは、果たしていつのことだっただろうか。
優は思い出そうと試みたが、思い出したところでどうにかなるものではないので、結局諦めた。
そう、響は二重人格だ。そして響自身は、自分が二重人格であることに気がついていない。
二年前。赤崎達と出会ったことをきっかけに、全てをやり直すことを決めた響は、今までの乱暴な口調を正し、一人称を“僕”としてケンカをしなくなった。
響自身はそれを、自分が変わったのだと勘違いしているようだが―本当は、裏人格である「二重破壊」の自分を、記憶の奥底に封じただけなのだと琴乃は言っていた。
「いーや、こいつはちゃんと気づいてたぜ?だから俺に取引を持ちかけた。定期的に俺のストレス発散に付き合うから、この体の所有権を自分に返してほしいってな」
響がこの世に生を受けて既に十七年ほど経っているが、その十七年の間の一年間だけ、この裏人格の響がほとんどの割合を占めて、響の体を所有していた時期がある。
それがつまり響と、それから琴乃の二人を合わせて「壊す双子」などと呼ばれていた時期で、つまるところ「二重破壊」と呼ばれていたのは、裏人格の方の響なのだ。
そういえば琴乃は、響の裏人格を―響のストレスが具現化して出来たものだとも言っていた。
「それでお前は…その条件を飲んだんだろう?それなのに何故、今更…」
「そう!まさしくそこなんだよ。不思議だよなあ?あいつ、俺のこと大嫌いなはずなんだぜ?つうかまあ、多分俺のこと好きだった奴はいないだろうけどな。お前だってそうだろ、黒銀」
そんなことはないが、と優は言った。
余談であるが、優は裏人格の響のことを“白金”と呼んでいる。
これは、表と裏の人格をそれぞれ区別しているからなどではなく、ただ単純に、裏人格の響のことを“白金”と呼んでいた頃の名残があるからだ。
優は、初めて会った時に一度呼んだきりで、それ以降裏人格の響のことを名前で呼んだことは一度もない。その理由として、裏人格の響が“優”とは決して呼ばなかったからだ。
裏人格が眠り、今の響と初めて対峙した際(まあ、小学生の頃に一度会ってはいるけれど)、裏人格とは違って表の響は、なんの躊躇いも迷いもなく、自分のことを“優”と名前で呼んだから―今の響のことは、なんの躊躇いも迷いもなく“響”と呼んでいるけれど。
“黒銀”―そんなふうに呼ばれることが本当に久しぶりで、ひどく懐かしかった。
この明瞭な距離感が寂しくはあるが、心地よいとさえ思う。今の響との距離感がふわふわとして曖昧だから、尚更だ。
別段それを、どうこうしたいわけではないけれど。
「確かに…まあ、響はお前を、快くは思っていなかったな」
だろ?と白金は可笑しそうに笑った。
そして、
「でも、受け入れることにしたよ」
と言った。
「嫌いだった。嫌いだったとも。誰かを傷つけることしか出来なかったこの自分が、殺してやりたくなるほど大嫌いだったさ」
でも、と彼が続ける。
「そういう生き方を望んだのは、他の誰でもなく僕自身だったんだ。僕が、自分の身勝手で生み出した。それを嫌い続けることが―僕には多分、難しかったんだと思う。だってそうだろ、こいつは僕で、僕はこいつなんだから。同じ一人の“白金響”だ。いがみ合って嫌い合うなんて、馬鹿みたいじゃないか」
白金と響。
白金―響。
それが彼の名前だった。
「だから、受け入れることにしたんだ。僕は―もう一人の俺を、受け入れることにした」
お互いが、過不足なく平等に傷つく為に出した答え。
フィフティーフィフティー。
それが、彼らがずっと探し求めていた“終わり”だったのだろう。
響は、やはり苦笑いを浮かべている。見誤るはずがない。彼は紛れもなく、見間違いようがないほどに、優が“響”と呼ぶ白金響だ。表側の人格。
小学五年生の頃を境に優の前から姿を消した、無邪気で無垢で明るくて元気な響だ。
「…いつの間に入れ替わったんだ、響」
「入れ替わったわけじゃない。言ったろ、受け入れることにしたって。僕にはもう、裏も表もありはしないよ」
響の口調が、若干変わったように優は感じた。どちらかといえば、以前よりも少しぞんざいになったような気がする。裏人格の響と比べるなら、かなり丸く収まったというべきか。
それに、一人称。このタイミングで響が“僕”と言うのなら、それはおそらく、もう二度と揺らぐことはないのだろう。響の一人称は、“僕”として統一されたのだ。
そして、その目からはもう、一切の迷いも感じられない。
確かに、今自分の目の前にいるのは響だ。雰囲気が少し変わったように思うが―根っこの深い部分は、相変わらずのようである。
一人称は“僕”に統一されたようだが、口調はぞんざいになっていて、それはおそらく、響の中にいた裏人格の響がまだ生きているという証なのだろう。響の言った“受け入れる”とは、そういう意味であったのだ。
響は裏人格の自分を受け入れ―そして、「二重破壊」である自分を含め、一人の白金響になったのである。
響は自分自身と向き合った。その結果が、今目の前にいる響なのだろう。
「…そうか」
「聞かないんだ、理由」
響が意外そうに首を傾げた。それはおそらく、響がそうなろうと決めたことに対しての理由について、言っているのだろう。愚問だな、と優は言った。
「お前が自分の意思で決めたことなら、俺は別に構わないさ」
「そう…か。はは、そうだよな…お前なら、そう言うと思ってたよ」
どこか嬉しそうに、くつくつと響が喉を鳴らす。最早二人の独壇場で、緑間達の存在など無しに等しい状況であった。
これは優と響の問題で、第三者の入り込む余地など初めから存在していない。
そしてそれは、おそらく響の半身である琴乃でさえも。
「なあ、」
「なんだ?」
(そう、これは)
―俺と響の問題なんだ。
「…お前は、どっちの僕が好きだった?」
一瞬、優は動揺した。響が言っていることの意味が、そしてその問いかけに対する響の意図が、わからなかったからだ。だから即答出来なかった。
答えはもう、とっくの昔に決まっていたはずなのに。
俺が初めに再会した響。「壊す双子」精神的破壊担当「二重破壊」である、ケンカに明け暮れた毎日を送っていた響。
他人に全くといっていいほど心を許さず、この世の全てを疎んでいるようにさえ見えた響。
五十人あまりの不良達を相手に、琴乃を助けるべく俺と手を組んで戦った、俺のことを最初から最後まで名前で呼ばなかった響。
―二年前、唐突に俺の前から姿を消した、どこまでも自分本位で自分勝手な、拳一つ分俺との距離が空いていた、裏人格の響。
小学五年生の時に、琴乃と一緒に俺の前から姿を消した響。
上手な笑顔を浮かべようと必死になって、結局心から笑えたことなんてなくて、その代わりに上手な他人との付き合い方を覚えた、徹底的なまでに自分と誰かとの距離を欲しがっていた響。
俺が一緒にいたいと思った、俺が初めて特別になりたいと思えた、俺のことを最初から最後まで名前で呼んだ響。
大事なことほど一人で抱え込んで、それがどれほど辛いことであったとしても、決して俺を頼ろうとはしない響。
やっぱりどこまでも自分本位で自分勝手な、俺とゼロ零個分の、背中合わせの距離を保ってきた―表人格の響。
「どっちが好きか、なんて。馬鹿言うな」
それこそ愚問だ。
お前は、俺がそれを言わなければわからないのか。
「区別したことなんて一度もない。俺にとっては、全部含めて“白金響”だ」
優の言葉に、響はまるで虚をつかれたように目を見開き―そしてその端整な顔を、くしゃくしゃに歪めて微笑んだ。
「それが答え?」
(ああ、そうだ)
「これだけは―今も昔も、これからだって変わらない」
そっか、と響が呟く。とても満たされたような顔をしているくせに、目だけがどうにも悲しげだった。
「本当にさ…お前はいつも、僕が一番欲しいと思った言葉をくれるから。結構色々、参ってるよ。そのまっすぐさが、僕には今までずっと眩しかった」
そのまっすぐさを、どうやって受け流そうか、そんなことばかり考えていたんだ。響がそう言って、遠くの空を仰ぐ。
優には、今響が何を考えているかわからなかった。だからいつも、響の次の言葉を待つことしか優にはできない。
しばらく経って、ようやく響の中で何かが凝り固まったらしく、空から視線を外した響が、優のことをじっと見つめた。視線が交錯する。
「でも、いつまでもそれじゃあダメなんだって、これでもわかってはいたんだ。それでも結局、今日までずっと、覚悟を決められずにいたんだけれど」
なんとなく―なんとなくだけれど、自分の中の何かが、そして自分達の間にあった何かが、変わっていくような気配を優は感じた。
自然と、手のひらを握りこんでしまう。柄にもなく緊張しているのかもしれない。
「優のまっすぐさに、いつの間にか中てられていたのかもしれないな…ああ、うん。きっとそうだ。お前がそういう奴だから、だから僕も、まっすぐに向き合おうって思えた。随分時間がかかったように思うけど…まあそこは、勘弁してくれ。背中合わせは―もう、飽きたから」
終わりにしよう、と響が言った。
白金と黒銀の間には、いつでも拳一つ分の距離が空いていた。
その距離は決して埋まることはなく、その距離が溝を作ることはなかったものの、自然と二人の関係には、いつも小さな空洞ができていた。
対して響と優の間には、全くといっていいほど距離がなかった。言うならば、ゼロ距離。
だが、彼らは決して向き合おうとはせず、ただただ背中合わせの関係であることを望んだ。
お互いを正面から見ることが出来ず、背中を通してでしか繋がることの出来ないような、とても危うい安心感を伴う距離感。
どんなに悲しくても、苦しくても、辛くても、背中を貸すことしか出来ない、どこまでも交われない平行線のような空しさと無力さを痛感させる、噛み合わない関係だった。
響はそれでいいと思っていただろう。優も、それが一番“らしい”在り方なのだと妥協していた。
このままずっと、こういうふわふわして曖昧な関係が続いていくのだろうと、そう思っていたはずだった。
けれど響は、終わらせようと言ったのだ。
この関係に終止符を打とうと―他ならぬ彼自身が、そう言ったのである。
まっすぐに向き合おうと。
「友達は、いつか裏切る。僕はそういう風に割り切って生きてきたから、今更友達が欲しいとは思わない。優のことは信用してるよ、でも、僕は大概臆病だからな。ありえもしない裏切られるその時を想像して、裏切らないとわかってはいても、やっぱり怖いとは思うんだ」
そういえば、と思い返してみて、自分は一度でも響との関係を明瞭に言葉にしたことがあっただろうか、と優は思った。
少なくとも、“友達”なんてそんな安っぽい言葉で片付けるつもりはないし、片付けた覚えもない。
それではたとえば、自分と響との関係を第三者に訊ねられた時―果たして自分はなんと答えるのだろう。そんなことを優は頭の隅の方で考えたが、一向に答えは思い浮かばなかった。
言葉にするにはやはり、ふわふわして曖昧すぎていたのだろう。自分達の関係も、距離感も。
それが今、壊れようとしている。
「だから僕は、お前を友達だと思ったことは一度もない。僕とお前は、友達じゃない。優が望むような“親友”には、なってやれない」
“お前の親友になりたかったよ”
そういえばいつかにそんなことを言ったな、と優は思い出した。
あの時の響は、それに対してはぐらかすような態度を取って、結局何も言ってはくれなかったけれど―。
(親友にはなれない、か)
今回ははっきりと、言葉にされてしまった。
言葉にされてしまったら、逃げ道を探すことすら出来なくなってしまった。
重く暗い感情が胸を圧迫する。それは唐突に涙を誘った。
勿論優は泣かなかったけれど、正面からはっきりと理想を否定されることは、存外辛いものだということをこの時初めて知ったような気がする。
やはり自分は、響にとってそれほどまでに意味を成すような存在では、なかったのだろう。その事実は、優の心を冷たく撫でた。
でも、と響が続ける。正直なところ、これ以上話を続けてほしくはなかった。これ以上、惨めな思いはしたくないと優は思った。
「それでも僕は、やっぱり優と“しんゆう”になりたいんだ」
その言葉に、優は大きく目を見開いた。その一言で、一瞬にして重く暗い感情が、涙が、優の中から消えていく。
(なんだよ、それ)
お前今、親友にはなれないって、言っただろう。
響が、困ったような顔をして笑った。
「心を許し、お互いを理解し合える心友に。どんな時も信じ合える、強い絆で結ばれた信友に。そして、決して裏切ることない…僕の、本当の意味での真友に―なれ」
命令形か、とはあえてつっこまなかった。
響の目が真剣そのもので、それが紛れもなく響自身の本心なのだと優にはわかったからだ。そしてそれは、優が今までずっと渇望してきたものだった。今度は別の意味で目頭が熱くなる。
「悪い、随分待たせた。背中合わせは…終わりにしよう、優」
そして、追い討ちをかけるようなその言葉と一緒に、響の手がすっと前に差し出された。
たとえば。
たとえば今ここで、嫌だと言って断わり、その手を取ることを拒絶したとしたら。
響はどんな顔をするのだろう、と刹那にそんな疑問が優の頭を過ぎる。
怒るだろうか、悲しむだろうか、それとも―笑うだろうか。考えて、薄く苦笑いを浮かべる。
(お前は多分、俺がこの手を取らない可能性を、一ミリも想定してはいないんだろうな)
お前は必ず、俺がこの手を取ると確信している―信じている。
つくづく自分本位な奴だ。こっちの気持ちなんて、一つも考慮しようとしない。
だが、それでも。
この一方的ともいえる信頼が、今は何よりも嬉しいものだった。
(本当に、厄介な奴だよ、お前は)
でも、不思議と―出会わなければ良かった、とは思えないんだよな。
優は、おもむろに右手を持ち上げる。
「お前は、いつだって俺の期待や予想を軽く飛び越えていくから…本当に、タチが悪い」
随分と情けない顔で優は笑った。
期待以上で予想外。
響はいつもそうだった。
響の手は、決して自分から動こうとはしない。優の手が浮いたからといって、自分からその手を取りにくることはしなかった。ただ微笑んで、優の次の言葉を待っているだけである。
それは、優がこの手を取ることを確信しているような、そんな笑みであった。
ここで嫌味の一つくらい言えればなと思いはしたが、結局優は皮肉すらも言えなかった。
だからその手を取る寸前で、優は響に聞いたのだ。
「…俺でいいのか」
「バーカ。お前がいいんだよ、いちいち言わせんな」
響のその言葉に迷いがなかったから、優ももう迷いはしなかった。
そもそも選択肢なんてものは初めから、存在すらしていなかったのだから。
「本当に…待ちくたびれたな。遅すぎるぞ、響」
優は、差し出された響の手を取った。
こうして、そうして、ああなった結果。
背中合わせであった二人の関係は、終わりを告げた。
ふわふわとして曖昧だった彼らの関係と距離は、“しんゆう”という言葉で補われ、二人はようやく正面からお互いに向き合うことが出来たのだ。
白と黒は交わったのである。
長い長い時間をかけて。




