第二話 「邂逅」
僕達と勝負してください、と響は言った。
「僕は僕を、終わらせなくちゃならない。僕は僕と―向き合わなくちゃ、ならない。その為に、どうしても必要なことなんです」
どういう意味だ、と緑間はあえて聞かなかった。どちらに転ぶことになったとしても―聞く必要はないだろうと思ったからだ。
「僕は、前に進みたい」
緑間は、後輩の言葉を受け止めてゆっくりと目を伏せた。
(進む為に必要、か)
それはたとえば、自分が前に進む為に、もう直幼なじみと永遠の訣別を果たさなくてはならないことと、同じような意味合いを持っているのだろうか。
緑間は閉じていた目を開き、斜め横をふわふわと浮いている赤崎のことをじっと見た。
(わかってる)
―俺も、終わらせなくちゃならないんだろう。俺もそろそろ、向き合わなくちゃならない。俺自身が、そして静自身が、前に進む為に。
今何考えてる?と赤崎がテレパシーを使って、緑間の頭に語りかけてきた。
言わなくてもどうせわかっているんだろうと、ついこの間まで緑間はずっとそんな風に思っていた。けれどそれは、どうやら違っていたみたいで、最近ようやく気がついた。
本当に大事なことは、言葉にしなければ伝わらなかった。わかってくれている、なんて、とんだ甘えだ。
「内緒」
赤崎の問いかけに、緑間は意地悪く笑って舌を出した。
そして響に向き直る。
赤崎はおそらく、響が今日そういった用件で自分たちを呼び出したのだと知っていたのだろう。知っていた上で、黙っていたのだ。それは、赤崎にとって一種の意思表示のようなものでもある。
赤崎静は、緑間祭に任せたのだ。
“勝負して下さい”
この言葉に対する回答の全権を、緑間にゆだねた。つまるところ、あとは緑間の意思がついてくるかどうかで決まる。
(…とは言っても、)
もう決まってんだよなあ。俺の答えっつうのは。
緑間は苦笑いをした。
なんせ自分は―自分達は、彼らにとって頼れる先輩様であるのだから。
「可愛い後輩の頼みを断るわけにはいかねえよなあ、静」
「そりゃあもちろん」
赤崎が間髪入れずに頷いた。まるで緑間がそう答えると、初めからわかっていたかのような口ぶりである。赤崎は、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「じゃあ…!」
「受けて立ってやるよ。全力で潰しに来い。俺らはその何倍も本気で、お前らを潰してやる」
と、まあそんな感じで格好良く宣戦布告をしたはいいが。
いくつかの疑問点が、まだ緑間の中には残っていた。
たとえばそれは、響の隣りにいるのが琴乃ではなく優であること。
二年前のあの日、緑間達がケンカをした相手というのは、白金ツインズ―もとい「壊す双子」であって、優は全く関係がない。
というか、そもそも緑間には、優が響とタッグを組めるほどケンカに強いようには見えなかった。どちらかといえば素人っぽい(人のことは言えないが)。
だが、それはまあ、どちらかといえば些細な問題であることに違いはなかった。
響の方も、優を連れてきたことには何か考えがあるのだろう。それは少なくとも、緑間の及び知るところではない。
それよりも。
赤崎静に戦える肉体が存在していないことの方が、よっぽど問題である。
言うまでもないが、赤崎は既に死んで他界している身である。
まあ、何がどう間違ってか、死にはしたものの他界はしていないというか、現在進行形で現世に留まっているというか、そういう部分に難はあるけれど―何はともあれ、赤崎は今、他者が触れるような肉体を持っていない状況にある。
それにも関わらず、そうとわかっていても尚、響は赤崎と緑間の二人に対して勝負して下さいと言ったのだ。
緑間は、そこが不思議で仕方ないのである。
赤崎に触ることが出来るのは、最早緑間ただ一人だけだ。
それに加えて、優にはそもそも赤崎の姿が全く視えない。つまり優は、緑間の他に、姿の視えないものとも戦わなくてはならないということになる。
視える響にしたって、視えるだけで触れはしない。赤崎に対して響と優が物理的ダメージを与えることは、どうやっても不可能である。
まあ、緑間以外の人間に触ることが出来ない赤崎もそれは同じ条件で、響たちに危害を加えることは、おそらく一切できないのだろうけれど。
それにしたって、よく考えるまでもなく響達の方が圧倒的に不利なことは、目に見えていた。
何故なら、たとえ緑間が二人に敗れたとしても―赤崎だけは、決して倒れることがないからだ。そして緑間は、響と優の両方にダメージを与えることが出来る。
これでは勝負が成り立たない。
ということで、緑間は一通りそれを説明した。
「っつうわけだから、無理なんだよ、こいつと戦うなんて」
俺はともかくとしてな、と緑間は続けた。それに対し、響はどこか可笑しそうな顔をして―本当に無理ですか?と聞いてきた。本当も嘘も冗談もない。こんなのは初めからわかりきっていることだ。
「無理なもんは無理だよ…こいつに」
「肉体がない限りは?」
そう、それだ。
まさしく緑間がそれを言おうとした瞬間―それは、全く別の声にそっくりそのまま紡がれていた。
緑間の体がぴくりと揺れる。その声は、自分の少し後ろの方から聞こえてきた。
初めは。
初めは、赤崎かと思った。声のトーンが限りなく似ていたから。だが、すぐに違うと緑間はわかった。
赤崎かと思っただけで、
その声は限りなく―似ていただけだ。
声の主は、ざりざりと砂を蹴りながら近づいてくる。
「何言ってるの、祭兄」
何故、一体どうして。
このタイミングでお前がここに現れる?
(いや、違う)
さっき自分で思ったじゃないか。そして今しがた、彼女自身がそう言った。
静に肉体がない限り―確かにそう、言っただろう。
それならば今、彼女がこのタイミングでここに現れた理由など―。
「私は、その為に来たんでしょ」
それ以外にあるはずがなかった。
***
期せずして最高のタイミングで現れた妹に、赤崎は苦笑いを浮かべた。
―あの時。
八月四日。緑間と共に藤黄家を立ち去る間際、赤崎は遥に一言残している。
“机の二番目の引き出し”と。
前日の夜、遥が切り出した話の内容が居たたまれなくなって、赤崎は部屋を出た―わけではなく。
勿論それもあるけれど、他にもきちんと理由があって、赤崎は少しの間外に出ていた。勿論散歩というわけではない。
赤崎が向かったのは、藤黄家から大分遠く離れた響の元―つまりはまあ、自宅であった。
ただし、いきなりの訪問は悪いだろうと思ったし(大分遅い時間だったから)、なんせ赤崎自身(まあ緑間の方にも当てはまるけれど)家には近づかないでほしいと言われている身だったので、赤崎は玄関前で響にテレパシーを送ることにしたのである。
響は既に就寝していたようだが、何度か呼びかけると目を覚まし、赤崎のテレパシーに応えてくれた。
頼みがあると伝えると、「じゃあ二階の窓から部屋(赤崎の)に入ってきて下さい」と言われ、赤崎は約一ヶ月ぶりに自分の部屋へと入った。どうやら見られて都合が悪いのは一階の方だけらしい。
死んでからというもの、この家に来るのはこれが初めてのことだった。
大分夜遅い時間だったので非常に申し訳なかったが、赤崎はすぐに用件を響に伝えた。緑間に、ではなく、響に。なんとなく、緑間に見られるのが憚られると赤崎は思ったからだ。
そしてその用件というのは、手紙を書いてほしいというもので―それがその翌日、机の二番目の引き出しに入れられる、遥に宛てた手紙のことだ。
二枚半の手紙を響に代筆してもらい、封筒に入れてもらったそれを赤崎は受け取った。
響は、赤崎が緑間以外に触れられないことを知っている為、手紙を持てるのかと危惧していたが―それはどうやら杞憂に終わったようで、事の外あっさりと、赤崎はその手紙を持つことが出来た。質量は感じないが、持っているという感覚は確かにあった。
これまでも何度か、緑間以外の何かに赤崎が触れることは何度かあったが、こんな風に自分の意思で何かに触れたのはそれが初めてのことであった。
砂浜の石も、浴槽のお湯にも、母の墓石にも―触ることは出来なかったけれど。
椅子には座れたし、壁は殴れたし、ベッドで寝ることだって出来たのだから。
要は、気の持ちようだったのだろうと赤崎は思う。
触れる人間は確かに緑間だけだったが―おそらく、固形物に触れることは、初めから可能だったのだ。それは本当に強く望めば、の話ではあるが。
触れないと断定して触れようとしなかったのは、他の誰でもなく赤崎の方だった。
赤崎は手紙を受け取り、最後にもう一度ごめんと謝って藤黄家へ帰るつもりでいた。そう、帰るつもりでは、いたのだが。
待ってください、と響に引き止められたのである。
一つ目の用件は、“緑間にあの日記帳を渡したことに対する謝罪”であった。
赤崎はその事実を知らなかったので、その言葉には素直に驚いたものだが、別段取り立てて響を責めることはしなかった。むしろ、それはそれで良かったとさえ思ったくらいだ。
そして二つ目。絞り出すような声で、響は言った。
『親友って、なんですか』
『本当は、わかっているんです。変わらなくちゃいけないんだって…優のことも、いつまでもこのままにはしておけないんだって』
『叶うならもう一度、静さんと祭さんのお二人と戦いたかったです』
それを聞いて―赤崎は、藤黄家に帰るのを思い留まった。響の話を聞いてやらなくてはならないという使命感に駆られた、とでもいえばいいのだろうか。
とりあえずそういうわけで、赤崎は響がぽつりぽつりとこぼしていく言葉を、ただ静かに聞いた。聞き終わった後で、手紙に一筆加えてほしいと響に頼んだ。
“八月六日、十四時頃に仲良し広場に来てほしい”と。
響の話を聞いて、一番手っ取り早いと思った方法がそれだった。もう一度戦いたい。彼は確かにそう言ったのだから。
だからこれは、もうすぐ本当の意味でこの世を去らなければならない自分が、可愛い後輩に贈ることができる、ただ一つの餞別のようなものだった。
『じゃあ、戦おうか』
赤崎は言った。
この時既に彼は、自分が借りることの出来る肉体があることを知っていた。
だから赤崎はそれを簡単に響に説明し、言ったのである。
『ずっと思っていたんだ。いつかそんな日が来たら、僕らは全力で、二人を祝福してやろうって』
―と、そんな感じで。
現在に至る。
(響は、)
響は―変わった。
二年前の七月、初めて出会ったあの暑い夏の日に比べると、それはもう三百六十度変わったといっても過言ではないほどに、彼は変わった。
本人もおそらくそれを自覚しているだろうし、きっと誰もがそう思っている。
ただ一つ、優との関係性だけを除けば。
『この間言われたんです。お前の親友になりたかったって。僕は、どう答えたらいいかわかりませんでした』
優のことは信頼している。けれど、どうしようもなく怖いと思ってしまう時もあって、優まで僕を裏切ったらどうしよう、とか。
そんなことはしない奴だって、頭の中ではわかっているのに…それでも、見たくないものから目を背けることが出来る、今の曖昧な関係を壊すのが、たまらなく怖い。
優のことだけはどうしても失いたくないんだと、響は言った。
その辺の事情にはあえて触れなかったけれど、とりあえず響が人間不信に陥っているということは、赤崎にもよくわかった。
あれだけお互いに思い合っているのに―どうして伝えきらないんだろう。どうして彼らは、正面から向き合おうとしないのだろう。赤崎はいつもそう思っていた。
(まあ、大概僕らも、人のことは言えないのだけれど)
―結局向き合う前に、僕と祭は終わっちゃったからね。
たとえ終わっていなかったとしても、今のこの関係は、どこまでいったところで変わりはしなかっただろうとも思うけれど。
どんな時も後ろで支えあう、“背中合わせ”の関係が僕らには多分ぴったりだったし、そういう曖昧な関係だったからこそ、僕は僕でいられたし、あいつはあいつでいられただろうから。
僕らはそれでよかったんだ。
でも、響と優は、それじゃあダメなんだよ。
僕らみたいにだらだらと、ぬるま湯につかっているみたいな関係を、続けちゃあいけない。
だって君達は、ちゃんと変われるんだから。
君達には、ちゃんと変わってほしいと思うから。
白黒はっきりつけないと、ダメなんだよ。
君はちゃんと、それに気づいたかい?―いや、
(気づけたんだろうね)
だからここに来たんだろう。琴乃ではなく、優を連れて。
目を見ればわかるよ。覚悟を決めたんだね…きっと君は本当の意味で、変わることを決めたんだと思う。僕にはそれが、たまらなく嬉しいんだ。
響は僕に似ているから、僕みたいにどこかで間違っちゃいそうな気がして―僕みたいな生き方をしちゃうんじゃないかって、ずっと心配してた。
(でも君は、)
変わることを決めたんだろう。僕とは違った生き方を、ようやく君は選んでくれた。他でもない、自分自身の意思で。
それでいい。
それは、僕には出来なかったことだから。
「協力するよ、全力で」
赤崎はぽつりとそんな風に呟いた。
響と一瞬、目が合った。




