第一話 「響と琴乃」
「本当に、一緒に行かなくてよかったの?琴乃」
響が、「やり残したことがある」と言って優を若干強引に連れ去っていってから、さほどまだ時間が経っていない頃。
一気にがらんと静かになった赤崎の家で、そんな風に―洗い物をしながら、青子が琴乃に聞いた。
琴乃は青子の隣りで洗い終わった食器をふく作業を担当していたが、それを聞くなり手を止めて俯いた。
青子がこのタイミングでそんなことを聞いた理由を、琴乃はわかっている。
家を出て行く間際、響は「一つだけ、やり残したことを思い出したんだ」と言った。それを聞いて響が何をしにどこへ行ったのか、それをわからない琴乃ではない。
琴乃としては勿論、ついていきたいと思う気持ちもあった。どうしたって二人は双子で、どこへ行くんでも一緒だったから。
けれど、響は琴乃に「待っていて」と言ったのだ。いつもお互いが一番近くにいて、いつも一緒にいた、そんな自分達の間に、初めて距離が出来た瞬間だったと琴乃は思う。
もっとも―距離が出来たのは、これが初めてというわけでは、なかったのかもしれないけれど。
どちらにせよそれは、響が変わったという紛れもない事実であった。
勿論寂しさはある。
響が変わり、響にとって琴乃が自分の世界そのものであったこと、それと同様に琴乃にとっては響が自分の世界そのものであったこと、そういった依存関係に終止符が打たれてしまったことに対する寂しさを、彼女は一時感じはした。
「良かったんです、これで」
だがそれ以上に―そういう響の変化を、琴乃は誰よりも喜んでいるのだ。
「響はようやく、前に進めたみたいですから」
「…?」
青子が訝しげに首を傾げた。
そういえば、青子に限った話ではなく、赤崎や緑間にも自分達の過去について詳しく話したことはなかったな、と琴乃は思う。
訊ねられることは度々あったけれど、響は上手い具合にそれをかわしていたし、触れられたくない話なのだろうと察した彼らは、ずけずけとこちらの過去に踏み込んでこようとはしなかった。
今まではその好意に甘えていただけだったが、この誕生日パーティの準備期間において、初めて青子の両親の不幸を知り、それに加え今回は赤崎の事情についても琴乃達は聞いてしまっている。
自分達は既に、彼らの過去に踏み入ってしまっている。
ならば、こちらだけそういった過去を伏せておくというのは、あまりフェアではないのかもしれない。琴乃がそう思うのだから、おそらく響の方もそう思っているだろう。
こんな風に思えるようになったのも、この人達と出会ったからなんだろうな―と彼女は思いつつ。
「響があんな風になっちゃったのは、私のせいでもあるんです」
それなら、今ここで全てをさらけ出すのも悪くないかもしれない。
「少し…昔話をするとですね」
琴乃は、両手で持っている底の浅い真っ白な皿を―そこに映る自分を見つめながら、静かに追憶する。
笑い飛ばすにはまだ日が浅い、その過去を。
「言ってなかったかもしれないですけど…私と響、三年前に実の母親に捨てられてるんですよ」
***
夢遊病、という言葉を知っている人はあまり多くないと思う。それが学生ともなれば尚更だ。
琴乃だって、ああいうことがなければ、おそらく一生縁のない言葉だっただろう。
夢遊病は、夢中遊行症、夢遊症とも言って、睡眠中、急に起き上がって発作的に歩き回ったり、話したりし、再び眠ってしまう現象のことだ。そして本人は、その間にした行動行為について全く記憶していない―覚えていない。
今思えばあれは、響のストレスが具現化したものだったのだろう。
その当時、響と琴乃は中学二年生だった。
彼らは、小学五年生の頃までとんでもない田舎に住んでいた。
ちょうどこの頃に優と出会い、三人でよく遊んでいたものだ。一生一緒にいようなどと、そんなプロポーズめいたことすら言い合った仲である。だから琴乃は、優のことだけは覚えていたのだ。
さて、そんな仲の良い三人であったが、響達の親(正確には母親)の仕事の都合で離れ離れになることになり、そして再会は、彼らが中学二年生の頃になる。
響達は小学四年生になるのと同時に転校し、その後もしばらく色々な学校を転々としていた。
小学校を卒業する頃には田舎を離れ、またも母親の仕事の都合で、今度は都会の町へと引っ越すことになった。ちなみに父親とは、随分昔に離別している。
この頃はまだ両者共にそこそこ頭が良かったので(少なくとも今よりは勉強に対する意欲もあった)、割と偏差値の高い中学校に転入することが出来た。それが凛々垣中学校である。
そしてそこで、響と琴乃の新しい生活が始まったわけだが―都会での生活は、思いの外苦しいものとなった。
頭の良い学校―凛々垣中学校は私立で、どちらかといえば金持ちが集まる学校だった。
それ故に、我こそは我こそはと、まるで自分が位の高い人間なのだと妄信している者ばかりで、田舎からその“頭の良い学校”に転入してきた響と琴乃のことを、あまり好ましく思わない人間もいた。
響の頭の柔軟性と回転の速さはそれでも一目置かれていて、そのおかげか中学生になってもそこそこの成績を保てていた。
琴乃はともかくとして、響がいつも大体学年で二十位以内をキープしていたことも事実である。そういうところも含めて―やはり、周りからは疎まれていた。
典型的ないじめはなかったものの、周りから嫌味を言われたり、陰口をたたかれていたりすることはあった。
響はそれを気にしていなかった―というわけではないが、友人に恵まれていなかった、などということもなかったので、その当時は琴乃もそこまで深刻には考えていなかったのだ。
だが―そういう毎日に、変化が訪れたのである。
二年生になったことでクラス替えがあり、響と琴乃が別々のクラスになったのだ。
そして、響と琴乃を取り巻く環境に変化が起こり始めのも、ちょうどこの頃のことである。
ある日。
朝起きたら、家のあちこちが滅茶苦茶のぐちゃぐちゃになっていた。
新聞紙はびりびりに引き裂かれ、ソファからはたくさんの羽毛が飛び出し、風呂場は水浸しでトイレにはトイレットペーパーが詰まっていた。それだけではなかったし、その他にも色々な場所が壊されていた。
財布や金目の物が全くの手付かずだったことが不幸中の幸いで、犯行に及んだのはどうやら強盗ではないらしかった。それでは一体誰が?
それから一週間は、とりあえず何も起きなかった。だから警察も、「犯人はわかりませんが、ひとまず安心していいのでは」と言ったのだろう。
その頃には、荒らされたリビングも元通り―とは言わないまでも、ある程度片付いていた。
だが、それからまた何日か経った頃。
朝起きたら、家のあちこちが滅茶苦茶のぐちゃぐちゃになっていた。
一度目の時とは比べ物にならないほどの荒れようだった。
皿は割れ、食器棚は倒れ、テーブルは引っくり返り、冷蔵庫からは食材が投げ出されていて…そして何故か、今回は響の部屋にも何者かが荒らしたような跡が残っていた。
ベッドのスプリングが壊れていたり、教科書が破り捨てられたりしていたのである。
たとえ寝ていたとしても、自分の部屋でそれだけのことが起きていれば目を覚ますだろうと、誰がやったか見ていないのかと母親は響に問い詰めたが、響は「見ていない」の一点張りだった。
当時響達が住んでいた家は、防音設備に特化した住宅で、それはそれは素晴らしい防音対策の施された一軒家だった。
仕方なしに母親は再び警察に連絡をし、事情を説明して家の外に警備をつけてもらうことにした。
これでもう大丈夫、と今度こそ本当に三人は安心した。とりあえずまた、一週間は何も起きなかったから。
そんな、ある日の夜のこと。
琴乃はトイレに起きた。
寝室は二階だがトイレは一階にしかないため、階段を降りなければならない。彼女は夢うつつの状態で一階まで降り―そして、リビングから物音が聞こえてきたことに気がついた。
まさか、また誰かが家を荒らして…?意識が完全に目覚めた琴乃は、おそるおそる忍び足でリビングへと向かった。そして、音を鳴らさないようにドアを開ける。
初めは、真っ暗で何も見えなかった。
明かりをつけると犯人かもしれない人物にバレてしまうので、琴乃は震えで腰が抜けそうになる体を必死に立たせ、暗闇に目が慣れるのを待った。目が慣れてくると、リビングに人がいることがわかった。
その人物は、琴乃の予想通り家を荒らした犯人であったようで、リビングにあるものを手当たり次第に破壊している。一瞬、琴乃は息をするのも忘れてしまった。
響だった。
響だったのだ。
琴乃は逃げた。乱暴に階段を駆け上り、寝室に戻って一目散にベッドへと潜り込んだ。体が、先ほどの非でないくらい震えているのがわかった。
布団の中で必死に名前を呼ぼうとしたけれど、どうしても声が出なかった。
あれは紛れもなく―双子の兄である、響だった。
翌日、響はいつものように「おはよう」と言った。昨晩のことは、どうやら何も覚えていないようだった。
母親は、警備を頼んでいた警察官に詰め寄った。何故、警備がついていたにも関わらず、またも家の中が荒らされているのか、と。
だが、警察官曰く、ずっと見張りをしていたけれど、不審な人物が住宅に侵入する現場は目撃していないとのことだった。当たり前だ、犯人は家の中にいたのだから。
琴乃は、響のことを言おうか迷った。結局言わなかった。
次の日。
母親がリビングで倒れ伏せていた。寝衣を着たまま、体のあちこちを痣だらけにして気を失っていた。
おそらく母も夜中に起きて、その際に響の暴動を目撃し止めに入ったのだろう。そしてその時、響から攻撃を受けた―琴乃はそう確信していた。
響が「母さん!?どうしたの!?」と母親に駆け寄った。
目に涙を浮かべて必死に母親の体を揺すっている響を見て、琴乃はどうすればいいかわからなくなった。
それ、響がやったんだよ、とでも言えばいいのか。言ったらどうなるのだろう。
昨日の時点で母に響のことを話しておけば、こんなことにはならなかったかもしれないと、この時琴乃はほんの少しだけ後悔した。
その日琴乃は、やはりいつものように学校に登校した。響は母のことが心配だからと、一緒に救急車に乗っていった。
本当なら琴乃もそうしたいところであったが、どうしても確かめたいことが一つあったのである。
あの響の豹変ぶりは、正直言って異常だ。
今まであんなことは一度もなかった。響はどちらかといえば大人しいタイプで、間違ってもあんな風に、力任せに物を壊したりはしない。人を、傷つけたりもしない。
日常生活においては、響は夜の暴動の片鱗すら見せていなかった。だから琴乃は、響が自分に何か隠し事をしているのではないかとそう思った。
響が、琴乃には言えないような何かを―そしてそれが学校にあると、彼女は確信していたのだ。
本来琴乃に、自分の知らない響が存在することなどありえない。そして勿論、響が知らない琴乃が存在することも決してありえない。ありえない、ことであった。そう、ついこの間までは。
クラス替えで、響とクラスが離れるまでは。
小学校は、田舎にぽつんと建っている、生徒の少ない学校に通っていた。学年につきクラスは一つしかなく、その為クラス替えそのものがそもそも存在していなかった。
中学生になり凛々垣中学校に転入しても、一年生の内は“慣れない環境で息苦しくなるだろうから”と母が学校にかけ合ってくれたおかげで、二人は一緒のクラスになることができた。
一緒のクラスだったから、いつも一緒にいることができた。
だがそれは、二年生になって―クラスが離れたことにより、呆気なく変わっていってしまった。
琴乃には自分の知らない響が出来たし、響にも、自分の知らない琴乃が出来た。
一緒にいる時間が減った。その中で、響が琴乃に隠し事をするなど容易いといえば容易い。
そして響の凶行が始まったのは、二年生になってすぐのことだ。十分にありえる話である。
琴乃が学校に着いたのは、午前八時を少し過ぎた頃だった。
真っ先に響のクラスへと向かい、中に入って教壇に立つと、彼女は響のクラスメイトに呼びかけた。響の様子がおかしい、何か心当たりはないか―と。
響のクラスメイトであるはずの人間たちは、一斉に笑い出した。
そして琴乃は、響が隠していた全てを聞き出し―殴った。
一番偉そうに語った小太りの男と、響の一番の友人だった男を、それぞれ一発ずつ思いっきり殴った。
相手の前歯を折ってやるくらいの勢いで、力の限りぶん殴った。男二人は情けなく吹っ飛び、気絶した。
そしてもう一発、琴乃はダンっと黒板を殴り、クラス全体を睨みつけてから響の教室を出た。
確かめたかったことは、終わった。それならもう、学校にいる必要はない。
琴乃は、母親が運ばれた病院へ向かうことに決めたのだ。途中で制服は着替えていこうと思い至り、家へ帰った。
響がいた。
今はまだ朝で、夜ではなかったけれど―響は、家中を破壊しつくしていた。
カーテンは裂かれ、テレビは凹み、棚は倒れ、ドアには大きな穴が開いていた。
そして琴乃は。
一心不乱に破壊活動を続ける響を見て、怯えなかった。響のことを―恐れなかった。
何故なら、あの夜には見えなかったものが、今ははっきりと見えたからだ。
響は、泣いていた。
―“なあに、大したことじゃねえよ。優等生の響クンに、格の違いってやつを教えてやっただけさ。ま、ちっとばかし荒療治になったことにゃあ、違いねえがな”―
ぼろぼろと涙を流しながら、破壊衝動に従って家中を荒らす響の元へ、琴乃もまた、目にいっぱい涙を溜めて駆け寄った。響、と名前を呼んだ。
すると、そこでようやく琴乃の存在に気づいたようで、響は途端に怯えるような表情を浮かべ、琴乃に向かって物を投げつけた。
投げつけられた物の中には、刃物(はさみやカッター)などもあり、顔や肌を切ったが、それでも琴乃は足を止めなかった。
ごめん、と叫ぶ。
―“友達?馬鹿言うな。あんな気味の悪い奴、こっちから願い下げだっつうの”―
(気づいてあげられなくて、ごめん)
琴乃は、響のことを抱きしめた。響はがたがたと体を震わせ、琴乃の背中を殴りつけた。
痛い。
痛かった。
だが、響は―その何倍も、痛かったのだ。
いじめを受け、友人に裏切られ、体質のことで気味悪がられ、そしてそれを誰にも相談出来ず―こういう風にしか、自分の中に溜まったストレスを解消出来なくなって。他人を信じられなくなって。
ごめん、と琴乃は謝った。
本来なら、自分は気づけるはずだった。気づくべきだったのだ。家族で、兄妹で、双子だ。琴乃にとって、響は自分の世界そのものであったはずだ。響の痛みに気づくべきだったのは、自分だった。
だが、琴乃は気づけなかった。
響がこんな風になってしまうまで―気づこうとすらしなかった。
あろうことか、友達と笑い、友達と遊び、響とではなく友達と一緒に帰るようにまでなっていた。
響はこんなにも苦しんでいたというのに、琴乃はそれに見向きもせず、ただただ楽しい毎日を送っていただけだった。
(私は、響を裏切った)
響は琴乃を殴る手を休めない。琴乃は、その痛みに歯を食いしばりながらも、何度も響の名前を呼び、震える背中を宥めるように撫で続けた。
もっと早くこうしていれば、響を救うことが出来たはずだった。そう思うと余計に胸を圧迫され、息ができなくなる。
響がこんな風になってしまったのは、最初から最後まで私のせいだ。
ごめん、と何度も謝る。すると、響の手が殴ることを止めた。そして―先ほどまでとは打って変わった優しい手つきで、響は琴乃のことを抱きしめたのである。
「ごめん…ごめん、琴乃。僕…ぼく、」
ぎゅうっと、響の腕に力がこもる。胸が圧迫されて、本当に息が出来なくなりかけたが、それでも琴乃は構わなかった。その息苦しさを、心地良いとさえ思った。
「母さんが…僕を見て、暴れだしたんだ。私になんの恨みがあるのよって、言われた。初めは本当に、意味がわからなかったんだ。そうしたら母さんが、あんたが全部の元凶よって。僕、思い至っちゃって。もしかして、母さんをあんな風にしたのは、僕だったんじゃないかって。そうしたら、なんだか急に色んなものが噛み合って…もしかして、夜中、家を荒らしていたのは、僕だったんじゃないかって」
響が震える声でそう言った。学校でのことも全て話してくれた。
もう、どうしたらいいかわからない。何を信じればいいかわからない―そんな風に、響が言った。
だから琴乃は言ったのだ。
私を信じて。私だけは、もう二度と、絶対に響のことを裏切ったりしないから。
「それから三日後、母は無事に退院して…現金を置いて、家を出て行ったんです。自分の子供を置いて。まあ…責められる立場ではないんですけどね。一緒にいることは、もう限界だったと思いますから」
琴乃は、響が“夢遊病”だったことを一通り話し終え、自分達のことを捨てた母親のことをそんな風にまとめた。
それを聞いた青子は、ただ呆然と、呆気に取られたような顔をしている。そういう反応になってしまうのも無理ないか、と琴乃は苦笑いをした。
それからまた、その後―響のクラスメイトを殴ったことが知れ渡り、琴乃が自分のクラスで孤立し始めたこと。その延長線で、琴乃もいじめられるようになったことを話した。
「そうしたら今度は、響が私のクラスに殴りこんできたんです。おかげで惚れ直しちゃいました」
おどけたように言ってみせたが、青子はまるで無反応であった。
「…一つ、聞いていい?」
「はい。なんですか?」
「響の…その、夢遊病とやらは、治ったの?」
それは難しい質問だった。
治ったといえば治ったし、治っていないといえば治ってはいない。それが最終的な結果だ。
琴乃はなんと言おうか迷ったが、そこはまあ、アドリブでなんとかすることにした。
「あおこ先輩は知らなかったかもですけど、響って…二重人格なんですよ」
昔と今で一人称や口調が違ったのはその為だ、と琴乃は言った。
そう、響は―二重人格。解離性障害の一つで、解離性同一性障害とも呼ばれている。
切り離した自分の感情や記憶が裏で成長し、あたかもそれ自身がひとつの人格のようになって、一時的、あるいは長期間にわたって表に現れる状態のことだ。
簡単にいえば、一人の人間の内に全く異なる二つの人格があり、それらが交互に全く独立して出現することである。
響は、中学二年生のあの時期を境に二重人格となった。普段赤崎達がよく知る響というのは、どちらかといえば原型に近い昔の響―すなわち“表”の響である。
だが、中学二年生の夏辺りからちょうど一年間、“表”の響はほとんど眠っている状態だった。
そして、“表”の響が眠っている間―起きていた“裏”人格の響とは。
「それで、後から生まれた二人目の人格っていうのが、「壊す双子」精神的破壊担当「二重破壊」の響だったわけで…つまり、元を辿ればそれは、夢遊状態の響のことなんですよ」
夢遊病自体は治りましたが、結果として破壊衝動のつきない夢遊状態の響が、二人目の人格として構成されてしまったというわけです。と琴乃は続けた。かなり頭の痛くなる設定である。
「どうして…人格が?」
響が二重人格になった理由。
琴乃は、手に持っていた皿をようやっと食器カゴの中に入れた。青子の手はいつの間にか止まってしまっている。時計の秒針を刻む音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「強くなりたかったからです」
私を守る為に。自分を守る為に。自分達以外の全てを敵に回せるくらい、強くなりたかったから。だから響は、強い自分を欲した。
その結果、響は自分が強くなるのではなく、自分の中に強い自分を作ることに決めたのだ。
それによって二つ目の人格が生まれ、その元、つまりベースになったのが夢遊状態の響である。
そして、良くも悪くも、総称「壊す双子」、代名詞「二重破壊」などと呼ばれるくらいには、裏人格の響は強かった。
「だから私も、強くなりたいと思いました。守られるばかりじゃ、響の痛みは背負えない。私が強くなって…堂々と響の隣りを歩けるように、私も、強くなりたかった」
その結果、琴乃は自分の中に強い自分を作るのではなく、自分自身が強くなることを決めた。それがおそらく、響と琴乃の決定的な差異だった。
そしてそういった差異から、「壊す双子」が生まれたのである。
「他の何を切り捨てたとしても、お互いだけは絶対に裏切らない。簡単に手のひらを返されるような絆なんて必要ない、他人との繋がりは一切合財断ち切ってやる。信じられるのはお互いだけだ―って、そんな風に生きてきました」
優と再会するまでは。
そして―あなた達に会うまでは。
「でも、優と出会って、響は変わったんです。ちゃんと、変わった。私に依存しなくなって、少しずつだけど、人格を自分で統制できるようになった。優が、少しずつ、響の持っていた暗くて冷たいものを、溶かしてくれていったんです。そして、しずか先輩が、まつり先輩が、あおこ先輩が、私達の手を引いてくれました」
響が「壊す双子」であることをやめ、ようやく起きることを決めた。
自分がどれだけ小さいことをしていたかわかったよ、とあの頃のような笑顔を浮かべてくれた。
あの人達と一緒にいれば、僕はもう一度失ったものを取り戻せるかもしれない。そんな風に―響は言ってくれた。
そして、その頃響の傍らにいたのは―もう琴乃だけではなかった。
「響は変わって、変わったことを受け止められるようになって…響の一番は、もう、私だけじゃないんですよ。響にはもう、私以外にも自分のことを受け入れてくれる人がいるんです。響はようやく、私以外の“特別”に出会えた」
(だから、それでいい。それで本当に、十分だ)
これでようやく―響は私以外の誰かと、正面から向き合うことが出来るようになったのだから。
「だから、いいんです。響が今必要としたのは、優であって私ではなかったけれど…私は、それでいいって、ちゃんと思えてますから」
うまく笑えるか自信がなかったけれど、それでも琴乃は笑ってみせた。
そして、気がついたら抱きしめられていた。
今しがた琴乃の話を聞いていた青子が、琴乃のことをぎゅっと抱きしめたのだ。
いきなりのことに驚いたものの、不思議と嫌なぬくもりではなかったように琴乃は思う。
「…どうしたんですか」
訊ねてみたが、青子からの返事はない。
「……同情は、しないで下さい。あおこ先輩」
だからそれだけを言って、琴乃は苦笑いを浮かべながら―そのぬくもりを、押し返そうとした。
「勘違いしないで」
だが、押し返そうとしたその一歩手前で、琴乃は動きをぴたりと止めた。その言葉と、涙混じりの声に動揺したからだ。思わず琴乃は、泣いているんですか、と聞きそうになってしまった。
「同情なんて、そんな器用なことが出来るほど…私は多分、良い人じゃない」
いくら「粉骨砕身」の名を捨てたといっても、これで琴乃は一応握力は余裕で四十をオーバーしているし、たとえば今だって、その気になれば簡単に青子の肩を外せるくらいには、まだあの頃の名残が残っている。骨折させることだって容易いくらいだ。
それに比べて青子は、非力で無力な、どこにでもいる普通の女子高生である。だからこの程度の拘束など、あっという間に解ける自信が琴乃にはあった。
あったはず、なのだけれど。
これはおそらく、そういう強さを基準にして測れるような、強さではなかったのだと思う。
(…本当に、変な人ばっかりです)
そんな風に他人に同調して、他人の傷を、自分の傷のように痛んで、抱えて。
「…じゃあ、なんだっていうんですか」
そんな風に他人の為に傷ついて、一体なんの得があるっていうですか?あなたはただ、無意味に傷ついているだけじゃないんですか?
どうしてそうもまっすぐに、人の痛みを受け入れることが出来るんですか?
琴乃は、涙のわけを、そして―自分を抱きしめた理由を、青子に聞いた。
「多分ね、ただのお節介なのよ。だって私、琴乃のこと、大好きだもの。一人で泣いてほしくないし、同じ痛みを、背負わせてほしいとも思う。だからこれは、私のお節介」
琴乃はその言葉に目を見開いて―泣くように、笑うのだった。




