第五話 「閑話休題」
白金響と黒銀優。
この二人は、いわば対極的存在であった。ちょうど―赤崎静と緑間祭がそうであったように。
響は変わった。勿論琴乃も変わったし、優も多かれ少なかれ変わった部分はあるだろう。だが、そこには決定的なまでに例外的な、変わらないものも存在していた。
それがつまり、響と優の関係である。
赤崎達と出会い、関わってきたことで特に大きく変わったのは響だ。
響自身が、変わったことを変わったのだと受け止めることができるようになったくらいには、彼は変わった。それはもう、言い尽くせないほどに。
ただ一点、響と優の関係を除けばの話であるが。
彼らの関係性は、全てにおいて全くといっていいほど変わってはいないかった。おそらくそこには、作為的な理屈が存在していたのだと思う。
響は優との関係を変えようとはしなかったし、優もまた、響との関係を無理に変えようとはしなかった。それが答えで、この二人は“曖昧な関係”で居続けることを望んだのだ。
否―望んでいたのは、初めから終わりまで響だけだったように今は思うけれど。
優の方は、おそらく響が引いた線を踏み越えようとしたことがあったはずだ。
それが過去に何度あったかはわからないけれど、それでも優は、自分と響との関係を変えたいと、そう思ったことがある。それは確かなことだった。
けれどそれを、わかっていながらもひらりとかわしてみせたのは―他の誰でもなく、徹頭徹尾、響の方だった。
彼は、優のそれを受け入れようとはしなかったのだ。
曖昧なままの関係を、必要以上に騙し騙し、続けていくことを望んだのである。
だから優も、響がそれを望むならと一歩退いた。二人の間には、目に見えない溝ができていた。
こんな風に、そんな感じで。
白金響と黒銀優の関係は、今日まで変わりはしなかった。
―が、それも時間の問題だと赤崎と緑間は思っている。
きっかけさえあれば、おそらくあの二人は変わっていけるだろうと。
緑間と赤崎は、そういう関係をだらだらと続けて、おそらく赤崎が生きていても、そういう曖昧な関係をだらだら続けていただろうけれど。
彼らなら変われると―変わってくれると、信じている。
だからいつか、そんな日が来たら。
目一杯祝福してやろうと、そう決めていた。
***
次の日、八月六日。
「ふぁああ…ううーん、よく寝た」
欠伸をしながら、緑間はいつも通り起床した―つもりだった。
「そりゃあよく寝ただろうね。おはよう…いや、もう“こんにちは”かな」
「は?」
赤崎が何を言っているのかわからず、緑間は首を傾げる。こんにちは?
緑間は、大抵朝の五時前後に目が覚めるよう、自分の中の体内時計をセットしている。
理由は、まず朝食の準備をしなければならないから。そして二番目に、弁当を三人分(自分の分と赤崎の分と、姉の分)を作らなければならないから。
目覚まし時計は使用していない。以前一度使ってみたところ、部屋中に鳴り響いたあのベルの音が不愉快すぎて、寝起きが最悪だったからだ。
もっとも、そんな物に頼らずとも、緑間は常に五時をキープして起きることが出来ていた為、不便に思ったことは一度もなかった。
それが最近は赤崎のごたごたがあり、いつものように起きれない日もありはしたが―それでも、こんな恐ろしい時間に目が覚めたことは、一度もなかった。なかったのである。本当に、今日までは。
「まだ寝ぼけているみたいだね。お寝坊さん」
もう大分日が高いよ。そんなことを言いながら、幼なじみは壁時計を指差した。
「な…!」
「びっくりしたよ。こんな日に限って起きないんだからさ」
その言い方―こんな日に限って―には含みがあって、どういう意味だと緑間は聞いた。
けれど赤崎は、それに対して何も言わず、ひらりとかわすような笑みを浮かべるだけであった。
緑間は時計をこの目ではっきりと確認したが、未だに信じることが出来ず、枕元に投げてあるスマホを手に取った。ディスプレイを確認する。メールが一件、受信してあった。
「マジか…」
液晶画面に映る、正確な現時刻をもう一度目にし、そこでようやく緑間は諦めたように溜息をついた。まあ、信じられないのも無理はない。頭をがしがしと掻きながら、緑間はベッドを降りた。
正午である。
一階に降りてリビングに入ると、「おそよう」とからかい気味に姉が言ってきた。
開口一番のそれは緑間のプライドを粉々に砕いていったが、それが弁解のしようもない事実であることに違いはなかったので、否定することは出来なかった。屈辱的すぎる。
そして、朝食―否、この時間だともう昼食だが、緑間は姉が朝食の分に作ってくれていたサンドイッチを食べた。
ツナサラダ、たまご、ハムチーズ、ジャムなど、味の種類は豊富で美味しかったが、それでもやはり緑間の心内は釈然とせず、深い溜息を繰り返すばかりだ。
(姉ちゃんに朝飯作らせるとか、高校上がってからは一度もなかったのに…)
寝すぎた―寝坊を、した。
出だしが最悪な一日だった。
まあ、そのおかげで最近溜まっていた疲れや疲労感は、すっかりとは言わないまでも緩和されて、身体的には大分楽になったことに違いはないが。
それにしても最悪だった。一日の半分を棒に振るったような気持ちだった。無気力感しかなかった。
(…とは、言ってもなあ)
今日―八月六日に寝過ごしたことに、緑間は若干の違和感―というか、妙な必然性を感じていた。
今朝赤崎が言った“こんな日に限って起きないんだから”という言葉も相まって、やはり釈然としない緑間であったが…まあ、深く考える必要はないだろうと、すぐに思考を放棄したが。
姉は先に昼食を食べ終わっていたようで、これからバイトだからと目を泳がせながら家を出て行った。一人残された緑間は、とりあえず皿を洗っておいた。
そして緑間が受信していたメールを確認したのは、十三時になる少し前のことである。
起きた時点でメールが着ていることには気づいていたが、どうせ迷惑メールだろうと勝手に判断し、放置していたのだ。
だが、いざ受信箱を開いてみると、差出人は可愛げのない後輩である響からで、尚且つメールを受け取った時刻は朝の九時ときていた。
やっべ、と急いでメールを開く。
件名はない。それはまあいつも通りだ。そして、本文の内容は―あまりいつも通りの具合ではなかったように思う。
“今日の十四時に、仲良し広場に来てもらえますか。勿論静さんも一緒に”
実に簡素で、絵文字も顔文字もないメールだった。
琴乃ほどではないにしろ、響もメールでは絵文字や顔文字を幅広く使用してくる方である。
一文に対して、絵文字を二つ以上使わないと落ち着かない―などと、以前響が言っていたような気がしなくもないのだが。
それに響はどちらかといえばお喋りなタイプで、それ故にメールも長い。一メールにつき十行は使って、必ず送ってくる。それが今回は、全くといっていいほど違っていた。
このメール全てが、響らしくない―そんな風に、緑間は思ったのだ。
「あと一時間か…ま、特に用事もないしな。お前もいいか?」
「ん、」
緑間が訊ねると、赤崎は間髪入れずに頷いた。その即答加減に若干驚きはしたものの、特に気にする風もなく緑間は「わかった」と相槌を打って、響へとメールを返信した。
そうと決まればのんびりとしている時間はない。この時点で十三時は既に過ぎていて、それに対し今の緑間は、まともに外へ出られる状態ではなかった。急いで身支度を整えねば、と洗面台へと向かう。
せわしなく出かける準備を始めた緑間とは対照的に、赤崎の方はのんびりとソファに座ってテレビを見ていた。
こういう時、そういう必要のなくなった赤崎のことを、ほんの少しだけ妬んだりする。まあもっとも、赤崎は生前も自分の外見や身なりを気にするような奴ではなかったのだが。
歯を磨き、顔を洗って髪をいじくり回して、朝の準備らしい準備が終わった頃には、既に十三時半を回っていた。これは本格的にやばい。時間に余裕がなさすぎる。
服は何を着ていこうかとタンスを漁ろうとした緑間であったが、「待って」といいだけテレビを見ていた赤崎がそれを制した。
こっちはお前と違って急いでんだっつうの!と内心で毒づきながら、緑間が「なんだよ」と言うと、赤崎はある物を指差して言った。
「服はこれを着ていって」
緑間は、ハンガーにかけられているクリーニング済みのそれを見て、目をぱちくりとさせた。
「は?なんでだよ」
「いいから」
赤崎は、“いいから”の一点張りで理由を言おうとはしなかった。何やら、どうしても緑間にそれを着ていってほしい理由があるようだ。
まあ何を着ていくかも決まっていなかったわけだし、赤崎がそこまでぐいぐいと押してくるものに対して拒否する必要もなかったので、緑間はそれを着ることになった。
それからすぐに家を出て、目的の場所である仲良し広場に向かい、緑間は自転車をこぎ始めた。
仲良し広場に着いたのは、ぎりぎり十四時になる一歩前くらいの時間だった。
優ほどではないにしても、基本的に十分前行動を心がけている緑間にとっては、かなり痛い時間である。自転車を停めて中へ入っていくと、響の姿を確認した―いや。
響と優の姿を、という方が正しいだろう。
てっきり響だけがいるのだろうと思っていたので、優の姿を確認した緑間は少しばかり驚いたが、それが気取られないように「よう」と、いつものような気さくさで緑間は手を上げた。それに応じるような形で、響と優が頭を下げる。
向かい合うような形になると、響は少しきょとんとしたような顔をした。
「祭さん、今日寝過ごしました?」
「は?な…なんでだよ」
いきなりの響の言葉に、緑間の声は固くなる。
「いや…メール返ってくるのが遅かったですし、それになんだか、いつも以上に爽快な顔をしているので」
「………ああ、そうだよ。寝坊したよこんちくしょうめ」
大人気なくも緑間が口を尖らせると、響は慌てた風に首を振った。
「それが悪いとか、別にそういうんじゃなくてですね…むしろ良かったです。どうやらベストコンディションみたいですから」
響が困ったような顔で笑う。その物言いはおそらく、今日緑間達が呼ばれたことと、何か関係があるのだろう。
もっとも、何か―などと濁した言い方をせずとも、緑間自身はもう、既におおよその見当はついているのだが。響達の姿を見た時、ピンと来たのである。
なんせ彼らも―緑間(と赤崎)と同じく、制服を着ていたのだから。
まあ、あの時とは違って、今彼らが着ている制服は緑間達と同じものであるが。
そして緑間の予想が合っているとすれば―十四時にこの場所へ呼ばれた理由にも、つじつまが合う。
「…で、とりあえず、俺らを呼び出した理由っつうのを聞かせてほしいんだけど」
「?聞いてないんですか、静さんに…だから制服を着てきたんだと思ってたんですけど」
「いや。制服は、こいつが着てけってうるせえから着てきただけだ」
そうですか、と響が苦笑いをする。
そしてすぐにその笑顔を消し去って、まっすぐ緑間とそれから赤崎を見た。
強い意思を秘めた目をしていた。
そのまっすぐさが一瞬赤崎のものと被って見えて、緑間は下唇をきゅっと噛む。最近は、こんなことばかりだと自嘲した。
(本当に、)
俺の周りには、バカみたいにまっすぐな奴ばっかりだ。
「僕達と勝負して下さい、祭さん。そして、静さん」
赤崎はそれを聞いて、さして驚いたような様子は見せなかった。まさかとは思っていたが、どうやらこの幼なじみは今日ここに呼ばれた理由を、予め知っていたらしい。
そして―緑間の予想は、見事に的中した。
(あの時も、ここだったもんな)
あの時―というのは、以前言ったように、響達「白金ツインズ」―否、「壊す双子」と初めて会った日のことだ。
緑間は空を見上げる。
―あの日も確か、ちょうど今日のような雲ひとつない青空が広がっていたように思う。
風もなく、気温もちょうど良い具合で…あの日は本当に、最高に良いケンカ日和だった。
響は、あの日と同じ目をしている。ように見えたが、どこか混じっているようにも見えた。どちらにせよ、冗談で言ったわけではなさそうである。
どうやら彼らは、二年前のあの日を―仕切り直すようだ。
緑間はようやく、今日寝過ごした理由がわかった。どうしようもない、皮肉だった。




