第三話 「それじゃあ、また!」
「変ねえ…」
その言葉に、二人はそろって体を強張らせる。
「へ、変って何が?おばあちゃん」
「なんていうか…記憶がすっぽりと抜け落ちているような気がするのよ…」
「いや。いやいやいや。安心してください何かの間違いです」
「ふむ。言われてみればわしもそんな気が…」
「しないよね?全然気のせいだもんね?おじいちゃん」
―と、まあそんな感じで。
時計はものすごいスピードで時を刻み、ただいまの時刻は正午を過ぎた三十分頃。
今朝の出来事のせいで精神的ダメージを大いに被ってしまった二人が目を覚ましたのは、今からちょうど三十分ほど前の話になる。つまり、環と衛は五時間近くも気絶していたというわけだ。
二人が気絶して初めに当事者達がしたことといえば、それは勿論現実の偽造であった。
緑間は意識を失った二人を寝室まで運び、朝まだ目が覚める前の状態―つまり、ベッドに寝かせることで、さも自分達が今の今まで眠っていたかのように錯覚させるという作戦である。
その為には、衛はともかくとして、環の服を寝衣に着替えさせる必要があったが、そこは遥に任せることにした。
そして緑間と遥は、二人の枕元で「今朝見たのは全部夢」と、五分ほど念仏のように繰り返し、気絶している二人に念を押した。
隠蔽工作が終了すると、緑間と遥は空腹感に見舞われたので、リビングへ向かい、おそらく朝食として用意してくれただろうと思われる、味噌汁と焼き魚と目玉焼きと白米を噛み締めながらいただいた。一通り朝の準備(洗顔など)を済ませると、もう九時近かった。
緑間は帰り支度も済ませてしまおうと、遥にも手伝ってもらって、ボストンバッグに荷物をしまい込んだが、それも精々三十分ほどで終わり(元々そこまで荷物は持ってきていない)、遥と共に二人の起床(二度目)を待つばかりとなった。その間、何度お互いに「ごめん」を繰り返したことか。ちょうど赤崎が帰って来たのもそれくらいの時間だった。本人曰く、散歩に行っていたとか。
時間を持て余しているという現状と、緊張による張り詰めた雰囲気に、いい加減堪えられなくなった緑間は、せめてものお詫びにと昼食を作ることにした。勿論遥も一緒にだ。
そして正午、ようやく二人は目を覚ましたのである。真っ青な顔で死んだように眠っているものだから、もう目を覚まさないのではないかとさえ思ったので、とりあえず二人は安心した。念仏が効いたようで、二人は見事に今朝の出来事を忘れていた。
もっとも、あまりのショックに、脳が記憶することを放棄しただけなのかもしれないが…どちらにせよ、それはそれでめでたしめでたしである。
そして今、四人(赤崎を含めると五人)で仲良くテーブルを囲み、緑間と遥が作った昼食を食べている最中だった。とはいっても、作ったのは野菜炒めと肉じゃがくらいのもので、味噌汁は今朝の残りをリサイクルしただけである。茶碗蒸しでも作ろうかと思いはしたが、それはさすがに重いかと結局やめた。
見る者によっては、なんとなく少し寂しい昼食となってしまったような気がしないでもなかったが、それでも二人は美味しいと喜んでくれたので、緑間は結果オーライとする。
それに、こうやって自分が作ったものを美味しいと言って食べてもらえるのは、存外嬉しいことであったりするのだ。
「祭くんは、その道に進むのもありかもねえ」
にっこりと微笑んで、環が独り言のようにそう言った。
「お前さん、今日はもう帰るんじゃろう?」
昼食を食べ終え、環と遥が台所で食器を洗っている間に、衛が唐突にそう聞いてきた。
「はい、三時十七分発の電車で帰るつもりです」
緑間が頷くと、彼は「寂しくなるのう」と残念そうな顔で苦笑いをした。
寂しい。たった三日間でそこまで言ってもらえるとは思っていなかったので、思わず緑間はぽかんとしてしまう。
緑間としても、この家を離れることは寂しい、のかもしれない。良くも悪くも、緑間の家には姉しかいないのだ。両親はどちらも海外出張中である。もっとも、赤崎や青子からすれば、両親が生きて健在しているという事実だけで十分であるのだろうが。
両親がいない、姉との二人暮しの生活に不満を持ったことは一度もない。
必要な生活費は送られてくるし、今の時代にはテレビ電話という文明の利器も存在している。遠く離れていても、顔を見ることも声を聞くことだって出来るのだ。だから、寂しいとも、思ったことはない。だが―。
恋しくは、あるのかもしれない。恋しく思うことが、確かにある。
だが、ここはそれを紛らわせてくれる。久しぶりに緑間は、家族というものに直に触れた気がした。
だから、たった三日間だったとはいえ、離れることは、不思議と寂しい。
「またいつでも遊びにおいで。わしらはお前さんを歓迎するよ」
「…はい。ありがとうございます」
プラットホームが込み合うことを想定し、緑間(と赤崎)は十四時半に藤黄家を出ることにした。ここから駅まで約二十分。電車の発車まで十五分程度はゆとりを持てそうなので、おそらく席には着けるだろう。
そろそろ帰ります、と言うと、やはりというかなんというか、三人が玄関まで見送りに来てくれた。慣れないその感覚が、緑間はほんの少しだけ気恥ずかしかった。
「本当に色々とご迷…ありがとうございました」
迷惑、という言葉を使おうとして、迷惑であったかどうかを決めるのは少なくとも自分ではないなと思い、緑間はお礼の言葉だけを述べた。
「…孫が増えたみたいで楽しかったよ。良い思い出をありがとうな」
「俺も楽しかったです。今度来た時には、またお話を聞かせてください」
うむ、と衛が力強く頷いた。
「静くんを、ここまで導いてくれてありがとう。祭くんに会えてよかった。もう一度、会いたいと思っていたの。静くんがよく話していた君に…想像通りの、優しい子ね。ありがとう、今まで静くんと一緒にいてくれて」
きゅっと環に手を握られる。とてもあたたかい。
(俺は、)
優しくなんかない。
緑間は、ふるふると首を横に振った。
「…俺はただそこにいただけで、あいつに何もしてやれなかったですから」
「“ただそこにいてくれる”…当たり前のことのように、思えてしまうかもしれないけれど…それはとても難しいことよ。祭くんは、どんな時も“そこにいてくれた”―それはきっと、あの子にとって一番の救いだったと思う。何も出来なかった、なんて。そんなことないんよ」
そう思うことくらい、許されるだろうかと緑間は思った。それはとても、おこがましい考え方かもしれないけれど―。
(あいつの記憶に存在する俺が、少しでも意味を成していたんだと)
それくらいは、自惚れてもいいだろうか。
緑間はぎゅっと、環の手を握り返した。
「祭兄」
名前を呼ばれて目を向けると、遥が「ん、」と緑間に対してスマホを突き出した。女の子らしい、可愛いケースのスマホである。緑間は、彼女が何を意図しているのかよくわからず、首を傾げた。
「メアド、交換しよ」
ああ、なるほど。そういうことか。緑間は頷いて、ポケットから自分のスマホを取り出す。赤外線で、お互いのメールアドレスと電話番号を送受信した。
「…私が呼んだ時は、ちゃんと駆けつけてね。かっこよく」
「はは、了解した」
緑間は、再びスマホをポケットにしまう。
「…ああ、そうだ。忘れてた」
「え?」
「あの時―ありがとな」
あの時?と、今度は遥が首を傾げる。あの時―というのは、三日前。駅のホームでのことだ。
鈍器で殴られたかのような痛みに襲われ、耐え切れず気を失った緑間を引き上げて藤黄家まで連れてきてくれたのは、遥である。
ずっと、お礼を言いそびれていたのだ。
「ああ…いや、うん。別に、改まってお礼を言われるようなことじゃないよ」
「そういうわけにはいかねえよ。本当に、あの時あそこにいてくれたのが遥で良かった」
遥が何かを言いかけて口を開いた。が、しばらく経って彼女は口を噤み、代わりにがばっと緑間に抱きついた。突然のことに驚いてよろめきはしたものの、緑間はなんとか踏ん張った。
「遥?」
「これでさよならは、絶対に嫌だからね」
その声には、ほんの少しだけ涙が混じっていたように緑間は思う。
もしかしたら、また今度と言って結局帰らぬ人となった、赤崎のことを思い出しているのかもしれない。あるいは、それを緑間に投影して不安になっているのかもしれない。どちらにせよ、彼女は泣いているんだろうなと緑間は思った。
「約束、またね」
緑間はその小さな背中に腕を回そうとして―躊躇った。それは勿論、赤崎が見ているからなどというチープな理由故ではない。
腕を回さない代わりに、緑間はぽんぽんと遥の頭に手を置いた。
(そう、きっと)
この少女と自分との距離は、このくらいがちょうどいい。
「ああ、約束だ」
ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます、ゆーびきーった。
そして緑間は、先ほどからずっと沈黙を保っている幼なじみに向かって言う。
「ほら、挨拶くらいしていけよ、アホ」
言わなきゃなんねえこと、あんだろうが。そう言うと、まさか矛先が自分に向けられるとは思っていなかったようで、赤崎は少し困ったような顔をしていた。
いや、それはお前薄情すぎんだろ、と緑間はぎろりと赤崎のことを睨む。「わかってるって」と、赤崎はどこかバツが悪そうに言った。
「…おばあちゃん、おじいちゃん」
赤崎は、二人のことを読むように呼んで、まっすぐに二人を見つめる。
「今まで、本当にありがとう。こんなどうしようもない僕のことを、大事に想ってくれてありがとう。あと、こんな形で別れることになって、ごめん。でも僕、後悔はしていないから。大好きだったよ、二人とも」
とりあえず緑間は、赤崎の姿も声も感じることが出来ない衛のために、赤崎が言った言葉をそのまま耳打ちする。この言葉は、やはり赤崎本人から直接聞きたかっただろうなと思いながら。
彼はそれを聞くなり、途端に涙ぐんで目元を押さえた。環の方も、涙こそ流してはいないが、目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。
当たり前だ、二人は、遥のことを娘同然だと言ったのだから。
赤崎のことを、息子同然に思っていないはずがない。
「阿呆…わしらの方が、何百倍も愛しとるわ。この、バカ息子め」
「…うん、知ってるよ」
赤崎は泣いてはいなかった。涙は浮かんですらいなかったけれど、それはおそらく、涙を流さない泣き方であったのだと緑間は思う。
「…静くん」
「なに、おばあちゃん」
「幸せだったかい」
何の迷いもなく、彼は笑った。
「生きたいと思ってしまうくらいには、幸せだったよ」
「…それはよかった」
それが聞けただけで十分、と環が微笑む。
おそらく、色々と思うところがあったのだろう。もしかすると彼女は、今までずっと、赤崎結に静のことを任せたことに対して罪悪感を抱いていたのかもしれない。やはり自分達が引き取っていればよかった、と。
だからこそ、彼女が聞きたかったのは、後にも先にもそれだけだったのだ。だからそれで十分。もうきっと、言葉はいらないのだろう。
「…遥」
「なあに、お兄ちゃん」
姿は視えていないはずなのに、遥のピントは何故だかまっすぐ赤崎に向いていて、思わず視えているのではないかと緑間は思った。おそらくそれは、たまたまの偶然だったのだろうけれど。
「兄らしいことが、一つもできなくてごめん」
小さく首を横に振って、遥が言った。その表情は、中学三年生が浮かべるものにしては随分大人びていたように緑間は思う。
「してくれたよ、たくさん」
それに対し赤崎は、そう返ってくるだろうとわかっていただろうに、それでも目を見開いて、今度こそ本当に泣き出しそうな顔で遥のことを見た。
そして、今まで緑間の隣りにいた赤崎の体が、遥の方に向かって動いた。赤崎は、遥にしかわからないくらいの小さな声で、耳打ちをしたのである。
「え…?」
遥が、まるで意味がわからないというような顔をした。赤崎の耳打ちの真意が、よくわかっていない様子だった。
だが、しばらくたって自分なりに踏ん切りをつけたらしく、遥はゆっくりと頷いた。
双方にどういうやり取り―意思の疎通があったのか、勿論緑間にはわからなかったが、それを後で赤崎に追求しようとは思わなかった。それはおそらく遥にしか伝える必要がなかったことで、遥にだけ伝えたいと赤崎自身が望んだことであるはずだから。
赤崎兄妹の間での挨拶はその耳打ちで終わり、思いの外大分短くまとまった。生き別れた兄妹、たった二人の家族。思うところも言いたいことも、おそらく山のようにあっただろう。
だがそれでも、この二人の別れの挨拶は、どこまでも簡潔であった。まるでこれが、今生(もっとも、赤崎はもう既に故人となっているが)の別れでないことをわかっているかのような、そんな感じである。
ふらりと再び、赤崎が緑間の隣りに戻ってくる。緑間は確認するように聞いた。
「随分あっさりしてたように思うが…いいのか?もう」
「うん。これ以上は辛くなるから」
そっか、と短く返し、緑間は三人に向き直る。三日間衣食住を共にした、とても優しくてあたたかい人達に。
ここでの生活は、思ったよりもずっと楽しかった。
出来ることなら、赤崎が生きている内に来たかった。
緑間はそんなことを思って、振り払うように首を振る。ダメだダメだ。こういうことを言いたいんじゃない。
湿っぽいのはどうにも苦手だ。最後はやっぱり、笑顔で手を振りたいと思うから。
「それじゃあ、また!」
だから彼は最後まで笑って―気さくな挨拶と共に、藤黄家を後にした。
そして、三日ぶりの帰宅である。




