第四話 「出発」
チュンチュン。チュンチュン。
絶え間ない鳥のさえずりが、緑間の意識に溶け込んでいく。
だが、覚醒にはまだほんの少し足りない。緑間は目を瞑ったまま、まだ起きたくないと唸り声をあげる。あともう少しだけ、夢の狭間を行き来していたい。
ふと、あたたかい感触が頬に触れた。それは何度も緑間の顔を行ったり来たりしながら、ゆっくりと上方へと上がっていく。
どうやらその温もりは、緑間のとげとげしい茶髪が目的であったようで、ぽんぽんと頭が撫でられていることがわかった。優しくゆっくりと、労わるように髪が梳かれる。
とても気持ちが良い。
「…ん」
「あ、」
緑間はゆっくりと目を開ける。第三者から見ると、引かれかねない至近距離に赤崎の顔があった。どうやらというかなんというか、予想通り、先ほどから緑間の頭を撫で回していたのは赤崎であったようだ。一回目とは立場が逆だと、緑間は小さく笑った。
「?なんで笑うのさ」
「いーや、なんでも…はよ、静」
「ん、おはよう」
緑間はベッドから体を起こし、んーっと大きく伸びをした。そして朝の空気を全身に取り込む為に、カーテンを開けて窓を開放する。とても良い天気だ。快晴である。
緑間はすうっと息を吸い込み、大きく吐いた。
「―よし、」
そして、パンっと両頬を叩き、気合を入れ直した。
「はい」
旅路(?)の荷物を肩にかけ、身支度を整えて一階のリビングへ向かうと、何やらアルミホイルに包まれた温かいものを姉に手渡された。形といいこのアルミホイルといい、緑間の頭にはおにぎりが思い浮かんだ。
「朝ご飯、食べないで行くんだろうって思ったから作ったのよ。あまり形は良くないけどね」
確かにそのつもりだったので、それを見抜かれた緑間は目を丸くした。
そして受け取った、ほんの少し不恰好なおにぎりに緑間は目を向ける。どうやら全部バレていたようだ。姉の優しさが胸に沁みる。
こういう時、改めて愛されていることを実感する。
「サンキュー姉ちゃん」
美咲が困ったような笑みを浮かべて頷いた。
玄関まで見送ってもらい靴をはいたところで、緑間は彼女に優しく抱きとめられる。美咲の額が、そっと緑間の肩口に押し付けられた。
「姉ちゃん?」
「心配はしてないわ。信じているもの」
昔のあなたは、周りを心配させる天才だったけれど、と美咲が小さく笑った。それに対し、緑間は「昔のことだろ」と拗ねたように口を尖らせる。否定出来ないことが悔しかった。
美咲が静かに体を離す。
「いってらっしゃい、祭」
そう言って微笑んだ彼女は、緑間から目線をずらし赤崎と向かい合う。見る者によっては、彼女の目は悲しげに見えたかもしれない。
「この子のこと、よろしくね」
一瞬驚いたような顔をして、それでもなんとか頷いた赤崎のことを、緑間は何も言わずじっと見ていた。
(―よろしくね、なんて言ってくれるな)
そんな簡単に、俺のことを、任せるだなんて。
こいつがまた、俺を庇って死んだりしたらどうすんの。
「任せてください。必ず僕が、祭をここに帰しますから」
だが、そんな緑間の心中を察したのか、赤崎が躊躇いなくそう言った。不覚にも涙が出てしまいそうになったものだから、緑間はぶんぶんと首を横に振って美咲に背を向ける。
「そんじゃ、行ってくるな!姉ちゃん!」
八月二日の、午前九時二十五分のことであった。
***
ブブブブ、というバイブ音と聞きなれた着信音に目を覚ました青子は、「うーん」と唸りながら目をこすってスマホを操作する。メールを一件受信。差出人は見知った幼なじみである。
こんな朝早く(というにはおこがましい時間)に何用かと、青子は意識半分にメールを開く。そこにはたった一言、「いってくる」と文字が並んでいた。
「んん…?」
(いってくる?いってくるってどこに?どうしてそれを私に?)
しばらくの間青子はぼんやりと考えていたのだが、何度もそれを繰り返すうちに徐々に目が冴えていき―。
「え…っ」
彼女がその短い本文の意味を理解したのは、そのメールを受信して十分ほど経った頃だった。
「青子、怒ってるんじゃない?今頃」
交通手段は、電車かバスかで迷って結局電車を利用することにした。緑間自身、バスを好ましく思っていないことも理由の一つである。
電車の出発時刻は午前十時八分。これに乗り遅れてしまうと、次の電車まで小一時間待たなくてはならない。もっとも、彼の家から駅までの距離というのは、歩いて十五分程度のもので、特に間に合わないなどという問題は発生しないだろうが。
緑間は腕時計で時間を確認しながら、駅までの道をいつも通りの速さで歩く。そして、「はあ?」と先ほどの赤崎の言葉について怪訝な顔をした。
「なんで青子が怒んだよ」
「たった一言、しかもメールで済ませておいてよく言うよ。誰がどう見ても軽いじゃないか」
やれやれといった風に呆れ顔で赤崎は首を振られたが、緑間はメールの何が悪いんだとぶつぶつ文句を言う。仕方ないだろ、と腕を組んだ。
「あいつがそんなんで怒るか。そこまで小さい女じゃないだろ」
「だからそれは…」
と、赤崎が言いかけた矢先、緑間のスマホが鳴った。ちょっと待ったと赤崎に言って、ポケットからスマホを取り出す。ディスプレイを確認し、そこに映っていた名前を見て緑間の動きが一時停止した。赤崎が画面を覗き込んで、嫌味たっぷりの笑顔を浮かべる。この悪霊め。
「どうやら祭の予想に反して、随分小さい女の子だったらしいね」
「…うっせえよ」
とりあえず、通話ボタンを押して電話に出た。
『遅いわよ、バカ』
第一声がこれだ。確かに電話に出るのが若干遅れてしまったのは事実だが、たとえそうであったとしても、ここは普通「もしもし」や「おはよう」から始まるべきではないだろうか。それにも関わらず、“遅いわよ、バカ”。しかもバカ。
声のトーンから、彼女が若干怒っているということがなんとなく伝わってきて、緑間はとりあえず謝っておいた。
『たった一言、しかもそれをメール如きで済まそうだなんて、甘いんじゃないの?』
彼女―もとい青子は、赤崎と全く同じことを言ってきた。緑間はといえば、「あー」と決まり悪く言葉を濁している。
「…悪かったよ」
二度目の謝罪を口にした。我ながら、安い謝罪だとは思う。
『嫌』
そしてやはり、安い謝罪には安いなりに誠意が足りなかったのだろう。あっさりと一蹴されてしまい、緑間は溜息をついた。この女は、物分りが良いくせに時々こんな風に駄々をこねる。
「嫌ってお前なあ…」
じゃあどうしたら許してくれんの、と渋々緑間はそう聞いた。何故、メールで済ませたことをここまで非難されなければならないのか…むしろ連絡を入れたことに対して褒めてほしいくらいだった。
まあ、それを言ったらややこしいことになことはわかりきっていたので、緑間は敢えて口にはしなかったが。
何も言わない青子に、「おい?」と緑間は訊ねる。「じゃあ」と、どこか決心を固めたような意気込みの口調で、彼女が言った。
『帰ってきたら、一緒に遊園地に行きましょ。それでチャラにしてあげる』
「ゆ…遊園地ってお前、また随分突拍子のないことを…」
遊園地。そういえば最後に行ったのは高二の修学旅行の時だっただろうか。その前にも確か、中学時代の修学旅行で行ったことはあったが、思い返せば遊園地へ行くという機会は、今までその二回しかなかったような気がする。
『で、どうなのよ』
緑間は、にやりと笑った。
「俺とお前の二人だけで、っていう条件を飲むなら、行ってやってもいいけど?」
これはまあ、世間一般でいうところのデートというやつだった。少なくとも緑間は、そのつもりで彼女に提案している。
そしてそれは電話の向こうにいる青子も同じで、緑間の顔が若干赤みを帯びたのと同様、彼女の顔も真っ赤に染まっていたのだけれど。
『…言われなくても、初めからそのつもりよ』
「じゃ、決まりな」
電話をしつつも、緑間と赤崎は歩みを止めてはいない。そんなことをしていたら、電車の時間に間に合わなくなってしまう。
それからしばらく沈黙が続いた。ながら動作をあまり好まない緑間は、用件はそれだけかと言おうかと思ったが、結局思い留まって口を閉ざした。黙って青子の言葉を待つことにしたのだ。
緑間の中ではもう、彼女に対して言う言葉は決まっていた。帰って来た時に言う言葉も、次会った時に言う言葉も、その遊園地に行った時に言う言葉も、もう全て彼の中では決まっている。
だから後は、青子の言葉を待つだけだ。
『…気をつけて』
「おう」
『…あと、最後に一つだけ。必ず八月七日までには帰ってきて』
「あ?」
『いってらっしゃい』
最後に一つ、と言われて続いたそれに若干気を取られはしたが、それは一瞬のことで。青子の「いってらっしゃい」という言葉は、それなりの威力を伴って緑間の急所を抉った。
この時やはり、「いってくる」と本人に直接言いに行かなくてよかったと緑間は思った。
彼女に会っていたらきっと、決心が鈍っていただろうから。
「…ただいまはちゃんと言うから、今は電話で我慢してくれよ」
『え?』
緑間の小さな呟きは、どうやら彼女には届かなかったようだった。まあ、それもありだろうと緑間は思う。
おそらくこれは、彼女にとって聞く必要のない言葉だったのだ。ならばそれを繰り返す必要はない。
今はただ、この言葉を重ねるだけで。
「いってくる」
***
電話を切り、ふうと息をつくと青子は後ろから声をかけられた。
「よかったんですか、見送りに行かなくて」
「あら響、おはよう。もしかして起こしちゃった?」
いえ、そんなことは。と響が言った。確かに、今さっき起きたにしては些か目が冴えすぎているように見える。おそらく響は初めから起きていて、幼なじみとの会話は筒抜けだったんだろうと青子は推測した。
夏休みに入ってすぐ、青子も後輩達に混ざって赤崎の家に泊まりこむようになった。幸いまだ電気やガスは通っているので、当面は生活する上での問題はない。それに、泊まる期間もあと一週間とないのだ。八月七日で、全てが終わるはずなのだから。
赤崎の家はというと、今は割としっちゃかめっちゃかな状態で、幾重にも重なり合った布団がリビングの三分の一を占めている。そしてその三分の一を利用して、青子を含む四人は毎日雑魚寝状態であった。
初めは響と優も渋っていたが、その状態が何日も続くともうどうでもよくなったらしく、今では仲良く一緒の布団で寝ている。
この後景を見たらどう思うかなあ、と青子の頬が緩んだ。
隣りの部屋にはベッドは三つあったのだが、一つは赤崎のものであることに変わりないものの、もう二つはどうやら赤崎の両親が使っていたものらしく、どうしてもベッドで寝る気にはなれなかったのだ。
どうして未だにこんなベッドが残っているのだろう、と青子も不思議に思った。ベッドだけでなく、日用雑貨はほとんどそうで、どうやら赤崎はこの家を、両親がいなくなったあの日のままにしていたらしい。
ベッドが三つあるのも、つまりはそういうことなのだろう。ずっと一緒にいたというのに、青子はそれに今まで気づいていなかった。
―もしかしたら、ある日突然「ただいま」と帰ってくる望みを、赤崎は捨て切れていなかったのかもしれない。
人を恨み続けることは、難しいから。
「青子さん?」
響が顔を覗き込んでくる。相変わらず可愛い顔をしていると思っていると、その可愛い顔には似つかわしくないものが窺えて、青子は目を見張った。響の額に手を伸ばし、刺激を与えないようにそれに触れる。
「おでこ、切れてるじゃない。血はもう固まっているみたいだけど」
よく見ると、顔にはまるで殴られたかのような痣も出来ていて、痛々しくも紫色に腫れている。目も充血していて、響はどこか疲れているような顔をしていた。
青子は、響が昨晩少しの間だけ家を出ていたことを知っている。その前に、自分もよく知っている人物と電話のやり取りがあったことも、自分達を起こさないようにと最善の注意を払いながら家の鍵をかけたことも、全て知っていた。
帰って来た時間はそれほど遅くはなかったものの、「痛てて」と言いながら再び寝床についた響を、青子は怪訝に思ってはいたのだが―まさか、ケンカでもしてきたのだろうか。
そうなると当然、顔だけでなく体中に怪我を負っている可能性もあるだろう。青子は心配に思ったが、それを確認するのは自分の役目ではないと判断し、あえて触れないでおくことにした。
そっと響の頬に触れる。微かに涙の跡が残っていて、青子はきゅうっと目を細めた。そして、「はあ」と大げさに溜息をつく。
「全く、あんまり生傷を増やすんじゃないの。せっかくの可愛い顔が台無しじゃない」
「あはは…」
青子は布団から出て、救急箱を用意する。そういえば、救急箱の場所が木棚の上にあるところも、昔から変わっていない。
一応中を確かめたが、湿布にテープ、絆創膏に消毒液、ガーゼなど、今必要なものは全て入っていた。使われた形跡はあまりない。
ぱたりとふたを閉め、再び響の元へ歩み寄る。
「あんまり心配かけるんじゃないの。私達は本当に、響のことを大事に思ってるんだから」
「容赦なくぶっておいてそれ言いますか」
「それはそれ、これはこれ」
言いながら、青子はちらりと横目で、狸寝入りを決め込んでいる優を見やった。
そう、実のところ優は既に起きている。響の方はどうやら気づいていないようだが、青子が電話を切った頃にはもう眠りから醒めていたのだ。
何故起きてこないのか―響の体中にあるであろうその怪我を、一刻も早く手当てしたいと思っているのは、優だろうに。
まあ、大方起きるタイミングを逃したのと、青子に気を遣っているというのが理由だろうが。本当に、変なところで義理堅いというか律儀というか。そういう彼の性分を、決して青子は嫌ってはいなかった。
「…わかってますよ」
しばらく沈黙を保っていた響が口を開いた。その言葉が、先ほどの自分の言葉に対する返事だと気づくのに、約十秒。
その目はとても真剣で、まっすぐで。一瞬緑間を連想したくらい。
「僕の体は僕のものだけど、僕だけのものじゃない…そう、教えてもらいましたから」
にっこりと屈託なく響が笑った。
(どうしてだろう)
響の言葉は、何故だかとても胸に残る。青子にとってそういう相手というのは、今までずっと二人しかいなかったのに、だ。
(…不思議な子)
まるで、二人の幼なじみを見ているようだった。顔も声も性格も、何もかもが違うというのに、どうしてか響が、赤崎と緑間に被って見えることがあった。
周りを寄せ付けないように自分から線を引くくせに、その線を踏み越えて本当の自分に手を差し伸べてくれる誰かを、いつも寂しそうに待っていた赤崎。誰かに縋ることも、頼るどころか弱みさえ全て一人で抱え込んで生きてきて、他人を上手く信じることができなくなった静。
周りと自分との間に一切の距離を作らず、いつもまっすぐにぶつかっていた反面、同時に本当に心の底から信頼している人しか立ち入ることの出来ない領域も、自分の中に作っていた緑間。やっぱり自分から助けを求めたりはしないけれど、彼には誰かに手を差し伸べることが出来る勇気があった。きっと、その手でたくさんの人を、知らず知らずの内に救ってきたに違いない、決して他人を裏切らない祭。
足りないものを、互いに補ってきた二人。
どうして響が、そんな二人と被って見えるのか。青子には、この時はまだわからなかった。わからなくてもいいと、そう思った。
「生意気。じゃあ怪我しないでよ、もう」
くすくすと青子は笑った。それはちょっと約束し兼ねます、と困ったような顔で響も笑う。
「救急箱はここに置いておくわ。好きなように使って構わないと思う。だからちゃんと消毒して、湿布貼ってあげるのよ、優」
え、とその言葉に響が目を見開く。ぎくりと、優の動揺を表すかのように彼のかぶっている布団が動いた。どうやら本人も、バレていたとは思っていなかったらしい。
本当は黙っておくつもりだったが、気が変わって無性に優に意地悪をしたくなったので、青子は狸寝入りを決め込んでいる後輩の布団をばさりと剥いでやった。案の定、優は起きている。
「私は寝るわ。お昼になったら起こしてちょうだい。それじゃあお休み、二人とも」
「あ…」
響が何かを言いかけたが、構わず青子は布団をかぶり直した。そして、少しでも早く就寝出来るように、ぎゅっと目を瞑った。
すぐ傍でカチャカチャと金属がぶつかる音が聞こえ、おそらく優が響の手当てを始めたのだろうと青子は判断する。ここからはもう、自分が立ち入る領域ではない。さっさと寝てしまおう。
「…聞きそびれちゃったな」
白濁した意識の中で、最後に青子が聞いたのは響のそんな呟きだった。
『よかったんですか、見送りに行かなくて』
―行けばきっと後悔するだろう。後悔していたに違いない。
(だってやっぱり、行ってなんてほしくない)
それを口に出して、行かないでと引き止める。それだけは嫌だった。道を塞ぐことはしたくなかった。
けれどその反面、大切な幼なじみ二人が傷つくところは見たくない、そんなのは見過ごせないという気持ちも確かにあったのだ。お節介かもしれないけれど。
だが、傷つくとわかっていてそれでも。二人はそれを望んでいる。
だからどうしても、青子は見送りに行けなかった。
『私は…一緒には行けないのね』
あんなことを言っておきながら、結局一緒に行く勇気などなかったのだ。待っていてくれと言われた時、内心ほんの少しだけほっとしていた。聡い彼はきっとそれに気づいていたのだろう。だから、一緒に来いとは言わなかったのかもしれない。
見送りに行かなかった理由、それは。
笑顔で手を触れる自信がなかったから。
(静…祭、)
ごめん。それと、頑張って。
そうして彼女は眠りについた。
「聞きそびれたって、何を」
響の小さな呟きを拾った優が、青子の置いていった救急箱をありがたく漁りながら仏頂面でそう言った。ご機嫌ななめな様子の優を見て、響は苦笑いを漏らす。
青子に言われなければ、おそらく優が起きていたことには気づいていなかっただろう。彼が目を覚ましていたことに、響は純粋に驚いていた。いつもの自分なら気づいていたに違いない。だが、現に響は気づけなかった。それはおそらく、
(気を…緩ませすぎているのかな、やっぱり)
響は、新たに見つけた小さな変化を微笑ましく思いながら、なんでもないと首を振る。
すると、てきぱきと救急箱から中身を取り出していた優の手が、ぴたりと止まった。
一瞬のことだった。
そう、「壊す双子」などと呼ばれていた響が、全くといっていいほど反応できなかったくらいには。
突然優の手が伸びてきたと思ったら、そのまま勢いよく響は床に組み敷かれた。
まあ、床といっても敷布団がひかれている場所だったので、それほど大きな衝撃は受けなかったのだが。おそらくそれは、意識的にしろ無意識にしろ、彼の優しさだったのだろう。
だが、そんなささやかな優しさとは対照的な、鋭く上から睨みつけてくる優に、響は驚いていた。
「この期に及んで、まだ俺に隠し事か」
怒っている―というより、責めているという表現の方が正しい双眼に、響は息を呑む。
その物言いから察するに、どうやら彼も響が昨晩家を出たことに気づいているようだった。心配をかけないようにと最善の注意を払って家を出たというのに、これではまるで逆効果ではないか。
「俺は…お前らに、信頼されているんだと思ってた。先輩達の言う特別な繋がりがあるんだと…馬鹿みたいだと笑われてもいい。本気でそう思ってたんだ。でも、」
お前は昨日、何も言わずに一人で行った。優はそう言う。それは確かにその通りだった。
たとえその裏側にどんな理由があったとしても、それは間違いなく弁解の余地もない事実である。だから響は、言い訳はしない。
「どうして一人で行った?」
「…それは多分僕にしか出来ないことで、僕ができる唯一のことだったから」
「違う、そういうことを言ってるんじゃない」
優は首を横に振った。
「なんで一言も、俺や琴乃に相談していかなかったのかと聞いてる」
「それは…」
おそらく緑間がそれを望まないだろうと思ったからだ。彼は自分の弱さや迷いを察せられること、悟られることを極端に嫌っている。
それに緑間の“それ”を話してしまえば、それに同調して優や琴乃―何より青子の方が、赤崎を現世に留めたいと思ってしまうおそれがあった。響はそれをしたくなかったのだ。
これ以上赤崎を、居心地の良い鎖で縛ってしまうことに抵抗があったし、そうなれば本格的に赤崎は地縛霊となって、緑間の命さえ危うくなってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
これ以上失いたくはない。
(僕は、今生きている人を選ぶ)
その為なら。
「お前は、いつでもそうだな」
優はどこか遠い目をしていた。近くにいるのに、手が届かない。そんな距離感を響は感じた。
「大事なことは何も言わない。自分一人で抱え込む。俺はそんなに頼りないか?」
いつもは眩しく思ってしまうほどまっすぐで強い目をしているくせに、今の優のそう顔はとても頼りなく揺れていた。長い付き合いだが、そんなことを言われたのは初めてである。
「優…」
「響、俺はな」
楽しいことも
悲しいことも
嬉しいことも
苦しいことも
全て分かち合うことの出来る―。
「お前の親友になりたかったよ」
響は目を見開いた。
濁りのないまっすぐな言葉が、渇いた心に沁みこんでくる。
(お前は、いつでもそうだね)
いつもまっすぐ、遠回りも回り道もしないで一直線に向かってくる。僕なんかと違って、回りくどいことは一切しない。お前はいつでもまっすぐだ。僕の隣りにいることが、相応しくないくらい。
ぽた、と何かが響の頬に降ってきた。何かと言うのは野暮な話だが、見上げた優の目には、予想通り涙が溜まっている。
(…ああ、人って)
こんなに綺麗に泣けるんだ。
「泣くなよバカ。綺麗だけど」
「泣いてない。それに俺は男だ」
「でも、綺麗だよ。多分僕は、優の泣き顔がこの世で一番綺麗だと思う」
「…嬉しくない。それにこの世で一番とか、お前大袈裟すぎだ」
「大袈裟なんかじゃない。実際綺麗だし、なんか感動した。そう言われるの、嫌いか?」
「…嫌いだ。姉さん達を思い出す」
「怒った?」
「怒ってる」
「ごめん」
「……」
しばらく沈黙が続いた。先ほどとは打って変わった、穏やかな静寂だ。
やがて優は諦めたように溜息をつき、響の上から退いた。そして何も言わず、黙って手を差し出してくる。怒りはどうにか収まったようで、どうやら手を貸してもらえるようだった。
響も何も言わず、その手を取った。
「…まずはその、目立つ額から手当てする。異論は」
「手当て、してくれるんだ」
少しだけ驚いていた。てっきり放置されるのだとばかり思っていたからだ。そう言うと、ふん、と優はそっぽを向いた。
「お前の怪我の面倒を見るのは、俺の仕事だ」
「はは、違いない。世話をかけるね」
「何を今更。それに、お前ならいい」
再び投下されたまっすぐな言葉に、響はきゅうっと目を細めた。
“親友になりたかったよ”
―まだ少し、今の僕には言葉にするのが難しい。
(でもいつか、)
胸を張って「親友だろ」と言えるようになりたいと、確かにこの時そう思った。
「痛たっ…す、優…もうちょっと優しくしてくれても、」
「ああん?」
「…なんでもないです」




