第三話 「未練の在り方」
ちょっと出てきてもらえませんか、話と…渡したいものがあるんです。出来れば静さんにはバレないように。
そう言われて向かった先は、緑間の家から少しばかり離れた、小さな丘と噴水がある広場だ。昼間なんかは子供たちの遊び場になっているのでそれなりに賑わってはいるものの、如何せん今は夜中であるのでそこには静けさしかなかった。
仲良し広場。
ここは―緑間と赤崎が初めて白金ツインズと出会った場所であり、そしてまだ、「壊す双子」の名を、捨てていない頃の彼らと出会った場所だった。
赤崎を起こさないよう、そろりそろりと家を抜け出した緑間は自転車に乗り、その広場へと着いたのは零時を回った頃だった。響はもう既に着いていて、緑間の姿を発見すると、困ったような笑みを浮かべて手を振った。
緑間もそれに応えるように手を振り返し、自転車を止めて広場の中へと入っていく。
「すみません。ある程度時間が遅くないと、静さんが起きているかも、と思って…」
「その様子だと、やっぱ気づいてるみたいだな。あいつに意識がない時は、俺が単独行動できるって」
「…僕には、視えますからね」
いつ気づいたのかとは聞かなかった。それに気がつく時間が響になかったことは明白だったが、緑間には一つだけ心当たりがあったからだ。
自分しか気づいていないと思って高を括っていたが、どうやらそれは間違いだったようである。緑間は自嘲気味に笑った。
久しぶりに会った響はどこか纏う空気が変わっていて、憑き物が落ちたみたいにすっきりした顔をしていた。
最後に言葉を交わしたのは、それこそ夏休みに入る二~三週間前くらいのはずだったが、その間に響の中で何か契機があったのかもしれない。なんというか、距離を置く為に引いていた線が、なくなっているように緑間は感じた。
それにどこか、開き直ったような…何かに吹っ切れたかのような、清々しい顔をしている。
「…静に聞かれちゃまずいことなのか?」
「まずいというか…あまり好ましく思わないと思います。きっと静さんは僕らに知られたくはなかっただろうし、見たくないだろうし、聞きたくない話だと思いますから」
どうにもこうにも、緑間はここ最近はずっと、結論に至るまでの過程で遠回りをする言葉のキャッチボールしかしていないような気がした。
どうして自分の周りには、遠まわしにあまり意味を成さないオブラートで、言葉を包む人間が多いのだろう。
「…ま、いいわ。そんで、あいつが好ましく思わない用件っていうのは、一体なんだ?」
「なんだかすごく嫌味に聞こえるんですけど…」
と言いつつ、響は手に持っていた本のようなものを緑間に差し出す。広場にある電灯はチカチカしていて、尚且つ辺りが薄暗いせいか、初めは本当に本にしか見えなかった。
だが、よく目を凝らしてその本の表紙を見てみると、そこには英単語が五文字横並びになっていた。明朝体である。
「ダイ…アリー?日記か?」
「ええ、まあ。そういうことになりますね」
手渡されたのは、やけに日焼けしているボロボロの日記帳だった。どこかで見たことがあるような気がして、緑間は首を捻る。
「日記、ねえ…こんなん渡されても困るんだけど。つうかこれ誰の…」
「聞きたいですか、誰のものか」
響の声のトーンが一気に下がる。
含みのあるその言葉に首を傾げ、もう一度しげしげと日記帳を見やり―。
緑間は目を見開いた。
「お前…っあの家を探ったのか…!」
反射的に手が伸びる。緑間はぐいっと胸倉を引っつかみ、息のかかる距離で響のことを睨みつけた。
“絶対に開けるな!”
それを書いたのは、他の誰でもない、緑間と青子だ。
「これはあいつの…静のモンだろ…!」
「だったらなんです?」
「お前…っ」
響が、胸倉を掴む緑間の手首を強く握った。それは、離せという威嚇だった。
響は男子にしては可愛い顔をしているが、これで握力は軽く五十kgを超えている。ぎりぎりとその握力で手首を締め付けられ、緑間は眉間にしわを寄せた。血液がせき止められ、緑間の手首は途端に熱と色を失っていく。
(こいつ…!)
目が本気だった。
これは響の目ではない―二年前初めて会った、「壊す双子」精神的破壊担当、「二重破壊」としての響の目だった。久しぶりに見る、好戦的で純粋にケンカを楽しんでいた、裏の響。
二年前とは僅かに違っているように見えるが、それでもやはり圧倒されてしまいそうなこのオーラは変わっていない。
などと、悠長に構えている暇は、緑間にはなかった。
響の右脚が持ち上がり、勢いよく緑間のわき腹めがけて蹴りこまれる。
「くそ…っ」
緑間は瞬時に避けられないことを判断して、咄嗟に左腕でその蹴りを相殺する。完全に勢いを殺しきれず、緑間は元いた場所から若干ずらされた。
じんじんと緩やかな痛みが左腕に走ったが、構わずその右脚を押し返し、響の握力を振りほどいて間合いを取る。
「響てめえ…いきなり何しやがる」
「いきなり?何言ってんですか。こういうのは不意打ちが基本でしょ、祭さん」
ちょっと久しぶりにやりません?ケンカ―響は、思わずぞっとしてしまうくらい綺麗な笑顔を浮かべてそう言った。
一方で緑間の体は、本人の想像以上に疲弊していた。今日は一度に色々なことがありすぎたのだ。そしてその全てにおいて、緑間はひどく混乱している。
だが―手は抜かない性分だ。そしてまた、逃げないことも彼の性分なのである。
「いいぜ、来いよ」
―それでも最近は、逃げ出したくなってしまうような現実ばかりだけれど。
響が少しだけ驚いたような顔をした。冗談のつもりで言ったのか、まるで緑間がそう答えるとは予想していなかったかのように。
だがそれはほんの一瞬で、刹那の間緑間の前に現れた表の響は、すぐに姿を消した。
そういえば、こんな風に響と一対一でやり合うのは初めてのことかもしれない、と緑間はぼんやりとそう思う。あの日は琴乃と、そして赤崎がいた。
緑間は、ダメだダメだと首を振る。
“成仏なんて、――――――”
(思い出すな。今これは必要ない)
必要なのは、意識を響に集中させることだ。生半可な姿勢では、掠り傷一つ与えることのできないような相手である。
ザーっと一陣の風が木の葉をさらって、木の枝を揺らした。雲に隠れていた月が姿を見せる。
二人は同時に動いた。
先手を取ったのは響の方だ。見かけよりもずっと重たい拳が、緑間の顔面に向かって放たれる。緑間はそれを首だけで避けるが、瞬時にもう片方の拳が飛んできて、反射的にひゅっと腰を落とした。響の拳は空を切り、今度は緑間がしかける番である。
空振りとなった左腕を掴み、響の動きを封じて頭突きをかます。
「痛たいっすよ、せーんぱい!」
にやりと笑った響も、負けじと緑間に頭突きをかました。その頭突きに思わず目を閉じた緑間の、一瞬ともいえる隙を見逃さずに、響が緑間の右腕を蹴り上げて掴まれていた自分の手を解放する。額は割れ、互いにたらーっと血が流れ出ている。
風はあれっきり吹いてはいない。ケンカをするには最高の天候状況と言えた。これで明るければ、尚良いのだけれど。
響がぐいっと額から流れ出る血を拭った。そんな動作ができるくらい余裕のある響とは対照的に、緑間は瞬きをすることさえ億劫に感じていた。一瞬たりとも彼から目を離さないよう、慎重に距離を取る。
緑間は自分から先攻を取るつもりはないので、しばらく沈黙が続いた。響が嫌味っぽく笑って「甘いですね」と言う。
「そんな悠長に構えてると、負けますよ?」
「は…っ俺に負けたお前には言われたかねえよ」
中学時代、凛々垣中最凶の双子「壊す双子」として名を馳せていた響と琴乃は、赤崎と緑間に出会い、その名を捨てた。誰彼構わずケンカを売ることはしなくなったし、売られたケンカも器用に流せるようになった。
暴力を振るうことも、感情に身を任せて暴走することもなくなり、彼らは「壊す双子」であった頃の全てを捨て、普通になることを決めたのだ。
それでも時々。時々とても苦しそうな顔をしている響を見かけて、緑間はよく背中をさすったり頭を撫でたりしていた。
響は時に、喉が潰れかねないほどの大声で叫ぶことも、我慢ならなくて暴れ出すこともあったけれど、そんな響を止めるのは決まって緑間と赤崎で、どちらかといえば緑間の方が割合的には多かった。
琴乃には何故かそういった衝動じみたものがないようだったが、響のそれは、簡単に言えば蓄積されたストレスの容量オーバーを意味していたのである。
響には、二つの人格がある。と言っても過言ではない。普段の響を表とするなら、裏の響は「壊す双子」精神的破壊担当「二重破壊」であり、今は表の響が、裏の響を自分の中に封じ込めるといった形で落ち着いている。だから今は日常生活において、裏の響が姿を現すことはほとんどない。
だが、ほとんどないだけであって、実際には姿を現すこともあったのだ。響のストレスは、主に裏の響を封じ込める際に発生するもので、それが限界に達した時、先ほど上げたように、響は少なからずそのストレスを発散する。響は緑間達と出会ってからの二年間、ずっとそれを繰り返してきた。
たとえどれだけ押さえつけようと、同じ自分自身を永遠に日の当たらない場所へ追いやることは難しい。いつだって蓋が開くきっかけは、すぐ傍にあるのだから。
それはたとえば、
(俺みたいに)
「覚えてます?祭さん。あの時も確か、ここでしたよね」
「ああ、思い出すぜ。初めてお前らとケンカした時のことを、よ!」
二人は互いに拳を交えながら、その最中でとても懐かしそうに目を細める。
あの時―というのは、あの日。つまり、赤崎と緑間が白金ツインズと出会った日のことである。あの日も確か今日のようによく晴れていて、天候に恵まれていた。そう、雲ひとつない快晴。清々しいほどの綺麗な青空を、今でも緑間は覚えている。
その日「壊す双子」は、ちょうどこの広場で他校の不良とケンカをしていた。そのケンカは見るからに双子の方が優勢で、彼らはあと一歩のところまで相手を追い詰めていた。
後から聞いた話によると、その時彼らは不良達に囲まれていた一人の少女を助けようとして、ケンカになったらしかった。
『おいこら。お前らここがどこだかわかってんのか?仲良し広場だぞ仲良し広場。わかったら仲良くしろよアホ。間違ってもケンカなんてしてんじゃねえ』
そして、ちょうどその時たまたま現場に居合わせてしまった緑間と赤崎が、二人がトドメをさそうとした時にそう言って、あろうことか「壊す双子」にケンカを売ったのである。
もちろん緑間達は、ケンカを売ったつもりなどなかったのだが、彼ら双子は確かにそう捉えたのだ。そして更に言えば緑間と赤崎は、その双子がかの有名な「壊す双子」であることに気づいていなかった。
それでも二人は、最凶の双子と名高い彼らを相手に白星を挙げたのである。
―あれからもう、二年が経った。
「確かに祭さんの言う通り、僕らが負けたのは事実ですよ。弁解はしません。あなた達は強かった。認めますよ」
「は、そりゃどーも!」
緑間は、ヒュンっと拳を突き出す。渾身とも言える力を込めて放たれた拳は、だがしかし響の手によって器用に相殺され、ぐっと握りこまれてしまう。
右腕の自由を奪われた緑間は表情をしかめ、強い力で握りこまれる拳を解放しようと抵抗を試みたが、響の握力を前に成す術もなく舌打ちをした。もう片方の拳を響の注意をそらすために繰り出したが、これもまたあっさりと避けられる。
「でもね、祭さん。あの時とは決定的に違うこと、一つだけあるでしょ」
響がぎりぎりと緑間の拳をねじり上げる。後輩の前だからと意地になって声は堪えたが、表情だけは誤魔化せなかった。かなり痛い。
そんな緑間を見てか、響が心底楽しそうに、愉快そうに口元を歪めている。
「だってもう、静さんは――じゃないですか」
ドクン、と心臓が脈打つ。
“成仏なんて、――――――”
思い出してはならないと、あれほど自分に強く言い聞かせたというのに。
その言葉が緑間を揺さぶった。
(もう迷わないって、決めたはずだろ…!)
そして、必ずあいつを成仏させるとも。
静は生きていない―静は、死んでいる。そんなの、今更お前に言われなくたってわかってんだよ。
「くっそ…離せ、響!」
「はは、しょうもないこと言うんですね。離せって言われて離してあげられるほど、僕はお人よしじゃあないですよ」
「は…っお前、意外と腹黒いとこ、あるもんなあ…!」
緑間は、痛みに顔を歪めつつもにやりと笑い、次の瞬間ものすごいスピードで自分の腕をねじ上げる響の腕を蹴り上げた。そのまま宙で一回転し、ふわりと着地する。
響の方は蹴られた腕が痛むのか、ゆっくりと手で撫でている。
「まだそんな力が残っていたなんて、驚きましたよ」
そう言いつつも、まだ大分余力を残している様子の響が、緑間はひどく恨めしかった。少しは焦ったような顔しやがれ、と可愛げのない後輩を一瞥する。
緑間の方はもうそろそろ限界だった。肉体的にも、精神的にも。
そして何より、響が言いかけたあの言葉は。緑間の心を蝕むのに十分事足りた。彼自身もそれをよくわかっている。
負けたくはない。だが、抵抗出来るだけの力も気力も、緑間にはほとんど残ってはいなかった。あの蹴りが、緑間に残されていた最後の力だったのである。
(後輩に負けるとか、世話ねえな)
幸いなのは、赤崎がこの場にいなかったことだ。こんな姿、絶対にあの幼なじみだけには見られたくないと本気で思う。
「…ほら、やっぱり。あの人がいないことは致命的ですよ」
そんな緑間の様子を見兼ねて響が言った。まるで、初めから用意されていたシナリオを読んでいるかのように。
「一つ、言っておきますよ。祭さん」
響が素早く間合いを詰めて、緑間に足払いをかける。抵抗する力が残っていなかった緑間の体はあっけなく揺らぎ、地面へと倒れこんだ。
「俺はあんたに負けたんじゃねえ」
背中に走った衝撃に、緑間は一瞬目を瞑った。起き上がろうと腕に力を入れたが、それは容易く響の手によって押し戻される。緑間は、再び地面と背中をくっつける破目となった。
響に乗っかられ、ますます身動きが取れなくなる。
「俺は、あんたら二人に負けたんだ」
それは確かに、その通りであった。
「そりゃあ…そうだな。確かに、そうかもしんねえ…いや、かも、じゃねえか」
緑間はまっすぐに響を見上げる。いつもは見下ろすばかりだから、それが少し新鮮だった。居心地悪そうに響が目を反らす。
「否定しないんですね」
否定しないんですね、か。
「否定しようがないだろ。それは紛れもなく、事実じゃねえか」
そう、今更否定しようだなんて思わない。赤崎がいた頃でも、そしていなくなった後でも、それは確かに緑間にとって事実だった。
いつだって隣りには赤崎がいた。赤崎がいたから、緑間はどんな時も諦めず、そして何事にも臆することなく立ち向かうことができたのだ。全て赤崎がいたから。
響達に勝つことができたのだってそう。本当に、響の言うとおりだった。
(俺が響に勝ったんじゃない)
静がいたから勝てたんだ。
「俺は…一人じゃなんにも出来ねえ。あいつがいないと、なんにも出来ねえんだよ」
俺の負けだ、と情けなく緑間は笑う。傍から見ればそれは、どうしたってこの状況下で浮かべる笑みではなかっただろう。
響は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目を細め、端整なその顔をくしゃくしゃに歪めた。その目には、悲しみが潜んでいるように見える。
「それがあなたの答えですか」
「あ?…答え?」
「本当は、成仏なんてしてほしくないんでしょう、静さんに」
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
(俺と、同じ…)
どうして、どいつもこいつも揃ってそんなことを言いやがるのか。実に断定的な、今一番俺が聞きたくないと望んでやまないその言葉を、どうして。
その問いかけに対する答えが、初めから解答用紙に記されていたことは知っていた。だが、どうしても、自分はその解答用紙に書かれた答えを見ることが出来ないでいる。
「揃いも揃って、なんだってそんなこと言うんだよ。関係ないだろ…なあ、響…関係ないんじゃ、ないのかよ」
声が震えた。柄にもなく泣きそうで、そんな顔を後輩に晒すことはプライドが許さなかったから、緑間は自分の腕で顔を覆った。
どうしてこう、揃いも揃って、人の急所を抉ってくるのか。
「このままじゃ、結局やっぱり、静さんも祭さんも前に進めないから」
頭上から降ってきた響の声は、緑間の声とは段違いに泣いていた。そうすると自分だけ顔を隠しているのが馬鹿らしくなって、緑間は何秒と立たずに腕を退ける。
見上げた響は今にも泣き出しそうな顔をしていて、目が真っ赤に充血していた。
目を見ればわかる。―こいつは響だ。
「ひび、き…」
「このままじゃ、いつまで経っても静さんは成仏出来ないんですよ…僕らのせいで」
「――は、」
間抜けな声が口から飛び出す。成仏できない?静が?どうして?
(俺達のせいで?)
「なんだって…?そりゃ一体、どういう」
「もうとっくに気づいているでしょ、祭さん。あなたは実に聡い人だ」
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
そう、本当は。
それを言われた時に、薄々気づいてはいた。
(ああ、そうだよ)
本当は、成仏なんてしてほしくない。幽霊のままでいいから、一緒にいたかった。もっと、ずっと、ずっと―一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に怒って、それから。
俺はただ、一緒に生きたかったんだ。
「僕、静さんと祭さんを見ていて思ったんです」
ぽた、と緑間の頬に水滴が降ってきた。勿論それは雨などではない。今日は一日中快晴だった。ならばこの、頬に落ちてきた水のようなものは一体なんだろう。
響の涙だった。
そしてどうしてか、つうっと緑間の目尻からも涙が一筋流れた。
「《未練》って、死んだその人じゃなくて、生きている人が持っているものなんじゃないかって」
―そう、きっと、本当に未練があったのは、静じゃなくて俺の方だった。
響はおそらく、そのことを遠回しに伝えようとしてくれていたのだろう。他人に干渉することを好まない彼が、不器用なりにまっすぐ。
おそらく響は、赤崎を失った緑間の悲しみを一番理解している。もちろんそれは、緑間の憶測でしかないけれど。
響にはたった一人の肉親とも言える、血を分けた双子の妹がいる。生まれる前からずっと一緒だった、響のことを世界中で誰よりも愛してくれる、彼にとって何よりも代えがたい大切な存在だ。そしておそらく琴乃も、響のことをそう思っている。
緑間も赤崎のことをそう思っていた。生まれる前から一緒だったわけではないし、ましてそういった、むず痒くなるような愛を注いでくれたわけではないけれど―緑間にとって大切な存在であったことに変わりはない。それはきっと、青子よりも。もっとも、赤崎がどう思っていたのかはわからないが。
そして緑間は赤崎を失った。緑間にとって大切な存在であった赤崎は、緑間を生かす為になくなった。それは緑間にとって、耐え難いほどの痛みを伴った。
たとえばもしも。
それが赤崎と緑間ではなく、響と琴乃であったなら。
もしも赤崎が琴乃で、緑間が響であったなら。もしもあの日、琴乃が響を庇って命を落としていたら。響が残されていたとしたら。
響もおそらく迷うだろう。どうしてあの時気づけなかったのか、やっぱり一緒に帰っていればよかったんだと後悔するだろう。琴乃が死んでしまったのは自分のせいだと、嘆くだろう。
後を追おうとして、結局死に切れなくて、どうすればいいかわからなくなって、きっと迷子になってしまう。そうして突き当たってしまうのだ、今緑間が直面している壁と、全く同じものに。
“成仏なんて、してほしくないんでしょ?”
成仏なんてしてほしくないに決まっている。響にとって琴乃は何よりも、自分の命よりも大切な存在であったのだから。
まして響は、緑間同様霊が視える。だったら尚更、たとえ霊であっても共に在りたいと―そう願ってしまってもおかしくはない。
だから、緑間と響は同じなのだ。少なくとも緑間はそう思う。
何にも代えがたい大切な存在がいるからこそ、その存在を失ってしまった時の悲しみを、目を背けたくなってしまうほどの現実も、その人がいないという虚無感と喪失感を、一緒にいたかったと嘆く未練も。響は自分に置き換えて、理解していたはずだ。
だからこそ、今緑間が見上げる相手は、響以外ありえなかった。
「僕達がいます」
響が、か細い声でそう言った。
響は傍から見てもわかるほど緑間に懐いていたし、尊敬もしていた。だが、それと同時に、赤崎のことも尊敬していたのだ。どちらも同じだけ。
天秤にかけては釣り合うほど、どちらのことも尊敬していた。当たり前だ、彼は二人に負けたのだから。
「あなたは一人じゃない。祭さんを大切に思う人はたくさんいます。たくさんいるんです。青子さんも、優も、琴乃も…僕だって」
響には、緑間と同じように“人ならざるもの”を視る力がある。それはつまり、緑間に憑いている赤崎の姿が視えているというわけだ。そしていち早くそれに気がついた響は、平行を保ち続けていたその天秤を、傾けることに決めたのだろう。
「だからお願いです」
(ああ、そっか。気づいてたんだな、響)
姉ちゃんですら気づかなかったそれに。お前は気づいて―気づいて、くれたのか。
お前はそれを確かめる為に、俺にケンカを売ってきたんだな。ったく、聡いのはお前の方じゃねえか。
(お前は、つけたくもない優先順位をつけてまで、俺に伝えに来てくれたんだな)
―死んだ静のことも、生きてる俺のことも、両方助けるために。
そっと響に手を伸ばし、緑間は頬を伝うその涙を拭ってやった。ふわりと微笑むと、響は目にいっぱいの涙を溜めてぎゅっと緑間の手を握った。
「お願いだから、祭さんまで…いなくならないで下さい」
いなくならないで下さい。響が言ったその言葉の意味も、今ならよくわかる。
(いや、違うか)
本当は、あいつと再会したあの日から、俺はずっとわかっていたんだ。
もしもこのまま静がこっちに留まり続け、俺の気持ちが変わらなければ。
(俺は…俺も、こっちにはいられなくなる)
これが、精神世界でもう一人の俺が言わなかった忠告の正体だ。
もしもこのままの状態が長引けば、遅かれ早かれ俺が死ぬっていう、忠告だった。
その理由も、そうならない為の方法も、俺はちゃんと知っている。そして響の“いなくならないで”は、俺のそれを知っているからこそ、静を成仏させたくないという気持ちを捨て、俺の未練を断ち、俺が死なないように静を成仏させて解放してくれ―と、そういう意味だった。
俺の命を助ける為に。
そして、自分の意思とは関係なしにこっちに縛られてしまった静を、成仏という手段で助ける為に。
これが俺と静の両方を助ける為の方法で、それは同時に、俺と静の永遠の訣別を意味している。
(本当は)
本当はあの日―静と再会するほんの少し前、ちょうど空が泣き始めた頃。
俺は死ぬつもりだった。
何もかも忘れたくて、こんな空しい世界から消え去りたいとそう思った。
でも、結局死ねなかった。俺は今こうして生きている。
それは静に生かされたから―じゃない。
『おはよう、祭!』
『うわっ。やめてくださいよ、祭さん!』
『まつり先輩!構ってください!』
『あなたは本当に馬鹿ですか…祭先輩』
―こいつ等の顔が、頭を過ぎったからだ。
緑間の目に、再びじわりと涙が浮かぶ。
一瞬でも迷ってしまった。青子に、響に、琴乃に、優に、もう会えなくなってしまうのだと、一瞬でも思ってしまったから。そしてその、ほんの一瞬の迷いと躊躇いが、彼にその機会を永遠に失わせてしまった。
だからこれは、言わば俺が死ぬことの出来る、唯一最後の手段でもあった。
(このままの状態を保てば、俺は)
「静さんがいなくなって、祭さんまでいなくなったら…僕は…僕、は」
緑間は優しく、宥めるように響の頭を撫でる。逆の立場なら、おそらく緑間の方が響にこう言っていたのだろう。お前までいなくなったら、と。
「…泣くなよ」
「祭さんだって、泣いてるじゃないですか」
言われなくとも、頬を伝う生温かい何かの存在に、緑間は気づいていた。それでも彼は、顔をくしゃくしゃに歪ませている響とは対照的に、いつものように笑うのだった。
「知ってるよ」
ありがとな、響。こんな俺の為に泣いてくれて。
降り注ぐ月明かりは、冷たくもなければ温かくもなく、かといって怖くもなければ優しくもなく。
ただただ、二人を見守る静寂となった。




