七十話 遠野
朝。
遠野。
空気が違っていた。
風は冷たく。
水は澄み。
山は静かだった。
兵介は辺りを見回す。
「ここが遠野か。」
ソウもゆっくりと景色を見る。
「いいところだね。」
ミコトは嬉しそうに頷いた。
「うん。」
その笑顔は、旅の途中では見せなかった類いのものだった。
◇
道は細くなる。
山へ。
さらに山へ。
人の姿は消え。
鳥の声だけが聞こえる。
兵介が苦笑する。
「本当に人住んでんのか?」
「住んでる。」
ミコトは迷いなく歩く。
ソウはその後ろを歩きながら。
ふと足を止めた。
「……?」
木の枝。
白い猿。
目が合う。
猿は小さく頭を下げると。
音もなく山へ消えた。
兵介は気付かない。
ムジナが笑う。
「歓迎されてるな。」
「そうなの?」
「そういう山だ。」
また歩き出す。
少し進く。
今度は鹿が一頭。
こちらを見る。
逃げない。
軽く首を下げるようにして。
森へ帰っていく。
兵介が呟く。
「ここの獣。やけに賢くねぇか。」
ソウは笑った。
「そうかも。」
木の枝枝にちいさなあやかし。
みんな楽しそうに歌っていた。
◇
やがて。
森が開ける。
大きな屋敷。
長い塀。
立派な門。
山の中とは思えないほど手入れが行き届いていた。
兵介は口を開ける。
「……でけぇ。」
ミコトが懐かしそうに笑う。
「帰ってきた。」
ミコトは門の前へ立つ。
そっと手を添えた。
ぎぃ……
門がひとりでに開く。
いや、よく見ればあやかしたちが開けていた。
兵介が固まる。
「……多すぎねぇか?」
「いつもこんな感じ。」
ミコトは当たり前のように答えた。
「そ、そうか。」
「腰が引けてるぞ、兵介。」
ムジナがからかう。
◇
庭へ入る。
池。
河童。
古木。
細長いの。
風鈴。
風もないのに。
小さく鳴る。
ちりん。
兵介が辺りを見回す。
ムジナが笑う。
「見られてるぞ。」
「え。」
「歓迎してる。」
兵介は慌てて周りへ頭を下げた。
「ど、どうも。」
どこからか。
小さな笑い声が聞こえた気がした。
ソウも辺りを見る。
多い。
でも。
嫌な感じがない。
この家は。
人だけが住んでいる場所ではない。
そう思った。
◇
玄関。
静かに戸が開く。
一人の女性が立っていた。
年は四十ほど。
白い着物。
穏やかな笑み。
その姿を見たミコトは。
小さく頭を下げる。
「ただいま。」
女性は優しく微笑んだ。
「おかえりなさい。」
その視線が。
ゆっくりとソウへ向く。
兵介へ。
ムジナへ。
そしてもう一度。
ソウを見る。
静かな間。
やがて。
「ようこそ。」
柔らかな声だった。
「上代家へ。」
ソウは頭を下げる。
その穏やかな笑顔の奥で。
ほんの一瞬だけ。
ソウの腰にある天穿へ視線が止まる。
「……。」
何も言わない。
ただ。
少しだけ目を細めた。
遠く。
屋敷のどこかで。
鐘が一つ。
静かに鳴った。




