五十八話 仙花
蔵の中は静まり返っていた。
樽。
樽。
樽。
天井から吊るされた無数の赤い花が、
風もないのに僅かに揺れている。
瀬良が樽へ近付く。
蓋を少しだけ持ち上げた。
甘い酒の香り。
その奥に。
鉄のような臭い。
思わず顔をしかめる。
「……なんだ、この臭い。」
ミコトは黙ったまま、赤い花を一輪摘み取る。
花弁を開く。
指先を近付ける。
そして。
小さく首を振った。
「……違う。」
「何がだ。」
「これだけじゃない。」
瀬良は周囲を見回す。
壁際。
木桶。
底には黒く固まった何かが残っていた。
ミコトがしゃがみ込む。
指先で少しだけ触れる。
鉄臭い。
血だった。
「……鬼の血。」
村長が静かに目を閉じる。
「そうです。」
二人が振り返る。
村長は樽を見つめたまま口を開いた。
「赤い花と、鬼の血。」
「それを酒へ混ぜる。」
「……あいつらは。」
苦しそうに息を吐く。
「仙花、と呼んでいました。」
瀬良がぽつりと言う。
「千鬼衆。」
ミコトは腰の小瓶を取り出す。
樽から少量だけ汲み取る。
布で丁寧に包んだ。
瀬良が眉をひそめる。
「持って帰る気か。」
「調べる。」
「危ねぇぞ。」
少しだけ間を置いて。
「お母様なら。」
ミコトは小瓶を見つめた。
「何かわかるかもしれない。」
――――グォオオオオオオオオッ!!
轟音。
山全体が震える。
樽が揺れる。
天井から花びらが舞い落ちる。
村長の顔から血の気が引いた。
「……まさか。」
瀬良も息を呑む。
ただの鬼じゃない。
身体が震える。
本能が警鐘を鳴らしていた。
「なんだ、これは。」
ミコトは山の奥を見つめる。
金色の瞳が僅かに揺れた。
「あの気配……。」
村長が震える声で呟く。
「王角……。」
瀬良は小太刀を抜いた。
外を見る。
遠く。
夜空を揺らすほどの威圧。
同時に、酒造に忍び寄る複数の鬼の気配。
「来る。」
沈黙。
瀬良はミコトを見る。
迷わなかった。
「行け。」
短く言う。
「角狩りの所へ。」
「でも。」
「ここは俺がやる。」
瀬良は笑った。
「蔵も。」
「証拠も。」
「村長も。」
「俺が守る。」
ミコトは瀬良を見る。
その目に迷いはなかった。
小さく頷く。
「……うん。」
踵を返す。
夜の山を駆け出した。
風が吹く。
赤い花が揺れる。
瀬良は小太刀を構えた。
その背中で。
村長が静かに呟く。
「……どうか。終わらせてください。」
「……終わらせてたまるかよ。」
夜の山へ。
ミコトはただ一人。
ソウの元を目指して走り続けた。
いつの間にか月は隠れていた。




