二十九話 穴
頬に雨粒が当たる。
走る。
息が上がる。
泥を蹴る。
山は暗く。
枝が顔を掠める。
止まらない。
『……今は、追うな。』
父の声が残っている。
それでも。
走る。
血の跡。
重い足跡。
鬼の臭い。
雨に混じっても、まだ残っている。
「……っ。」
息を吐く。
前。
木々が途切れる。
その瞬間。
足が止まった。
「……。」
地面が、抉れていた。
大穴。
いや。
そんな生易しいものじゃない。
山肌ごと、 削り取られている。
木が倒れている。
岩が砕けている。
そこだけ、 景色が抜き取られていた。
「……これ、は。」
声が出る。
雨だけが降っている。
雨の音は鳴りやまず。
生き物の気配がない。
風も、 止まっているようだった。
動けなかった。
ただ、 穴を見ていた。
そこに、 微かに残っている鬼の気配。
だが、 今まで感じたものと違う。
双角とも違う。
もっと、
深い。
本能が言う。
触れてはいけないものだ。
天穿を握る。
『鬼になるな。』
父の声。
雨が強くなる。
前へ進めなかった。
追わなかったのか。
追えなかったのか。
今でも、 分からない。
ただ。
あの時。
自分は初めて、恐れを抱いた。
風が吹く。
ソウは目を開ける。
夕方。
空は赤く染まっている。
雲ひとつない、ただの赤。
隣を兵介が歩いている。
「……どうした。」
「いや。」
短い返事。
しばらく、 二人で歩く。
「……堺、行くつもりか。」
兵介がぽつりと言った。
ソウは少しだけ空を見る。
「うん。」
それだけ。
風が抜ける。
兵介は少し黙っていた。
「……そうか。」
短く言う。
ソウは前を向いたまま歩いている。
赤い空。
重い風。
それでも。
雨はまだあがっていない。




