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29/30

封鎖解除、上司逮捕の朝

1


割れた窓の縁を拭いたあと、透真はしばらく動けなかった。


風が冷たい。


汗と水を含んだ黒いTシャツが、冷えた布になる。

床の水膜が薄くなって、雨音が小さくなる。62W区画の散水は止まっていた。いつ手動で止められたのか分からない。


遠くで、何かが止まった。


排煙の唸りじゃない。

スプリンクラーの規則でもない。

もっと建物の奥——ずっと続いていた重さが、抜ける音。


あの赤い灯が消えたあと、建物の空気が変わった。


重さが消えた。

重さが消えたら、建物が息を吐いた。


一拍遅れて、ビルのどこかで電気錠がほどけた。


カチ、カチ、カチ。


同時に何百個も、金属が戻る音。


封鎖用のロックが外れる音。


閉じ込めていたものが、ほどける音。


透真は立ったまま、その音を聞いていた。

音が遠くから近くへ来る。階を上がってくるように、一つずつ近づいてくる。


ズボンのポケットが、強く震えた。


ドローンじゃない。スマホでもない。

置き去りにしていた社員用端末が——圏外から戻った震えだった。


電波が戻った。

電波が戻るということは、封鎖が解けたということだ。


透真は端末を見なかった。

見るより先に、足元を見た。


濡れた場所。

乾いた場所。

ガラスの欠片を寄せた場所。


踏んでいい場所に、一歩だけ足を置いた。


終わった気がしない。

でも、鍵が鳴っている。鍵が鳴るのは、扉が開くときだ。


---


2


62階ラウンジの空気が変わった。


静かだった部屋に、機械の音が戻る。

空調じゃない。通信機器の起動音。

端末が一斉に震える音。


震えは、生き返る音に似ていた。

でも生き返ったのは機械だけで、人間はまだ固まっている。


星野玲奈の端末が、勝手に画面を切り替えた。


PHASE SEAL : RELEASED

NETWORK : RESTORED


PHASE SEALの意味は分からない。封鎖制御の用語だ。

でも RELEASED だけは分かった。

解除。戻る。開く。


星野の指が震えた。

震えたのは恐怖じゃない。

ずっと握っていた手が、握らなくていい信号を受け取ったからだ。


城戸が声を出した。


「……繋がった……?」


声が裏返った。裏返ったことに、城戸自身が驚いた顔をした。

声を出していいのだと、喉がまだ信じていなかった。


柊が息を吸って、吐いた。

吐けたことに驚いた顔をした。

吐いても、何も寄ってこない。

吐いた息が、ただの息としてラウンジに消えた。


九条は最初に端末を見た。

人じゃなく画面を見た。

指が速い。削除の動き。

封鎖が解けた瞬間に、九条が最初にやることは消すことだった。


星野は端末を一度だけ胸に引いた。

引いたのは逃げじゃない。守りだ。

消される前に、残す。


御影は何も言わず、窓の外を見た。

夜景の底が、薄い青に変わり始めていた。夜が終わる色だった。

御影の目が細くなった。眩しいからじゃない。見たことがない色だったからだ。

この数時間、御影は夜しか見ていなかった。


---


3


白波ユウの画面は、突然“普通”になった。


砂嵐が消えた。

音が戻った。

遅延が縮んだ。壁のコピペが要らない速度に変わった。


ユウの指が止まった。

止まったのは、初めてだった。

止まっていい瞬間が、やっと来た。


コメント欄が、壁じゃなく、叫びに戻った。


> 繋がった!

> 解除きた

> 救助来るぞ

> 逮捕まだ?

> ログ消すな!

> ミラーまだ回せ!


> @ミラー職人:保存、継続。

> @ミラー職人II:バックアップ増設。三時間前のログから全部ある。

> @ミラー職人III:ニュースに投げた。もう戻せない。


三時間前。

ユウが最初にコメント壁を作り始めた頃から、ミラー職人はログを外に出していた。

ユウが壁を作っている間、壁の裏で証拠が外に流れていた。


ユウは知らなかった。

知らなかったけど、壁がなければログは流れなかった。

壁が時間を稼いだ。時間が証拠を運んだ。


ユウはマイクを使わずに、短く打った。


「救助班が来る。透真、返事しなくていい」

「ログは外に出た。もう消せない」


送って、画面の隅を見た。

ニュースアグリゲータの速報枠が、もう埋まっている。


命令文。承認者。時刻。

そして 解除。


ユウは画面を見たまま、椅子の背もたれに体重を預けた。

預けたら、背中が痛かった。

ずっと前のめりだったことに、今気づいた。


---


4


どれくらい経ったか分からない。


五分かもしれない。三十分かもしれない。

透真は通路の壁に背中をつけたまま、時間の厚さを測れなかった。


測れたのは、足元の水膜がさらに薄くなったことだけだ。

水は乾く。乾くには時間がかかる。

だから、少し経った。


通路の先から、靴音が来た。


人間の足音。

同じ靴底が何人分も、揃っている音。

揃っている足音は、訓練された足音だ。


「こちら救助隊。声が出せる人は返事を!」


声は温度があった。

息の湿り気がある。

命令じゃない。確認の声だ。

人間の声だった。


透真は返事をしなかった。

返事をする必要がない状況に、身体がまだ追いついていなかった。

声を出していい場所に、まだ立てていなかった。


救助隊が見えた。

ヘルメットのライト。防護マスク。反射材のベスト。


ライトは床を先に照らした。足元。ガラス。水。

照らし方が、手順通りだった。

足元から見る。清掃員と同じだ。


透真が寄せた破片に、ライトが止まった。


一人が膝をついて、破片を見た。

散乱じゃない。壁際に寄せてある。ペーパータオルで包んである。


「窓が破損——ガラスは……寄せてある。誰かが処理してる」


もう一人が透真を見た。

上着を失い、濡れた黒いTシャツ姿。足元にある指定の作業靴.

床に固定された空のボトル。


「あなたが?」


透真はうなずいた。

声は出さない。

うなずくだけで十分だと分かったからだ。


救助隊員の視線が、透真の足元から腰の道具入れへ落ちた。

濡れた作業ズボン。黒いTシャツ。使い込まれた道具入れ。


「ビルの常駐清掃員さんですか?」


透真は首を横に振った。


「外注の清掃会社の者です」


それだけ言った。


隊員はもう一度、透真の靴と手を見る。

このビルに慣れていると思った。だが、自社の人間ではない。


「……慣れてますね」


透真は答えなかった。


救助隊員が一瞬だけ、透真の手を見た。

洗剤で荒れた手。テープの跡が残った指。

何も言わなかった。

何も言わない代わりに、毛布を一枚渡した。


毛布は乾いていた。

乾いたものに触れたのは、何時間ぶりか分からなかった。


担架が来た。

手袋が透真の腕に触れた。


「怪我は?」


透真は首を振った。


救助隊が窓を見て、一瞬だけ黙った。

外壁の向こう。下。薄い朝の光の中に、何も見えない距離。

言葉にしない沈黙。


その沈黙の奥で、透真はただ毛布の端を握っていた。

乾いた布の端を、清掃員の握り方で握っていた。


---


5


ラウンジにも救助隊が入ってきた。


もう、落ちる音はしない。

防火シャッターは途中停止している。脇の通用扉は、手で押せば開く。

開く音が、普通に鳴る。


「全員、生存確認!」


柊が救急キットを抱えたまま立ち上がった。

膝が震えた。座っていた時間ぶんの震えが、立った瞬間に来た。


九条は救助隊に向かって歩み寄った。

いつもの、人を上から管理する足取り。

自分の服についた埃を払いながら、口を開く。


「ご苦労。私は上層の指揮を執っていた九条だ。先に私を下の指揮車両へ案内してくれ。マスコミの対応がある。私が事態を適切に説明し、会社のダメージをコントロールしなければならない」


言い切れなかった。

救助隊の後ろから、別の制服が踏み込んできた。

警察の捜査員。その手には、紙ではなくタブレット端末が握られている。


警察官が九条の前に立ち塞がった。


「九条玲司さんですね」


九条は眉をひそめた。

不快感。自分の計算外のタイミングで話しかけられたことへの苛立ち。


「そうだ。後にしてくれ。私は本社の——」


「虚偽の業務命令による殺人未遂、危険区域への誘導、および証拠隠滅の疑い。令状はすでに出ています。同行をお願いします」


九条の口が止まった。

しかし、まだ余裕があった。顔の筋肉を少しだけ引きつらせながらも、薄く笑う。


「……殺人未遂? 証拠隠滅だと? 誰の許可を得てそんな妄言を口にしている。ここは完全な密室だ。私が承認したログ以外、何の証拠もないはずだぞ。弁護士を呼べ」


九条の言葉に、警察官は一切の表情を動かさなかった。

ただ、手元のタブレットの画面を九条の目の前に向けた。


「マスコミの対応? その必要はどこにもありませんよ、九条さん」


冷たい声だった。


「あなたのその『指揮』も、他人の命をコストカットしようとした発言も——すべて、何十万人という人間にリアルタイムで生配信されていましたから」


---


6


「……は?」


九条の声が、間の抜けた音になった。


突きつけられたタブレットの画面。

そこには、白波ユウの配信枠のアーカイブが映っていた。

再生回数はすでに数百万。コメント欄の滝。ニュースサイトのトップを飾る『大手企業幹部、清掃員を魔物の餌に』という見出し。

そして、自分が透真を突き出そうとし、冷酷に笑っていたあの瞬間の映像。


「はいしん……? 配信だと?」


九条の目が、限界まで見開かれた。

眼球が痙攣するように画面と警察官を往復する。


「ばかな……ここは通信遮断区域だ! 誰も外部と連絡など……あ……」


九条の脳裏に、一つの光景がフラッシュバックした。

いつも壁際を這うように歩いていた、あの薄汚い清掃員。

その胸ポケットから覗いていた、小さなレンズ。


「あの清掃員の……胸の……あれが……ドローン……!?」


「これらも、すべて提出します」


九条の横から、星野が震える足で進み出た。

差し出す前に、一回だけ自分の端末の画面を見た。

送信ログ。承認ログ。時刻。 自分の名前。九条の名前。鬼頭の名前。久住の名前。


消えない記録。 消させなかった記録。

そして、ミラー職人たちが世界中に拡散し、永遠に消せなくなった真実。


「星野……貴様、自分が何をしているか分かっているのか! それは会社の機密——」


「損切りです、九条さん」


星野は、九条の目を真っ直ぐに見返して言った。

今まで一度も逆らったことのない、小さな広報担当の反逆。


「会社のダメージを最小限に抑えるため、不良債権を切り捨てました。あなたがいつも、私たちに命じていた通りに」


九条の顔から、完全に血の気が引いた。

次の瞬間、九条の両腕が狂ったように振り回された。


「消せ! 全部フェイクだと言え! 私は承認者だぞ! 私がこのビルを回しているんだ! お前らなどただの数字だ、コストだ! 私がルールだ!」


唾を飛ばし、絶叫する。

だが、その両手首には、すでに太い腕が絡みついていた。


カチ。


冷たい金属の音が鳴る。手錠だった。

暴れる九条の腕が、無様に背中側へ捻り上げられる。


「離せえええっ! 私はエリートだ! こんなところで終わる人間じゃない! その画面を消せえええええっ!!」


ラウンジに、九条の発狂した叫び声が響き渡った。

しかし、誰も彼を助けようとはしなかった。

御影は何も言わず、窓の外へ視線を戻した。

城戸は顔を伏せ、水が乾ききった床の継ぎ目を見つめていた。


手錠の鎖が、情けなくチャリと鳴る。

鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにし、言葉にならない叫びを上げながら引きずられていく九条の背中は、ひどく小さく、醜かった。


もう誰一人として、彼の言葉を「命令」として聞く人間は、この世界にいなかった。


---


7

担架がラウンジを通った。


透真は毛布にくるまったまま、目だけが動いた。


ラウンジのモニターに、速報が流れていた。

外の世界のテロップ。

いつもなら遠い文字が、今は近い。


「大手企業幹部ら 現場指示ログ流出 九条玲司容疑者を緊急逮捕」


その下で、別の速報。


「清掃部門責任者・鬼頭章介容疑者も業務上過失等で逮捕方針」


さらに下で、もう一つの速報。


「封鎖されていた高層ビル、解除 救助活動開始」


テロップが流れていく。

文字が流れて、消えて、また同じ文字が来る。


透真はテロップを読まなかった。

読まないまま、指先でペーパータオルの感触を確かめた。

ズボンのポケット。折って、畳んで、入れた手順。

乾いた紙の端が、まだ指に残っている。


窓から朝の光が入ってきた。

白い光。非常灯じゃない光。

影がない光。


ラウンジの床が、朝の光で乾き始めていた。

水膜が消えていく。足跡が消えていく。

透真が作った線も、洗剤の痕も、全部が乾いて消える。


消えていい。

現場は、次の人間が使う場所だ。

次の人間のために、きれいにする。

それが清掃員の仕事だった。


透真は朝の光の中で、目を閉じた。


閉じた瞼の裏に、赤い光はなかった。

折れた鍵もなかった。 あったのは、床の継ぎ目だけだった。


踏んでいい場所。

踏んではいけない場所。

その区別だけが、まだ身体の中に残っていた。


---


朝の光の中で、透真のポケットには、畳んだペーパータオルが残っていた。


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