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28/30

落下

1


壁についた黒い手を、赤い灯が見ていた。


自分の手を。

壁に頼った、自分の手を。


見ているあいだだけ、透真から視線が外れた。

その一拍で、盤の隅の小さな表示を拾う。


04:31


04:30は過ぎている。

あの ゴウン は止まっていた。止まった理由は分からない。


分からないものは置く。

いま拾えるのは、足元と扉と距離だけだ。


箱の中は雨音と排煙の唸りで満ちている。

薄い白い非常灯が床の継ぎ目を返す。継ぎ目が見えるだけで、手順が戻る。


赤い灯が戻る前に、もう一つだけ分かった。


あれは、壁を使う。

滑ったとき、必ず壁に手を伸ばす。

それが“生き残る癖”になっている。


なら――壁の性質を変えればいい。


透真の足が動いた。

考えたからじゃない。足が先に動いた。


動いた方向に、壁が続いている。

壁の先は、まだ見ていない。


---


2


透真は盤の光の列を読んだ。


いま落ちている扉。

動いている水。

生きている非常灯。

戻した排煙。


区画はまだ形を保っている。

でもその区画は守る場所じゃない。通す場所だ。


透真は SMOKE を一段上げた。

唸りが太くなる。空気が動く。雨音の粒が細かくなる。


風向きが生まれる。

匂いが引かれる。


靴底の匂い。洗剤の匂い。汗の匂い。

全部が吸い込み口へ向かう。


引かれれば、追うものも引かれる。

鼻も、足も。


透真は扉の方向を見ない。

見る代わりに、床の継ぎ目だけを見て歩く。


踏まない。置く。

濡れた場所は避けない。濡れた場所を選ぶ。


滑るのは自分だけじゃない。

でも滑る場所を知っているのは、自分だけだ。


背後で、赤い灯が動いた。

二つ。同じ速度。


近づく。静かに。重い。

音がないのに、雨粒が先に跳ねる。


透真は先に動いた。

戦うためじゃない。場所を選ぶために。


壁沿いに歩く。

壁沿いは清掃員の癖だ。端から拭く。端から見る。端を歩けば、中央を渡さなくていい。


壁が続く限り、歩ける。

壁が終わるとき、何が起きるか。


それは、着いてから決める。


---


3


62階ラウンジは、白い光のままだった。


窓の外の夜景だけが騒がしくて、部屋の中は静かすぎた。

その静けさを破ったのは、遠い ガシャン だった。


「……また落ちた」


星野の声は小さい。小さいのに、全員が聞いた。

端末は表のまま握られている。親指が画面の縁を白くしている。


御影は窓際から動かなかった。

何も言わず、床を見ている。

さっきまでワインボトルを割る握り方をしていた手が、いまは膝の上に置かれている。割る相手が、この部屋にいないからだ。


柊は救急キットを開けたまま閉めない。

指がテープの端を探している。端が見つかれば巻ける。巻ければ手順になる。手順があるうちは座っていられる。


九条だけが扉の方を見ていた。


城戸が九条の横顔を見た。追う目だった。

透真が消えた扉を、まだ追っている。危険だからじゃない。扉の向こうへ出る交渉材料が減るのが怖いのだ。


城戸は九条から目を外した。

外して天井を見た。

天井の向こうで何が起きているか、想像することをやめた。想像しても、ここからは何も届かない。


---


4


白波ユウの画面は、久しぶりに形を保っていた。


砂嵐が薄い。上層だ。

映っているのは、白い非常灯と、濡れた通路と、盤の前から離れる背中。


ユウの心臓が速い。

走っているのは透真なのに、ユウの身体が追いかけている。


コメントが速い。


> 盤から離れた

> 追わせてる

> 窓、窓際だ

> あの赤、壁に手ついた

> それ癖になってるぞ


◆だけが刺さる。


> ◆設備:窓際は西面の排煙開口が近い。負圧になりやすい

> ◆防災:62F西面外周に排煙連動の開口部あり。解錠の可能性

> ◆無線:今なら短文通る


ユウは二行だけ打った。


「窓際へ。壁の終わり」

「全部使え。返事するな」


送信して、マイクは使わなかった。

声を出したら、また命令になる。命令を増やしたくなかった。


透真はユウの命令で動いているんじゃない。

透真は手順で動いている。

ユウは手順の地図を渡しているだけだ。


届くかどうかは分からない。

でも送る。送ることだけが、画面の前にいる人間にできることだった。


---


5


透真は西側設備通路の角を曲がった。


白い非常灯の下に、ガラスの匂いがある。

冷たい匂い。続いていたコンクリートの壁が途切れ、外周の大きなガラス面が広がっていた。


透真は窓のすぐ手前で止まった。

ポケットから、残っているものをすべて出す。


黒いゴミ袋が一つ。

空になった洗剤ボトルが一つ。


息を整える。

追ってくる足音が、すぐ後ろの角まで来ている。

数秒しかない。その数秒で、現場を作る。


透真はゴミ袋を広げ、窓の手前の床に敷いた。

その下に向けて、刻印板を当てる。


「……洗浄」


ゴミ袋と床の間にある微細な埃や、わずかな引っかかりを『洗浄』で完全に消し去る。

摩擦ゼロの床の上に置かれた、薄いビニール。

それは絶対に乗ってはいけない、最悪の氷の板になる。


次に、空のボトルをゴミ袋の手前——通路の真ん中に置いた。

刻印板を当てて、囁く。


「……接着」


ただの軽いプラスチック容器が、床にガッチリと固定される。

蹴り飛ばせない、見えない「段差」の完成。


最後に、透真は窓ガラスを支えている、太い縦の金属枠のすぐ横に立った。

壁が終わる場所。


角から、赤い灯が二つ現れた。

静かに。重く。


二つの赤い灯が、透真を捉える。

逃げ場がない。あれは自分の勝利を確信したように、真っ直ぐに踏み込んできた。


一歩、二歩。


三歩目で、黒い足が「固定された空ボトル」に蹴躓けつまづいた。


ガンッ。


動くはずの軽いゴミ、気にも留めなかったゴミが岩のように動かない。

予想外の段差に、巨大が少しよろめく。


しかし、大したことではない。体勢を立て直そうと、あれは反射的に足を前に出した。


が、踏み込んだ先は、透真が敷いた「黒いゴミ袋」の上だった。


摩擦を完全に消去された床。

ビニールが横に滑る。


ズバーン!


巨体が完全にコントロールを失い、窓ガラスへ向かって投げ出される。


——決まった、と思った。


だが、あれは知将だった。今までの魔物とは違った。


ガラスを突き破る直前、巨体が空中で無理やり捻られた。

太い腕が伸び、窓の手前のコンクリート壁に五本の爪が深々と突き刺さる。


ゴリィィッ!


コンクリートが削れる嫌な音と共に、巨体が窓の数センチ手前で急停止した。

罠が、力でねじ伏せられた。


赤い灯が、壁に張り付いた体勢から透真をギロリと睨む。

次の瞬間、バネが弾けるような速度で影が跳んだ。


滑る床を飛び越え、透真の胸ぐらを鷲掴みにする。


「ガッ……!」


そのまま背後の金属の縦枠に叩きつけられた。


背骨が軋み、肺から空気が全部吐き出される。

息ができない。足が床からわずかに浮いている。

掴まれているのは、会社から支給された作業着の襟元だ。


赤い灯が目の前にある。冷たい死の匂いが顔を覆う。


「……小賢しい」


形だけの声が、耳元で響いた。

太い腕が、透真の身体ごと窓枠を外へ押し潰そうと、恐ろしい体重をかけてくる。


ガラスと縦枠がミシミシと悲鳴を上げる。

圧倒的な力。正面からは絶対に勝てない暴力。


だが、透真の目は死んでいなかった。


胸ぐらを掴まれ、枠に押しつけられている。

それはつまり——あれが透真を潰すために、この『枠』に全体重を預けているということだ。


頼る癖。 壁の性質を変えればいい。


透真は、宙に浮きかけた両足の靴底を、強引に床のコンクリートへ押し付けた。

そして、靴底越しに息を吐く。


「……接着」


靴底が、コンクリートと完全に同化する。

透真の身体が、床と繋がった一本の「杭」になった。


そして、背中の後ろで縦枠の継ぎ目に触れている右手に意識を向ける。

絞り出すような、かすれた息で囁く。


「……解体」


カァンッ!


乾いた音が一つ鳴った。

縦枠を上下の固定部に留めていたボルトが、一瞬にして外れてただの部品に戻る。


支えを失った縦枠が、窓ガラスの一部ごとあれの全体重に押されて、外側へ倒れた。


「あ……?」


赤い灯が揺れた。

絶対に自分を支えてくれるはずだった「強固な世界の壁」が、ただの鉄の棒になって、押し込んだ自分の体重ごと倒れていく。


巨体が外の虚空へ完全に投げ出される。


だが、あれの太い腕は、まだ透真の作業着をガッチリと掴んだままだった。

すさまじい力で、透真の身体ごと夜の闇へ引きずり出そうとする引力がかかる。


道連れだ。


普通なら、その圧倒的な引っ張る力と反動で、透真も一緒に窓の外へ飛んでいくはずだった。


だが、透真の足は床に『接着』されていた。

岩のように動かない透真の身体と、落下していく黒い巨体。


極限の引っ張り合いの中、怪物が空中で体勢を崩し、どこも掴み直しができないその一瞬。

透真は、襟元を掴む黒い腕の先、自らの作業着の『ファスナー』に左手を添えた。


「……解体」


ジジッ。


硬く噛み合っていたプラスチックの歯が、一瞬で部品に戻って弾け飛ぶ。


作業着の前が、完全に開いた。


「ぐっ……!」


透真は床に接着された両足を踏ん張り、上半身を大きくのけ反らせるようにして膝を深く折った。


窓の外へ、虚空へと放り出されていく怪物の凄まじい引力。


それに対して、その場へ沈み込もうとする透真の身体。


真逆に交差する力のベクトルが、前が開いた作業着を透真の肩から裏返るように引き剥がしていく。


万力のように襟元を引く力が逆に作用し、両腕が袖の中から一気にすっぽりと抜け落ちた。


透真の身体を縛っていたものが消える。


頭上を、巨大な影が前のめりに通り過ぎていく。


もがくこともできず落ちていくあれの手の中に残ったのは、透真の身体ではなく、空っぽになった『会社支給の作業着の抜け殻』だけだった。


「この世界じゃ」


透真は、作業着ごと外の闇へ落ちていく影に向かって、床に縫い付けられた足で立ちながら、静かに言った。


「重力が強い」


ガラスがひび割れて押し抜かれる轟音。

縦枠の固定部が引きちぎられる音。


二つの赤い灯が、ただの布切れと一緒に、62階の夜の闇へと吸い込まれて消えた。


あとは、風の音だけが残った。


ドローンが床に転がっている。

どこかのタイミングで、胸ポケットから落ちたか。


体がとてつもなく重かった。


透真は、靴底の『接着』を解いた。


その瞬間に膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。


---


6


ラウンジの中で、風が変わった。


窓から入る冷気が通路を通って、ラウンジの空気を押した。

押された空気が、全員の首筋を撫でた。


誰かが息を吸った。

誰が吸ったか分からない。分からないほど、全員が同時だった。


九条が一歩前に出かけて、止まった。

止まったのは勇気じゃない。足が動かなかっただけだ。

足が動かないのは、この部屋で初めてだった。


御影が通路の方へ半歩寄った。

寄る音を出さない半歩だった。

御影の目は通路の奥を見ている。見えるものは何もない。


柊が救急キットの包帯を握った。

握れた。端が見つかった。

巻く相手がいるかどうかは、まだ分からない。


星野は端末を見たまま、画面を閉じなかった。

閉じれば消える。消えれば、誰かの都合で書き換えられる。

星野は画面を開いたまま膝の上に置いた。


消さない。

それが、今できることだった。


---


7


白波ユウの画面では、コメントが一斉に崩れた。


> あっ 捕まっ 終わっ 枠ごと外した!?!?

> 道連れにされる!!落ちる!!

> ――え? 靴底を『接着』して耐えた!?!?

> ファスナー解体して服だけ脱いだ!?!?

> 引っ張る力を使って両腕すっぽり抜けたぞ!

> 抜け殻www

> ピンチすら完璧なコンボ。

> 清掃員最強すぎる


> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了。


ユウはコメント欄を見ていなかった。

画面の中央を見ていた。


割れた窓。風。非常灯の白い光。

そして、床に崩れ落ちて咳込んでいる人間。


透真が映っている。

倒れているが、息をしている。


ユウの指がキーボードの上で止まった。

打つ言葉が見つからなかった。


生きてる、とは打てない。確認になる。

大丈夫、とも打てない。大丈夫なわけがない。


ユウは何も打たなかった。

打たない代わりに、見続けた。


透真がゆっくりと立ち上がり、壁に背中をつける。

作業着を失い、下に着ていた黒いTシャツの裾が、風で揺れている。


見ていることだけが、ユウの仕事だった。

見ていることだけが、透真が一人じゃない証拠だった。


---


8


透真は崩れ落ちた床から、ゆっくりと立ち上がった。


立ち上がると、膝が笑った。

笑ったのは、力が入らないからだ。力が入らないのは、使い切ったからだ。


でも膝は折れなかった。


透真は割れた窓の縁を見た。

尖った破片。

次に誰かがここを通ったら、怪我をする。


ポケットからペーパータオルを出す。残り三枚。


一枚目で、窓の縁の大きな破片を包んだ。包んで、床に置く。置く場所は壁際。踏まない場所。


二枚目で、床に散った細かい破片を集めた。集めて、同じ場所に置く。


三枚目で、窓の縁を拭いた。


血はなかった。

自分の血も、あれの血も。


拭き終えて、ペーパータオルを畳んだ。

畳んだものをポケットに入れた。


現場に戻る。

戻ると、手順が戻る。


足元を見る。


滑る場所。濡れた場所。破片を取り除いた場所。

次に踏んではいけない場所。次に踏んでいい場所。


透真は、踏んでいい場所に一歩だけ足を置いた。


---


透真は、割れた窓の縁を拭いた。血はなかった。


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