落下
1
壁についた黒い手を、赤い灯が見ていた。
自分の手を。
壁に頼った、自分の手を。
見ているあいだだけ、透真から視線が外れた。
その一拍で、盤の隅の小さな表示を拾う。
04:31
04:30は過ぎている。
あの ゴウン は止まっていた。止まった理由は分からない。
分からないものは置く。
いま拾えるのは、足元と扉と距離だけだ。
箱の中は雨音と排煙の唸りで満ちている。
薄い白い非常灯が床の継ぎ目を返す。継ぎ目が見えるだけで、手順が戻る。
赤い灯が戻る前に、もう一つだけ分かった。
あれは、壁を使う。
滑ったとき、必ず壁に手を伸ばす。
それが“生き残る癖”になっている。
なら――壁の性質を変えればいい。
透真の足が動いた。
考えたからじゃない。足が先に動いた。
動いた方向に、壁が続いている。
壁の先は、まだ見ていない。
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2
透真は盤の光の列を読んだ。
いま落ちている扉。
動いている水。
生きている非常灯。
戻した排煙。
区画はまだ形を保っている。
でもその区画は守る場所じゃない。通す場所だ。
透真は SMOKE を一段上げた。
唸りが太くなる。空気が動く。雨音の粒が細かくなる。
風向きが生まれる。
匂いが引かれる。
靴底の匂い。洗剤の匂い。汗の匂い。
全部が吸い込み口へ向かう。
引かれれば、追うものも引かれる。
鼻も、足も。
透真は扉の方向を見ない。
見る代わりに、床の継ぎ目だけを見て歩く。
踏まない。置く。
濡れた場所は避けない。濡れた場所を選ぶ。
滑るのは自分だけじゃない。
でも滑る場所を知っているのは、自分だけだ。
背後で、赤い灯が動いた。
二つ。同じ速度。
近づく。静かに。重い。
音がないのに、雨粒が先に跳ねる。
透真は先に動いた。
戦うためじゃない。場所を選ぶために。
壁沿いに歩く。
壁沿いは清掃員の癖だ。端から拭く。端から見る。端を歩けば、中央を渡さなくていい。
壁が続く限り、歩ける。
壁が終わるとき、何が起きるか。
それは、着いてから決める。
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3
62階ラウンジは、白い光のままだった。
窓の外の夜景だけが騒がしくて、部屋の中は静かすぎた。
その静けさを破ったのは、遠い ガシャン だった。
「……また落ちた」
星野の声は小さい。小さいのに、全員が聞いた。
端末は表のまま握られている。親指が画面の縁を白くしている。
御影は窓際から動かなかった。
何も言わず、床を見ている。
さっきまでワインボトルを割る握り方をしていた手が、いまは膝の上に置かれている。割る相手が、この部屋にいないからだ。
柊は救急キットを開けたまま閉めない。
指がテープの端を探している。端が見つかれば巻ける。巻ければ手順になる。手順があるうちは座っていられる。
九条だけが扉の方を見ていた。
城戸が九条の横顔を見た。追う目だった。
透真が消えた扉を、まだ追っている。危険だからじゃない。扉の向こうへ出る交渉材料が減るのが怖いのだ。
城戸は九条から目を外した。
外して天井を見た。
天井の向こうで何が起きているか、想像することをやめた。想像しても、ここからは何も届かない。
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4
白波ユウの画面は、久しぶりに形を保っていた。
砂嵐が薄い。上層だ。
映っているのは、白い非常灯と、濡れた通路と、盤の前から離れる背中。
ユウの心臓が速い。
走っているのは透真なのに、ユウの身体が追いかけている。
コメントが速い。
> 盤から離れた
> 追わせてる
> 窓、窓際だ
> あの赤、壁に手ついた
> それ癖になってるぞ
◆だけが刺さる。
> ◆設備:窓際は西面の排煙開口が近い。負圧になりやすい
> ◆防災:62F西面外周に排煙連動の開口部あり。解錠の可能性
> ◆無線:今なら短文通る
ユウは二行だけ打った。
「窓際へ。壁の終わり」
「全部使え。返事するな」
送信して、マイクは使わなかった。
声を出したら、また命令になる。命令を増やしたくなかった。
透真はユウの命令で動いているんじゃない。
透真は手順で動いている。
ユウは手順の地図を渡しているだけだ。
届くかどうかは分からない。
でも送る。送ることだけが、画面の前にいる人間にできることだった。
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5
透真は西側設備通路の角を曲がった。
白い非常灯の下に、ガラスの匂いがある。
冷たい匂い。続いていたコンクリートの壁が途切れ、外周の大きなガラス面が広がっていた。
透真は窓のすぐ手前で止まった。
ポケットから、残っているものをすべて出す。
黒いゴミ袋が一つ。
空になった洗剤ボトルが一つ。
息を整える。
追ってくる足音が、すぐ後ろの角まで来ている。
数秒しかない。その数秒で、現場を作る。
透真はゴミ袋を広げ、窓の手前の床に敷いた。
その下に向けて、刻印板を当てる。
「……洗浄」
ゴミ袋と床の間にある微細な埃や、わずかな引っかかりを『洗浄』で完全に消し去る。
摩擦ゼロの床の上に置かれた、薄いビニール。
それは絶対に乗ってはいけない、最悪の氷の板になる。
次に、空のボトルをゴミ袋の手前——通路の真ん中に置いた。
刻印板を当てて、囁く。
「……接着」
ただの軽いプラスチック容器が、床にガッチリと固定される。
蹴り飛ばせない、見えない「段差」の完成。
最後に、透真は窓ガラスを支えている、太い縦の金属枠のすぐ横に立った。
壁が終わる場所。
角から、赤い灯が二つ現れた。
静かに。重く。
二つの赤い灯が、透真を捉える。
逃げ場がない。あれは自分の勝利を確信したように、真っ直ぐに踏み込んできた。
一歩、二歩。
三歩目で、黒い足が「固定された空ボトル」に蹴躓いた。
ガンッ。
動くはずの軽いゴミ、気にも留めなかったゴミが岩のように動かない。
予想外の段差に、巨大が少しよろめく。
しかし、大したことではない。体勢を立て直そうと、あれは反射的に足を前に出した。
が、踏み込んだ先は、透真が敷いた「黒いゴミ袋」の上だった。
摩擦を完全に消去された床。
ビニールが横に滑る。
ズバーン!
巨体が完全にコントロールを失い、窓ガラスへ向かって投げ出される。
——決まった、と思った。
だが、あれは知将だった。今までの魔物とは違った。
ガラスを突き破る直前、巨体が空中で無理やり捻られた。
太い腕が伸び、窓の手前のコンクリート壁に五本の爪が深々と突き刺さる。
ゴリィィッ!
コンクリートが削れる嫌な音と共に、巨体が窓の数センチ手前で急停止した。
罠が、力でねじ伏せられた。
赤い灯が、壁に張り付いた体勢から透真をギロリと睨む。
次の瞬間、バネが弾けるような速度で影が跳んだ。
滑る床を飛び越え、透真の胸ぐらを鷲掴みにする。
「ガッ……!」
そのまま背後の金属の縦枠に叩きつけられた。
背骨が軋み、肺から空気が全部吐き出される。
息ができない。足が床からわずかに浮いている。
掴まれているのは、会社から支給された作業着の襟元だ。
赤い灯が目の前にある。冷たい死の匂いが顔を覆う。
「……小賢しい」
形だけの声が、耳元で響いた。
太い腕が、透真の身体ごと窓枠を外へ押し潰そうと、恐ろしい体重をかけてくる。
ガラスと縦枠がミシミシと悲鳴を上げる。
圧倒的な力。正面からは絶対に勝てない暴力。
だが、透真の目は死んでいなかった。
胸ぐらを掴まれ、枠に押しつけられている。
それはつまり——あれが透真を潰すために、この『枠』に全体重を預けているということだ。
頼る癖。 壁の性質を変えればいい。
透真は、宙に浮きかけた両足の靴底を、強引に床のコンクリートへ押し付けた。
そして、靴底越しに息を吐く。
「……接着」
靴底が、コンクリートと完全に同化する。
透真の身体が、床と繋がった一本の「杭」になった。
そして、背中の後ろで縦枠の継ぎ目に触れている右手に意識を向ける。
絞り出すような、かすれた息で囁く。
「……解体」
カァンッ!
乾いた音が一つ鳴った。
縦枠を上下の固定部に留めていたボルトが、一瞬にして外れてただの部品に戻る。
支えを失った縦枠が、窓ガラスの一部ごとあれの全体重に押されて、外側へ倒れた。
「あ……?」
赤い灯が揺れた。
絶対に自分を支えてくれるはずだった「強固な世界の壁」が、ただの鉄の棒になって、押し込んだ自分の体重ごと倒れていく。
巨体が外の虚空へ完全に投げ出される。
だが、あれの太い腕は、まだ透真の作業着をガッチリと掴んだままだった。
すさまじい力で、透真の身体ごと夜の闇へ引きずり出そうとする引力がかかる。
道連れだ。
普通なら、その圧倒的な引っ張る力と反動で、透真も一緒に窓の外へ飛んでいくはずだった。
だが、透真の足は床に『接着』されていた。
岩のように動かない透真の身体と、落下していく黒い巨体。
極限の引っ張り合いの中、怪物が空中で体勢を崩し、どこも掴み直しができないその一瞬。
透真は、襟元を掴む黒い腕の先、自らの作業着の『ファスナー』に左手を添えた。
「……解体」
ジジッ。
硬く噛み合っていたプラスチックの歯が、一瞬で部品に戻って弾け飛ぶ。
作業着の前が、完全に開いた。
「ぐっ……!」
透真は床に接着された両足を踏ん張り、上半身を大きくのけ反らせるようにして膝を深く折った。
窓の外へ、虚空へと放り出されていく怪物の凄まじい引力。
それに対して、その場へ沈み込もうとする透真の身体。
真逆に交差する力のベクトルが、前が開いた作業着を透真の肩から裏返るように引き剥がしていく。
万力のように襟元を引く力が逆に作用し、両腕が袖の中から一気にすっぽりと抜け落ちた。
透真の身体を縛っていたものが消える。
頭上を、巨大な影が前のめりに通り過ぎていく。
もがくこともできず落ちていくあれの手の中に残ったのは、透真の身体ではなく、空っぽになった『会社支給の作業着の抜け殻』だけだった。
「この世界じゃ」
透真は、作業着ごと外の闇へ落ちていく影に向かって、床に縫い付けられた足で立ちながら、静かに言った。
「重力が強い」
ガラスがひび割れて押し抜かれる轟音。
縦枠の固定部が引きちぎられる音。
二つの赤い灯が、ただの布切れと一緒に、62階の夜の闇へと吸い込まれて消えた。
あとは、風の音だけが残った。
ドローンが床に転がっている。
どこかのタイミングで、胸ポケットから落ちたか。
体がとてつもなく重かった。
透真は、靴底の『接着』を解いた。
その瞬間に膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
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6
ラウンジの中で、風が変わった。
窓から入る冷気が通路を通って、ラウンジの空気を押した。
押された空気が、全員の首筋を撫でた。
誰かが息を吸った。
誰が吸ったか分からない。分からないほど、全員が同時だった。
九条が一歩前に出かけて、止まった。
止まったのは勇気じゃない。足が動かなかっただけだ。
足が動かないのは、この部屋で初めてだった。
御影が通路の方へ半歩寄った。
寄る音を出さない半歩だった。
御影の目は通路の奥を見ている。見えるものは何もない。
柊が救急キットの包帯を握った。
握れた。端が見つかった。
巻く相手がいるかどうかは、まだ分からない。
星野は端末を見たまま、画面を閉じなかった。
閉じれば消える。消えれば、誰かの都合で書き換えられる。
星野は画面を開いたまま膝の上に置いた。
消さない。
それが、今できることだった。
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7
白波ユウの画面では、コメントが一斉に崩れた。
> あっ 捕まっ 終わっ 枠ごと外した!?!?
> 道連れにされる!!落ちる!!
> ――え? 靴底を『接着』して耐えた!?!?
> ファスナー解体して服だけ脱いだ!?!?
> 引っ張る力を使って両腕すっぽり抜けたぞ!
> 抜け殻www
> ピンチすら完璧なコンボ。
> 清掃員最強すぎる
> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了。
ユウはコメント欄を見ていなかった。
画面の中央を見ていた。
割れた窓。風。非常灯の白い光。
そして、床に崩れ落ちて咳込んでいる人間。
透真が映っている。
倒れているが、息をしている。
ユウの指がキーボードの上で止まった。
打つ言葉が見つからなかった。
生きてる、とは打てない。確認になる。
大丈夫、とも打てない。大丈夫なわけがない。
ユウは何も打たなかった。
打たない代わりに、見続けた。
透真がゆっくりと立ち上がり、壁に背中をつける。
作業着を失い、下に着ていた黒いTシャツの裾が、風で揺れている。
見ていることだけが、ユウの仕事だった。
見ていることだけが、透真が一人じゃない証拠だった。
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8
透真は崩れ落ちた床から、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がると、膝が笑った。
笑ったのは、力が入らないからだ。力が入らないのは、使い切ったからだ。
でも膝は折れなかった。
透真は割れた窓の縁を見た。
尖った破片。
次に誰かがここを通ったら、怪我をする。
ポケットからペーパータオルを出す。残り三枚。
一枚目で、窓の縁の大きな破片を包んだ。包んで、床に置く。置く場所は壁際。踏まない場所。
二枚目で、床に散った細かい破片を集めた。集めて、同じ場所に置く。
三枚目で、窓の縁を拭いた。
血はなかった。
自分の血も、あれの血も。
拭き終えて、ペーパータオルを畳んだ。
畳んだものをポケットに入れた。
現場に戻る。
戻ると、手順が戻る。
足元を見る。
滑る場所。濡れた場所。破片を取り除いた場所。
次に踏んではいけない場所。次に踏んでいい場所。
透真は、踏んでいい場所に一歩だけ足を置いた。
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透真は、割れた窓の縁を拭いた。血はなかった。




