今日は有給で
1
救急車の中は、白かった。
白い天井。白いライト。白いシーツ。
消毒液の匂いが、洗剤よりも薄い。薄いのに、逃げない匂いだった。
透真は担架の上で、毛布の端を握っていた。
握り方が、まだ仕事の手だった。
強く握らない。音を出さない。ずれない角度で握る。
握る必要はもうない。
でも手が、まだ現場にいる。
「名前、言えますか」
救急隊員の声。温度がある。息の湿り気がある。
温度のある声を聞くのは、何時間ぶりか分からなかった。
透真は一拍だけ遅れて、口を開いた。
「……久住。透真」
自分の名前を言うのに、息が要った。
首のストラップは置いてきた。社員証も置いてきた。
でも名前は、喉の奥に残っていた。
置いてきたつもりだったのに、残っていた。
救急隊員が頷いた。急かさない頷き方だった。
「怪我は?」
透真は首を振った。
首を振ったとき、首筋が痛かった。
痛いのは怪我じゃない。汗が乾いて布が張り付いている痛みだった。
何時間も同じ姿勢で、同じ制服で、同じ汗の中にいた痛みだった。
「痛いところはないですか?」
透真はもう一度、頷いた。
頷くと、窓の外が見えた。
朝だった。
ビルが遠ざかっていく。
あの窓の破れた場所が、見えない角度になった。
見えない角度になった瞬間、透真の目が勝手に床を探した。
床はない。担架の上だ。
探してしまう。
踏んでいい場所を。踏んではいけない場所を。
もう探さなくていいのに、目が止まらない。
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2
白波ユウは、画面を閉じた。
閉じたのは、自分の画面だけだった。
配信はまだ流れている。ミラー職人がアーカイブを回している。ニュースが映像を引用している。
ユウが閉じても、流れは止まらない。
止まらなくていい。
ユウの仕事は終わった。
コメント欄は、もう壁じゃなかった。
壁を作る必要がない。
特定する人間より、見ている人間のほうが多すぎた。
> 逮捕きた
> 九条終わった
> 星野さんGJ
> 清掃員どこだ
> 生きてる?
> 今日は有給で、って言え
ミラー職人たちのアカウントが、最後まで淡々と流れていた。
> @ミラー職人:保存、継続。
> @ミラー職人II:全ログ、アーカイブ化完了。
> @ミラー職人III:主要メディアに渡した。改ざん不可。
ユウは最後に一行だけ打った。
「生存確認。救助搬送。」
それだけで十分だった。
十分なのに、指がキーボードの上で止まらなかった。
止めると、やっと今夜が自分の中に入ってくる気がした。
入ってきたら、どうなるか分からない。
ユウはキーボードから手を離して、掌を見た。
震えていなかった。配信の間、一度も震えなかった。
震えていないことが、何を意味するのか、ユウにはまだ分からなかった。
分からないまま、掌を膝の上に置いた。
画面を閉じた部屋は、静かだった。
コメント欄の音がない。キーボードの音がない。
ユウの呼吸だけが、部屋に残っていた。
その静けさの中で、通知が一つだけ点いた。
ニュース更新。投稿者名だけが先に見えた。
水瀬さや。
ユウは開かなかった。
でもタイトルだけは目に入った。
「清掃員は搬送。氏名は出さない」
短い。余計な装飾がない。
“守る”と決めた文章の形だった。
ユウは目を閉じなかった。
閉じたら、画面の向こうの背中が見える気がした。
濡れた制服。モップの柄。薄い非常灯の下を歩く背中。
見えるうちは、まだ終わっていない。
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3
病院の廊下は、明るすぎた。
非常灯じゃない光。蛍光灯の、均一な白。
影がない光。影がないと、距離が分からない。
透真は診察室の椅子に座らされた。
座らされると、座ってしまう。
座ってしまうと、立てなくなる気がした。
膝が笑っていた。
笑っているのに、痛くない。
痛くないのは、感覚が遅れているからだ。
医師が言った。
「低体温。軽い脱水。皮膚の荒れ。打撲は——ないですね」
ないですね、と言われて、透真は不思議だった。
あれだけ動いて、打撲がない。殴られていない。蹴られていない。
透真は一度も、誰にも触れられていない。
赤い灯にも。九条にも。誰にも。
触れられていないのに、身体がこんなに重い。
「手、見せてください」
透真は手を差し出した。
その手は、自分の手じゃないみたいだった。
皮膚が白くふやけて、指先が赤い。 爪の間に、まだ鉄の粉が残っている。
蝶番のボルトの粉。配管の継ぎ手の粉。盤のカバーの粉。
全部、この手で触ったものの粉だ。
医師が薬を塗りながら言った。
「怖かったでしょう」
透真は、答えなかった。
怖かったかどうかを選ぶ言葉が、喉にない。
怖かったのかもしれない。
でも怖いと思う暇がなかった。
手順があったから。次の動作があったから。
手が動いている間は、怖いという言葉が入る場所がなかった。
今は手が止まっている。
止まっている手に、怖さが遅れて届くのかもしれない。
でもまだ届いていない。
代わりに、口が勝手に別のことを言った。
「……今日は、有給で」
医師が一瞬止まった。
薬を塗る手が、透真の指の上で止まった。
看護師が、笑うのを堪えた顔をした。
堪えきれなくて、少しだけ口の端が上がった。
救急隊員が、息を吐いた。
安堵の息じゃない。「こいつは大丈夫だ」という息だった。
透真はそれを見て、続けなかった。 続ける必要がなかった。
今日は有給。
それだけで、帰る理由が立つ。
帰れれば、ドアを開けられる。自分の部屋のドアを。
医師が言った。
「入院の必要はありません。帰って、休んでください。明日もう一度来てください」
透真は頷いた。
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4
病院のロビーは、テレビの音で満ちていた。
事件。封鎖解除。幹部逮捕。ログ流出。
コメンテーターの声。専門家の声。被害者の声。
透真はテレビを見なかった。
見ないまま、足元を見た。
病院の床。
継ぎ目がある。ワックスの艶がある。
濡れていない。滑らない。踏んでいい。
自動ドアが開いた。
開く音が、普通に鳴る。
センサーが透真を検知して、自動で開いた。
鍵を外す必要がない。蝶番を外す必要がない。ボルトを抜く必要がない。
扉が、ただ開いた。
外は、朝の匂いがした。
雨の匂いじゃない。洗剤でもない。排煙でもない。消毒液でもない。
ただの空気の匂い。何にも使われていない空気の匂い。
透真は一歩だけ、外に出た。
出た足元は、アスファルトだった。乾いている。割れていない。
踏んだ。
踏んだだけで、何も起きなかった。
何も起きない地面を踏むことが、こんなに遠かった。
タクシーの運転手が言った。
「大変でしたね」
透真は頷いた。
運転手はそれ以上聞かなかった。
それが一番ありがたかった。
透真は窓に額をつけた。
ガラスは冷たかった。冷たいけど、割れない。
目を閉じたのは一瞬だけだった。
一瞬だけ閉じて、また開けた。
まだ寝ない。
まだ帰っていないから。
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5
部屋の鍵は、ちゃんと回った。
鍵穴に異物はない。
回る。開く。閉まる。
普通だった。
普通であることが、信じられなかった。
透真は玄関で靴を脱いだ。
靴を脱ぐ動きが、今夜ずっと欲しかった動きだった。
靴底が汚れていた。
洗剤と水と埃が混ざった跡。ビルの中の、全部の床を踏んだ跡。
透真は靴を揃えた。
揃えたら、一つ終わる。
部屋は散らかっていなかった。
当たり前だった。当たり前なのに、安心した。
透真は洗面所に行って、手を洗った。
石鹸の泡が立つ。
泡が立つと、指の間の鉄の粉が落ちる。
落ちるのを見て、透真は息を吐いた。
返事にならない息。誰にも届かない息。届かなくていい息。
手を拭いた。
タオルは乾いていた。
自分の部屋の、自分のタオルだけが持っている乾き方。
それに触れて、やっと手が現場から戻った。
透真は寝室に行って、布団をめくった。
布団の匂い。洗剤じゃない匂い。
自分の匂いが薄い、布団だけの匂い。
透真はその中に入った。
世界はまだ騒いでいる。
スマホは鳴っている。ニュースは流れている。
でも布団の中では、音が薄い。
透真は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、赤い灯はなかった。
割れる音もなかった。
あったのは、床の継ぎ目じゃなく、布団の縫い目だった。
縫い目は、踏まなくていい。
見るだけでいい。
見るだけでいい場所に、やっと来た。
透真の指が、布団の縫い目の上を一度だけなぞった。
なぞる動きは、拭く動きに似ていた。
似ているけど、違う。
これは仕事じゃない。
仕事じゃない手の動きを、透真は久しぶりにした。
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透真は布団の中で、指を一度だけ握り直して、そのまま眠った。
完




