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23/30

復旧が最強

1


モップの柄は、軽かった。


軽いのに、透真の手は重い。

握った瞬間、握り方だけが戻る。親指の位置。指の巻き方。重心の置き場。


扉の外で、音が二つ重なった。


カツン……カツン……(重い足。水を踏む歩幅)

カン、カン、カン。(金属。縁を叩く合図)


右。

少し遅れて左。

同じ三回が返ってくる。


呼び合っている。


排煙の唸りと、スプリンクラーの雨が続く。

その底で、もう一つ低い音が止まらない。


ゴウン……


止まらないまま、太くなっている。


透真は端末に近づかない。秒を見るだけで身体が焦る。

代わりに、黒い箱へ戻った。


---


2


赤いレバーの列。


今は倒して機能しているレバーも、敵がこの部屋に辿り着けば、必ず力任せに元に戻される。


それを遅延させるための養生テープは、もうない。


かといって、スキルを使えば声を出すことになり、自分の位置を正確に教えてしまう。


透真はズボンのポケットの中を探った。

指先に触れたのは、ペーパータオルに包んだ、ひんやりとした折れたマスターキーの破片が二つ。

そして、さっき使い切った養生テープの、ただのボール紙の空芯。


普通なら、ただのゴミだ。だが今の透真にとっては、自分の命を数分間だけ引き延ばすための唯一の建材だった。


破片を一つ、FIRE DOOR / B1 EAST のレバー根元、プラスチックと金属のわずかな隙間にねじ込む。


カチリ、と金属同士が深く噛み合う嫌な音がした。

これでいい。力任せに戻そうとすれば、この破片がつっかえて、一手では戻らない。


もう一つを FIRE DOOR / B1 WEST にも同じように深く噛ませた。


扉を開けるための道具として作られた鍵が、完全に壊れたことで、今はすぐにはレバーを戻させない楔に変わった。


テープ芯は筒だ。筒というアーチ形状は、短時間なら縦の圧力に対しては驚くほど潰れにくい。


透真は芯を縦にして、SMOKE EXH / HIGH のレバー根元と盤の縁の間に、体重をかけて無理やり押し込んだ。

次に SPR / ZONE-3 にも、持っていたモップの柄の尻を使って同じように叩き込む。


完璧なロックじゃない。魔族の力なら最後は壊せる。


でも、「ただレバーを戻す」という一瞬の動作に、指一本分、手首一捻り分の余計な力を強要できる。

その余計な力は焦りを生み、焦りは余計な「音」となって、遠くにいる自分に警告をくれるはずだ。


箱の扉を静かに閉めた。外したネジは戻さない。


戻さないまま、透真はモップの柄だけを固く握り直した。


ここを離れても、この盤はすぐにはほどけない。


ほどける前に、次の場所へ行く。


---


3


盤の部屋を抜け、R-SEC奥の通路へ進む。

ここにもスプリンクラーの雨が降っていた。


水はもう“止める壁”じゃない。

敵が避けなくなったのを知っている。


それでも濡れた床は、嘘をつかない。

水の上は滑る。滑れば、姿勢が乱れる。

姿勢が乱れれば、音が増える。


音が増えるのは、向こうも同じだ。


透真はモップの柄を前に出して歩いた。

杖じゃない。体重を預けない。

先に床を叩いて、水膜の厚い場所を避けるため。


背後の盤室の扉の向こうで、カンが途切れた。

途切れた直後に、別の叩き方が来る。


カン、……カン。


揃っていない。 揃っていないのに、意味がある。


見つけた、の叩き方。


透真は振り向かない。 振り向けば返事になる。


---


4


薄暗い通路の低い位置に、青い表示灯が呼吸するように点滅していた。


ASSET LIFT

研究区画専用の搬送リフト。


分厚い金属の引き戸が、半分だけ開いた状態で不自然に止まっている。


物理的に破壊されて歪んでいるわけじゃない。

システムが「障害物あり」と誤認して安全装置が働き、その場でフリーズしている、特有の静かな止まり方だ。


透真は視線を上げた。扉の上の枠、センサーの受光窓が二つ。


スプリンクラーの湿気による水膜。長年の埃。そして、誰かが無理やりこじ開けようとしたのか、べったりと付着した脂ぎった手形。


それらの薄い汚れの層が、受光を乱して、見えない壁を作っている。


扉は閉まらない。閉まらないから、箱はどこへも動けない。


夜勤のシフトで、何度も何度も見た光景だ。


「搬送リフトが壊れた、早く直せ」と上から怒鳴られて現場に行くと、原因の八割はこれだ。機械の故障じゃない。ただの「汚れ」だ。


透真はモップの柄の先に、乾いたペーパータオルを一枚被せた。


きつく巻かない。布の柔らかさを殺さないよう、手でふわりと押さえるだけ。


柄を伸ばし、センサー窓に当てる。


横に一回。水膜の表面張力を切る。


縦に一回。浮いた埃と脂を絡め取る。


最後に、ペーパーのまだ乾いている面を裏返して、軽く一回。仕上げの乾拭き。


わずか、三手。


物を壊すのは簡単だ。力任せに叩き割ればいい。


でも、直すのは難しい。汚れを一つ見逃せば、システムはエラーを吐き続け、現場は決して動かない。


今夜、命を懸けて逃げ回ってきたこの地下空間で、透真は初めて“自分の本来の仕事”をそのままの手順で行っていた。


引き戸が、すっと滑るように動いた。


ガタつきも、摩擦音も出ない。正しく手入れされ、正しく動く設備は、いつだって恐ろしいほど静かだ。


透真の指が一瞬だけ、小刻みに震えた。


魔族に対する恐怖でも、助かるかもしれない安堵でもない。


自分の手が、ただの清掃員の手が、この巨大なダンジョンの血管を「直して」しまったことを思い出した、畏怖の震えだった。


籠の中へ入る。 分厚い金属の匂いと、密閉された冷たい空気。


操作盤のデジタル数字。


04:29


閉ボタンに指を置く。


押す前に一拍、迷う。


自分がこのボタンを押すから動くのか。


それとも、あの金庫のログにあった時刻が来るから動くのか。


どっちでもいい。動けばいい。


押した。


---


5


扉が静かに閉まり始めたその瞬間、背後の暗い通路の奥で、声がした。


「久住」


温度がない。息の震えがない。

人間の発声器官の形だけを真似て作られた、ひどく人工的な響き。


東西の防火扉を閉めたはずなのに、その縁を執拗に叩いて隙間を探り当てた西側の個体が、ついにこちら側へ回り込んできた声だ。


透真は振り返らない。返事もしない。


返事をしないまま、籠の壁に取り付けられた冷たい手すりを強く握りしめる。


引き戸が完全に閉まる。最後の一センチが、分厚いゴムパッキンに静かに吸い付く音がした。

外の怪物の声も、排煙の唸りも、この堅牢な箱によって完全に遮断された。


操作盤のデジタル数字が、カチリと切り替わった。


04:30


その瞬間だった。


透真が押したはずの階数ボタンのランプがふっと消え、代わりに操作盤の奥に隠されていた『PRIORITY(最優先・資産解放)』の赤い文字が毒々しく点灯した。


籠が、わずかに沈んだ。


次の瞬間――身体が置いていかれるような強い加速度とともに、籠全体が一気に上へと引き上げられた。


上。


今夜ずっと、透真は地下へ、地下へと這いずり降りてきた。


降りて、隠れて、閉ざして、降りて。


だが今、このビルの心臓部が「金庫の資産」を上層階の主人の元へ自動で届けるための太い血管に乗って、意思とは無関係に強烈に逆流している。


透真はモップの柄を握ったまま、壁の手すりをもう一度強く握り直した。


この猛烈な上昇の先に何が待っているのか、誰の元へ連れて行かれるのかは分からない。


でも、モップの柄の握り方は同じだ。 身体が覚えている「手順」だけは、どれだけ状況が狂っても、決して自分を裏切らない。


---


排煙の唸りの底で鳴っていた ゴウン が、少しずつ遠くなっていく。


そして画面の端に、白い文字が一行だけ出た。


夜明けまで、残り90分。


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