表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/30

人質フロア突入

1


金属の箱が、止まった。


上昇の引っ張りが消える。

耳の奥に残っていた ゴウン が、遠くでほどけていく。


操作盤は 62 を指していた。


透真は自分が押した階数を思い出せなかった。

押していない。押す余裕がなかった。閉ボタンを押しただけだ。


扉の脇に、小さなプレートがあった。


ASSET LIFT / 62F RECEIVING


受け取り階。


最初から決まっている行き先。

その荷物と一緒に運ばれただけだった。


扉が開いた。


赤じゃない光が入ってきた。


白い非常灯。割れたガラスの反射。

甘い酒の匂いと、消毒液の匂いが混じっている。


ラウンジに続くホールだった。


---


2


その先に、人がいた。


倒れたソファ。寄せられたテーブル。地図と端末と救急キット。壁際には防災操作盤。

窓際に固まる影がいくつも重なっている。誰も座っていない。座れる椅子がない。


透真は一歩も出なかった。


出る前に、床を見た。


ワックスの光。乾いている。滑る。

濡れた靴底が触れたら、線が残る。


線が残れば、ここにいた証拠になる。


モップの柄を胸の前に持ち替えた。

構えじゃない。歩く前の持ち方。

音を出さない角度。手が勝手に選ぶ角度。


足裏を「置く」。


踏まない。置く。


音は出なかった。


---


3


「……久住?」


誰かが名前を口にした。

確認の声。


透真は返事をしなかった。


返事をしなくても、視線が集まる。


汚れた制服。黒ずんだ手袋。指先のふやけ。爪の間の鉄の粉。

洗剤と埃と金属の匂いが混じったままの人間。


救急キットを抱えた女がいた。柊つぐみ。


その目が、透真の手に止まった。

言葉より先に、手首を見ている目だった。


テーブルの端に立つ男。御影隼人。

武器の柄に触れていた指が、透真のモップの柄を見て一瞬だけ離れた。


壁際から一人、前に出る。スーツの皺が深い男。

九条玲司。


九条は透真の顔より先に、エレベーターを見た。


扉。操作盤。プレート。


出口の形を先に確認する目だった。


「久住透真。……よく来ました」


穏やかな声。


穏やかな声ほど、命令の形をしている。


「そこから出て、こちらへ。指示に従ってください」


透真の喉が硬くなった。


声を出した瞬間に、ここでも地図になる。

人間の前でも、例外じゃない。


胸ポケットが微かに震えた。


布越しに、白い文字が滲む。


「声出すな」

「そいつ、命令文の側だ」


短い。切れている。ユウの文字。


透真は九条を見たまま、言った。


「……帰る」


小さい声。


でもラウンジは静かすぎて、全員に届いた。


その一語が落ちた瞬間、空気が止まった。


---


4


ラウンジの奥の防火扉が、音もなく押された。


人間の押し方じゃない。

力の入り方が違う。扉の重さを感じない動き。


冷たい空気が床を這って流れてきた。


そこに、二足で立つ影がいた。


四足の重さじゃない。二足なのに、重い。

肩が広い。胸が厚い。動かないのに圧がある。


顔の位置に、赤い灯が二つ。

目じゃない。目の形をした赤。


影が首を少し傾けた。

その動きだけが、滑らかだった。


「交渉」


声が出た。


温度がない。息の湿り気がない。


廊下で聞いた「久住」と同じ種類の声だった。


形だけが正しい声。


九条が一歩前に出た。


「我々は――」


赤い灯が九条を飛ばして、透真に止まった。


止まった瞬間、透真は分かった。


匂いだ。


センサーを拭いた洗剤の残り香が、まだ手袋に残っている。


拭いたから動いた。


動いたから、ここに来た。

来たから、嗅がれた。


赤い灯が、ゆっくり細くなるみたいに見えた。


「見つけた」


---


5


白波ユウの画面に、ラウンジが映った。


ノイズはある。でも上層はまだ見える。


透真の胸ポケットの隙間から、彼が対峙しているものが初めてはっきりと映し出された。


スーツの男の顔。承認者、九条。

そして、その奥から現れた二足の怪物。


コメント欄が壁にならない。

壁を作る前に、全員が見てしまった。


> 上だ

> あのスーツ…承認者のやつ?

> え、二足のやついる

> 売る気かよ

> 返事すんな!!!


ユウはマイクを使わず、二行だけ重ねた。


「黙れ」 「名指しされても返すな」


続けてもう一行。


「ログは外に出てる。顔も映った。ここから先は“記録”で殴れる」


ユウのその宣言を待っていたかのように、コメント欄の熱が沸点を超えた。


> これ脅迫と人身御供の証拠映像になるぞ

> 裏取りいらないレベル。このまま記事にする 逃がさねえぞ承認者

> ミラー職人:保存完了。顔、声、完全一致。


---


6


九条が一歩前に出た。


怪物を恐れていないわけではない。だが彼の頭の中では、この絶望的な状況すら「処理すべきインシデント」に変換されていた。


「……交渉を提案します」


穏やかな声。


九条は怪物の赤い灯を見据えて、言った。


「我々はこのビルの管理者です。あなた方が求める『資産』の権限を持っている。……そこの清掃員を引き渡します。好きに処理して構わない。代わりに、我々の安全を保証しなさい」


御影が噛みついた。


「引き渡すって何だ! ふざけるな!」


九条は表情を変えない。


「合理的な判断です、御影くん。彼は下請けの末端であり、当社の正規の資産ではない。ここで彼を『損失』として計上しても、企業のダメージは最小で済みます」


透真は黙って聞いていた。


怒りはない。ただ、冷たい空洞が広がるだけだった。 自分の命が、向こうの帳簿の上で「最小のダメージ」として処理されていく。


九条の口は止まらない。


「むしろ、彼一人の犠牲で我々特務探索部や幹部が助かるなら、彼にとっても名誉な貢献のはずだ」


その言葉が落ちた瞬間、白波ユウの画面のコメント欄が、怒りで真っ白に染まった。


> は????? 損失だと? 人間だぞ!

> 名誉な貢献wwwブラックの極みwww

> これが上のやつの言うことかよ

> マジで終わってんなこの会社

> 頼む清掃員ニキ、こいつら全員置いて逃げてくれ


城戸マサキが怒鳴る。


「てめえ、血も涙もねえのかよ!」


九条は冷たく返した。


「感情で動けば全員死にますよ。私は、この場の『正解』を選んでいるだけです」


そして、壁際で防災操作盤の前に立つ星野に向かって、無機質に命じた。


「星野さん。念のため、彼を今付で『契約解除』とするログを残しなさい。社外の人間に起きた事故であれば、会社の労災手続きも省ける。……その後、彼らを防火シャッターで隔離してください」


星野の指が震えた。


端末を握り潰しそうなほどに。


だが、そのやり取りのすべてが、透真の胸ポケットから全世界へ流出していることに、九条だけが気づいていない。


二足の影が、ゆっくり一歩踏み出した。

床は鳴らない。鳴らないのに、空気が動いた。


怪物は九条の言葉など聞いていなかった。


ただ、順番に嗅いでいるだけだった。


---


7


背中で、エレベーターの扉が静かに動き始めた。


閉まる音がしない。


音がしない閉まり方ほど、逃げ道を奪う。


透真は横にずれた。壁を背にする。

清掃員が客の動線を避ける癖。今は、視線の動線を避ける癖。


九条が、壁際の防災操作盤の前にいる星野に向かって言った。


「星野さん、防火シャッターを。彼らを隔離してください。危険です」


透真と怪物をまとめて切り捨てて、自分たちの安全圏を作ろうとする指示。


だが次の瞬間、ラウンジの出入口の防火シャッターが「一斉に」降り始めた。


ガシャン——! 一枚。

ガシャン——! 二枚。

ガシャン——! 三枚。


星野が操作したのではない。彼女の手は止まったままだ。


透真が地下で弄った設備連動の余波か。

それとも、この二足の影が持つ“魔力”がシステムを歪めたのか。


分からないまま、音だけが逃げ道を数えた。


誰も隔離されない。九条たちも含めた全員が、この空間に丸ごと閉じ込められた。


透真の背後で、エレベーターの扉が最後の一センチを吸い付くように閉じた。


ボタンは光らない。


全部、閉まった。


---


扉が閉まり、逃げ道が消えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ