折れかける
1
右から短い吸気。 左から短い吸気。 同じタイミングで鳴った。
透真は黒い制御盤に手をつき、倒したレバーから指を離せなかった。
離した瞬間、膝の笑いが全身に回って、床に崩れ落ちそうだった。
排煙の唸り。
スプリンクラーの雨。
自分で作った環境音のはずなのに、耳が鋭くなる。
雨の隙間で、金属を叩く音が三回。
カン、カン、カン。
防火扉の縁を叩いている。
隙間のある場所を探す叩き方。
透真は端末の画面を、三歩離れた位置から目の端だけで見た。
数字が進んでいる。
04:24
SCHEDULE : 04:30
残り六分。
六分で、扉が持つか。
六分で、下が開くか。
答えを置かない。
置くと、それが“事実”になる。
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2
水を踏む音がした。
バシャ。
もう、避けない。水たまりの深さを確かめるような、試す一歩。
次の一歩も、同じ水の上を真っ直ぐに踏み抜いてくる。
バシャ。
透真の背中が、芯から冷えた。
水を避けなくなっている。学習して罠を迂回しているのではない。罠ごと踏み潰すという「強襲」への完全な切り替えだ。
そして、排煙の唸りのずっと底のほうで、もう一つの低い音が続いていた。
ゴウン……ゴウン……
遠いのに、絶対に止まらない。
止まらないものは、確実に近づいてくる。この巨大な金庫の蓋が開く時間が。
透真の膝が、カクンと不自然に折れ曲がりかけた。
いわゆる、膝が笑うというやつだ。笑う音は出ない。
出ないのに、身体を支えるための筋肉の力だけが、砂がこぼれるように抜け落ちていく。
座るな。
透真は奥歯を噛み締めた。 ここで一度でも床に座り込んでしまえば、二度と立ち上がれない。
立ったまま、足裏から這い上がってくる痺れを無理やり無視した。
だが、無視しようとすればするほど、痺れは明確な形を持って上がってくる。ふくらはぎ、膝、腰、そして背骨へ。
血液の代わりに、重い鉛が血管を回っているような絶望的な疲労。
その時だった。
鼓膜を打ち据え続けている排煙の重低音が、ふと、眠気の音に聞こえた。
一定の低音。深夜清掃のシフトがすべて終わり、誰もいなくなったビルで、機材の電源を落とした後に最後に聞く、あの安心できる空調の音。
天井から降り注ぐスプリンクラーの激しい雨音が、休憩の音に聞こえた。
夏の現場の帰り道、突然の夕立に降られて、軒先の庇の下で「五分だけ」と目を閉じて雨宿りをしたときの、あの遠い音。
自分で自分の首を絞めるために動かしたはずの異常な設備音が、極限の疲労によって、透真の脳内で「日常の安全な記憶」としてすり替わっていく。
休んでいい。もう仕事は終わったんだと、身体の記憶が甘く囁きかけてくる。
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3
胸ポケットが震えた。
画面は見ない。
でも白い文字が、ノイズの隙間で欠けたまま刺さった。
寝るな
三文字だけで十分だった。
十分すぎた。
透真はペーパータオルを一枚握って潰した。
指の関節が痛んだ。
痛みで目が開く。
目が開くと、時間が戻る。04:30が戻る。
右と左の短い吸気が、また揃う。
揃っているということは、聞き合っている。
聞き合っているということは、近い。
近いのに、まぶたが重い。
重いのに、ここから動けない。
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4
透真は一歩だけ下がった。
一歩だけなら返事になりにくい。
床が滑った。
濡れた靴底が、水膜の上で逃げた。
転ばなかった。
転ばなかったが、膝が完全に笑った。
次は手が笑う。
手が笑ったら、レバーが戻る。
手袋を見た。濡れている。
水膜が指の感覚を奪っている。
手袋も“面”だ。触れているなら、そこだけ動かせる。
透真は刻印板を手袋の甲に当てた。
「……洗浄」
表面の水膜が薄くなった。
指の感覚が少し戻る。
戻った分だけ、痛みも戻る。
痛い。だから、動く。
黒い制御盤のレバーを見た。
倒れている。倒れているのに、安心にならない。
扉の外で、叩き方が変わった。
カン、……カン。
揃っていない。
揃っていないのに、意味がある。
“見つけた”時の叩き方だった。
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5
白波ユウの画面は、ほとんど砂嵐に呑み込まれていた。
映像が数秒おきに白く飛び、戻るたびに、画面の奥に映る透真の姿勢が、少しずつ低く、崩れていくのが分かる。
コメント欄の有志たちからの『◆』だけが、焦燥の色を濃くしてユウの目に刺さる。
> ◆救急:あの姿勢はまずい。極度の眠気と足の震えだ。転倒が一番危ない!
> ◆無線:妨害周期がさらに短縮してる。オーバーレイの文字も落ちる可能性あり
> ◆設備:扉の面じゃなく、隙間のパッキンを見てる。あの縁叩きは“探り”だ!破られるぞ!
ユウはキーボードに手を置いた。
長文を打とうとして、やめた。
長い文字は今の乱れた電波では届かない。それに、二行もいらない。
今の彼を繋ぎ止めるのに必要な言葉は、たった一つだけだ。
寝るな
たった三文字。 祈るようにキーを叩き、送った。
届いたかどうかは分からない。
画面はまた無情なノイズに包まれ、透真の姿はかき消された。
分からないから、ユウは自分が今できる唯一の仕事に戻る。
透真の姿を覆い隠すコメントの“壁”を、絶対に止めないこと。
その見えない壁だけが、今、彼と透真を繋ぐ唯一の命綱だった。
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6
制御盤のすぐ横の暗がりに、壁と同化したような小さな扉があった。
清掃用具入れだ。
どんなに厳重な隔離された研究区画であっても、人が歩く以上、埃は落ちる。
だから必ず掃除の道具が置かれている。
透真は制御盤の脇の壁にもたれかかったまま、震える片手を伸ばして、その扉を押して開けた。
中に、一本の柄が立てかけられていた。
先端のヘッドモップが外された、ただのアルミと樹脂の拭き取り棒。
だが、その長さと太さ、そして手に馴染むひんやりとした質感は、透真が毎日使い続けているモップの柄とまったく同じだった。
透真はそれを引き抜いた。
狭い空間で、柄の尻が壁に当たりそうになる寸前で、手首を返して角度を変える。
音が出ない角度。
何百回、何千回とモップを持ち上げてきた手が、脳で考えるより先に勝手に選んだ、完璧な角度。
柄を握り込んだ瞬間。
透真の手が、ピタリと“定位置”を決めた。
親指の置き場。
残りの四本の指の巻き方。
重心の支え方。手のひらへの力の伝え方。
それは、剣士が剣を握る構えではない。
清掃員が、これから現場の汚れを落とすための、絶対的な握り方だった。
冷たい柄の感触が、手のひらから神経を伝って全身に駆け巡る。
手が戻る。
腕の力が戻る。
丸く折れ曲がりかけていた背中が、一本の芯が通ったようにピンと伸びる。
背中が伸びると、笑いかけていた膝が少しだけ黙り、しっかりと床を踏みしめた。
極限の恐怖と疲労で折れかけていた一人の人間の身体が、ただの一本の「掃除道具」の手触りによって、再び再構築されていく。
廊下の外で、水を踏む音がまた二つ、大きく響いた。
バシャ、バシャ。
もう一切の躊躇がない、罠を避けない歩き方。
排煙の唸りの底で、ゴウン、という金庫の音が、いよいよ最終段階に入ったことを告げている。
04:30が来る。 敵が雪崩れ込んでくる。
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透真は、モップの柄を握り直した。




