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22/30

折れかける

1


右から短い吸気。 左から短い吸気。 同じタイミングで鳴った。


透真は黒い制御盤に手をつき、倒したレバーから指を離せなかった。

離した瞬間、膝の笑いが全身に回って、床に崩れ落ちそうだった。


排煙の唸り。

スプリンクラーの雨。

自分で作った環境音のはずなのに、耳が鋭くなる。


雨の隙間で、金属を叩く音が三回。


カン、カン、カン。


防火扉の縁を叩いている。

隙間のある場所を探す叩き方。


透真は端末の画面を、三歩離れた位置から目の端だけで見た。

数字が進んでいる。


04:24

SCHEDULE : 04:30


残り六分。


六分で、扉が持つか。

六分で、下が開くか。


答えを置かない。

置くと、それが“事実”になる。


---


2


水を踏む音がした。


バシャ。


もう、避けない。水たまりの深さを確かめるような、試す一歩。


次の一歩も、同じ水の上を真っ直ぐに踏み抜いてくる。


バシャ。


透真の背中が、芯から冷えた。


水を避けなくなっている。学習して罠を迂回しているのではない。罠ごと踏み潰すという「強襲」への完全な切り替えだ。


そして、排煙の唸りのずっと底のほうで、もう一つの低い音が続いていた。


ゴウン……ゴウン……


遠いのに、絶対に止まらない。


止まらないものは、確実に近づいてくる。この巨大な金庫の蓋が開く時間が。


透真の膝が、カクンと不自然に折れ曲がりかけた。


いわゆる、膝が笑うというやつだ。笑う音は出ない。

出ないのに、身体を支えるための筋肉の力だけが、砂がこぼれるように抜け落ちていく。


座るな。


透真は奥歯を噛み締めた。 ここで一度でも床に座り込んでしまえば、二度と立ち上がれない。


立ったまま、足裏から這い上がってくる痺れを無理やり無視した。


だが、無視しようとすればするほど、痺れは明確な形を持って上がってくる。ふくらはぎ、膝、腰、そして背骨へ。


血液の代わりに、重い鉛が血管を回っているような絶望的な疲労。


その時だった。


鼓膜を打ち据え続けている排煙の重低音が、ふと、眠気の音に聞こえた。


一定の低音。深夜清掃のシフトがすべて終わり、誰もいなくなったビルで、機材の電源を落とした後に最後に聞く、あの安心できる空調の音。


天井から降り注ぐスプリンクラーの激しい雨音が、休憩の音に聞こえた。


夏の現場の帰り道、突然の夕立に降られて、軒先の庇の下で「五分だけ」と目を閉じて雨宿りをしたときの、あの遠い音。


自分で自分の首を絞めるために動かしたはずの異常な設備音が、極限の疲労によって、透真の脳内で「日常の安全な記憶」としてすり替わっていく。


休んでいい。もう仕事は終わったんだと、身体の記憶が甘く囁きかけてくる。


---


3


胸ポケットが震えた。


画面は見ない。

でも白い文字が、ノイズの隙間で欠けたまま刺さった。


寝るな


三文字だけで十分だった。

十分すぎた。


透真はペーパータオルを一枚握って潰した。

指の関節が痛んだ。


痛みで目が開く。

目が開くと、時間が戻る。04:30が戻る。


右と左の短い吸気が、また揃う。


揃っているということは、聞き合っている。

聞き合っているということは、近い。


近いのに、まぶたが重い。

重いのに、ここから動けない。


---


4


透真は一歩だけ下がった。

一歩だけなら返事になりにくい。


床が滑った。

濡れた靴底が、水膜の上で逃げた。


転ばなかった。

転ばなかったが、膝が完全に笑った。


次は手が笑う。

手が笑ったら、レバーが戻る。


手袋を見た。濡れている。

水膜が指の感覚を奪っている。


手袋も“面”だ。触れているなら、そこだけ動かせる。


透真は刻印板を手袋の甲に当てた。


「……洗浄」


表面の水膜が薄くなった。

指の感覚が少し戻る。


戻った分だけ、痛みも戻る。

痛い。だから、動く。


黒い制御盤のレバーを見た。

倒れている。倒れているのに、安心にならない。


扉の外で、叩き方が変わった。


カン、……カン。


揃っていない。

揃っていないのに、意味がある。


“見つけた”時の叩き方だった。


---


5


白波ユウの画面は、ほとんど砂嵐に呑み込まれていた。


映像が数秒おきに白く飛び、戻るたびに、画面の奥に映る透真の姿勢が、少しずつ低く、崩れていくのが分かる。


コメント欄の有志たちからの『◆』だけが、焦燥の色を濃くしてユウの目に刺さる。


> ◆救急:あの姿勢はまずい。極度の眠気と足の震えだ。転倒が一番危ない!

> ◆無線:妨害周期がさらに短縮してる。オーバーレイの文字も落ちる可能性あり

> ◆設備:扉の面じゃなく、隙間のパッキンを見てる。あの縁叩きは“探り”だ!破られるぞ!


ユウはキーボードに手を置いた。


長文を打とうとして、やめた。


長い文字は今の乱れた電波では届かない。それに、二行もいらない。


今の彼を繋ぎ止めるのに必要な言葉は、たった一つだけだ。


寝るな


たった三文字。 祈るようにキーを叩き、送った。


届いたかどうかは分からない。


画面はまた無情なノイズに包まれ、透真の姿はかき消された。


分からないから、ユウは自分が今できる唯一の仕事に戻る。


透真の姿を覆い隠すコメントの“壁”を、絶対に止めないこと。


その見えない壁だけが、今、彼と透真を繋ぐ唯一の命綱だった。


---


6


制御盤のすぐ横の暗がりに、壁と同化したような小さな扉があった。


清掃用具入れだ。

どんなに厳重な隔離された研究区画であっても、人が歩く以上、埃は落ちる。

だから必ず掃除の道具が置かれている。


透真は制御盤の脇の壁にもたれかかったまま、震える片手を伸ばして、その扉を押して開けた。


中に、一本の柄が立てかけられていた。


先端のヘッドモップが外された、ただのアルミと樹脂の拭き取り棒。


だが、その長さと太さ、そして手に馴染むひんやりとした質感は、透真が毎日使い続けているモップの柄とまったく同じだった。


透真はそれを引き抜いた。


狭い空間で、柄の尻が壁に当たりそうになる寸前で、手首を返して角度を変える。


音が出ない角度。


何百回、何千回とモップを持ち上げてきた手が、脳で考えるより先に勝手に選んだ、完璧な角度。


柄を握り込んだ瞬間。


透真の手が、ピタリと“定位置”を決めた。


親指の置き場。


残りの四本の指の巻き方。


重心の支え方。手のひらへの力の伝え方。


それは、剣士が剣を握る構えではない。


清掃員が、これから現場の汚れを落とすための、絶対的な握り方だった。


冷たい柄の感触が、手のひらから神経を伝って全身に駆け巡る。


手が戻る。


腕の力が戻る。


丸く折れ曲がりかけていた背中が、一本の芯が通ったようにピンと伸びる。


背中が伸びると、笑いかけていた膝が少しだけ黙り、しっかりと床を踏みしめた。


極限の恐怖と疲労で折れかけていた一人の人間の身体が、ただの一本の「掃除道具」の手触りによって、再び再構築されていく。


廊下の外で、水を踏む音がまた二つ、大きく響いた。


バシャ、バシャ。


もう一切の躊躇がない、罠を避けない歩き方。


排煙の唸りの底で、ゴウン、という金庫の音が、いよいよ最終段階に入ったことを告げている。


04:30が来る。 敵が雪崩れ込んでくる。


---


透真は、モップの柄を握り直した。


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