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18/30

配電盤は王様

1


電気室の盤は、低く唸っていた。


乾いた唸り。巨大な金属の箱の中で、見えない力がずっと回っている音。埃とオゾン、そして微かな絶縁体の焦げる匂い。

それは、死に絶えたかに見えたこのビルの中で、唯一残された「生きている」匂いだった。


透真はその盤の前に立って、レバーに指先を置いたまま、動けなかった。


扉の外。


カン。


一回。


次が来ない沈黙が、重い水のように扉の向こうで溜まっていく。

力任せの打撃ではない。蝶番の芯、金属の薄い部分を的確に叩いて、強度の限界を測るような、知的な硬い音だった。


透真の目が、盤のラベルを走る。


『防火』

『排煙』

『照明』

『非常電源』


巨大なビルの、心臓と血管。 どれを倒しても、必ず返事が来る。

返事が来る前に、物理的な距離と壁を作らなければ、あの静かな打撃音に追いつかれる。


最初は、防火だ。


透真は手袋を外した。


汗でふやけた指先が空気に触れる。感覚が鈍ったゴム越しでは、レバーの反発力を読み違える。間違えれば違う系統が落ちて、致命傷になる。


素手になった指で、レバーを握った。鍵を回す手と同じ形で。

回さない。重いバネに逆らって、押し倒す。


防火。


レバーが落ちた。


バチン。盤の中で接点が切り替わる重い音。

その直後、遠くで、ビルそのものがひとつ低く鳴った。


ガシャン――!


金属が金属を叩き、床と壁の骨組みを伝って巨大な震動が電気室まで届く。


B1の東側、そしてサービス廊下の分岐点で、重さ数トンの防火シャッターが一斉に落ちた音だ。


この音が、廊下を物理的に切り分ける。切り分けられた向こう側の空間は、もうすぐにはここへ干渉できない。


透真は一拍も置かずに、指を次へ滑らせた。


排煙。


倒す。


低い回転音が、一段太くなった。


空気が暴力的に引っ張られる。吸い込みの轟音が、ダクトを通じて廊下全体に広がる。

環境音が爆発的に増える。自分の荒い呼吸も、衣擦れの音も、この轟音の中になら薄く混ざる。


三本目に指を置く。


照明は飛ばす。明るくすれば、床に残った水滴や足跡の線が、相手に完全な地図を与えてしまう。


代わりに。


非常電源。


倒す。


遠くで、緑色の誘導灯の気配が濃くなった。

見えないのに分かる。設備は、音と空気の動きで、今どうなっているかを教えてくれる。


扉の外は静かだった。 静かすぎて、胃の腑がねじれるほど怖い。


---


2


白波ユウの画面は、猛吹雪のようになっていた。


白い粒。等間隔で波打つ周期的な潰れ。 映像は残っているのに、音が無残に削られる。戻ったと思った瞬間に、また真っ白に欠ける。


「……くそっ、強度が上がってる」


ユウはキーボードを叩く手を止めなかった。手のひらに嫌な汗をかいている。


コメント欄は、ユウが指示した“壁”のままだ。


『清掃員は62Fへ向かっている』 『清掃員は62Fへ向かっている』


同じ嘘の文字列が滝のように流れ続け、透真の現在位置を示す断片を深い底へ沈めている。

だが、その壁の奥で、有志の専門家たちからの『◆』だけが、焦燥の色を濃くして浮き上がってきた。


> ◆設備:シャッター連動音確認。B1をブロック化してる!迂回させて時間稼げる

> ◆防災:排煙を上げると環境音が増える。発声はその中でやれ

> ◆電気:非常電源で誘導灯優先は正解。照明全復旧は足跡が出る

> ◆無線:妨害、周期短い。外部からのジャミングじゃない。内部起点の可能性


ユウはテキストを二行に削った。長い文字は画面を光らせ、敵に位置を教える。


「防火→排煙→非常。順番合ってる」

「次、扉に触るなら排煙の音が太い瞬間だけ」


送信した直後、画面が一瞬だけ白く飛んだ。


戻るまでの数秒が、永遠のように長い。


---


3


電気室。


扉の外で、音が戻った。


カン。


一回。さっきより近い。


叩く位置が、取っ手から蝶番側に寄っている。扉の構造を知り尽くした者が、いちばん脆い支点を探り当てた叩き方だった。


透真は盤から離れられない。


離れたら、防火も排煙も“元に戻る”。

戻った瞬間、遮断した廊下がつながってしまう。


だから、ここで“時間”を足す。


透真はズボンのポケットから養生テープを引き出した。


扉の内側に張り付き、蝶番のわずかに浮いた隙間にテープを何重にも差し込む。


指先で強く押さえたまま、排煙の回転音が一番太くなる瞬間を待った。


来た。


「……接着」


声は短く、轟音に混ぜて叩きつける。


テープが繊維レベルで金属に噛みつく。

剥がれにくくなる。


完全な封鎖じゃない。魔族の力なら破れる。

だが、こじ開けるまでに三秒、五秒という「重い時間」を支払わせることができる。


買った数秒の間に、扉の外の気配が変わった。


……ズ、ズ。


床を擦る音。爪の音じゃない。


鼻先を床にすりつけ、なぞっている音だ。


匂いが薄いなら、床の線を読む。


水で作った線。乾いた線。歩幅の線。


透真の背中に冷たい汗が流れた。


シャッターで塞いだと思っていた。だが、シャッターが落ちる前に、すでにこの扉のすぐ外まで“入り込んでいた”個体がいる。


それも、これまでの罠を学習した、いちばん賢い奴が。


---


4


62階ラウンジ。


遠い振動が床を微かに揺らし、テーブルの上の空のワイングラスがチリンと鳴った。


柊が咄嗟にグラスを押さえる。その手が、小刻みに震えていた。


城戸が壁から背を離し、立ち上がった。


胸元のIDカードが揺れ、『特務探索部』の文字が赤い非常灯を反射した。


「……おい、今の振動なんだ。下で何かが爆発したのか?」


星野が、青ざめた顔で端末の画面を見つめたまま答える。


「防火シャッターです。B1系統で複数作動。それに、排煙の回転数が異常上昇しています」


御影が、ワインボトルの首を握りしめたまま九条を見る。


「下が動いた。魔族じゃない、あの清掃員だ。あいつが設備を動かしてる」


九条は、微かに眉を動かしただけで、一拍の沈黙を置いた。


彼が考えているのは、下の生存者の安全ではない。この状況が外部にどう「記録」されるか、その見え方だけだ。


「設備が、エラーで自動作動した可能性がありますね」


「自動じゃありません」 星野が、震える声で遮った。


「手動入力のログが残っています。誰かが主幹盤を直接操作しています」


ラウンジに重い沈黙が降りた。


九条は自分のネクタイの結び目に手をやり、位置を直した。直す必要などないのに。 それから、極めて穏やかな、温度のない声で言う。


「……なら、なおさら“救助命令”は必要です。我々が彼を制御しようとし、対応しているという記録が残ります」


城戸が激昂し、テーブルを蹴り飛ばした。


「記録って何だよ! あいつが今、下で死にかけてんのに、こっちの見え方の記録かよ!」


九条は答えなかった。 三秒。この狂った部屋の中では、三秒の沈黙は永遠のように長かった。


---


5


ユウの画面に、盤の端が一瞬だけ映った。


胸ポケットのカメラの角度がずれて、意図せず拾ってしまった文字。


『R-SEC』 『LAB』


コメント欄の壁の中から、専門家の◆が鋭く刺さる。


コメント欄の壁の中から◆が刺さる。


> ◆設備:研究区画っぽい。封鎖系の特殊な設備が絡むことがある

> ◆無線:妨害の周期、研究区画のセキュリティ起点なら説明つく

> ◆(匿名):光る線が出る場所なら触るな。映すな。そこは管轄外だ。


匿名の◆だけ、名乗らない。

ユウの指が一瞬止まった。


匿名。


魔族はコメントなど打たない。視聴者の専門家は必ず分野を名乗る。


では、誰が「管轄外」などという言葉を使う?


「……監視してやがるのか。上の連中」


ユウは奥歯を噛み締め、その匿名のコメントを拾わなかった。


拾えば透真に送ることになる。送れば、透真が“そこ”を意識してカメラを向けてしまう。


ユウは二行だけ送った。


「R-SEC見えた。研究区画の可能性」


「近づくな。位置だけ覚えろ」


送信した直後、ノイズが爆発的に増えた。周期が短くなる。


妨害システムが、こちらの手を完全に覚え始めている。


---


6


電気室。


扉の外で、叩く音が止んだ。


止んだほうが、何倍も恐ろしい。


排煙の吸い込みの轟音の奥底で、別の音が這うように聞こえてきた。


……カリ。 ……カリ、カリ。


蝶番の隙間。金属を擦る細い、ひどく冷たい音。 薄く硬い爪か、刃のようなものを、接着で固めた隙間にゆっくりと差し込み、削り落としている。


透真は見ない。見れば、恐怖で目が縛られ、手順が止まる。


透真は盤の前に戻り、ふと、盤の横の奥まった壁の不自然さに気づいた。


ただの壁だと思っていた場所に、もう一枚の「扉」があった。


鉄ではない。分厚く、重厚な、まるで金庫の隔壁。鍵穴も、取っ手すらない。


普段は完全に闇に沈んでいるはずのその隔壁の表面に、無数の「線」が走っていた。


複雑に絡み合い、円を描き、中心が巨大な“目”のように結ばれた幾何学模様。


透真が非常電源を入れた影響か、赤い非常灯すら届かない場所なのに、その線だけが、自ら発光するように青白く淡く滲んでいた。


封印の紋章。


透真は息を呑んだ。 名前を知らない。でも、触ってはいけないものの気配だけは分かった。


清掃員は知っている。


薬品棚、封印シール、「触るな」と書かれた赤い盤。 触ってはいけないものは、文字を読む前に、匂いと手触りと空気が先に警告してくる。


今、目の前にあるこの隔壁は、このビルの中で最も「触れてはいけないもの」だと、現場の勘が叫んでいた。


扉の外で、カリ、と一際大きな音が鳴った。


蝶番が、限界を超えて軋む。


---


7


透真は盤に背を預けた。


唸りが、背骨を伝わってくる。


膨大な電力が駆け巡る、金属の熱。それが、冷え切った透真の背中を温める。


今夜、初めて“生きている機械”に触れている気がした。


だが、この温かさは鎖だった。


ここを離れて盤を奪われれば、シャッターは上げられる。排煙も止められる。逃げ道は塞がれ、音の壁は消える。


逆に言えば。 ここを握り続けている限り、ビルの環境は透真の思い通りに動く。


廊下を遮断し、視界を奪い、音で迷わせることができる。


(役員でもない。エリート探索者でもない。魔族でもない)


透真は、荒い息を吐きながら、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。


(現場の人間は知っている。このビルで一番偉いのは、配電盤だ)


扉の外で、空気が擦れた。


吸気じゃない。


獲物を確実に仕留めるための、“待っている”沈黙。


そして——


蝶番のところで、ゆっくりと金属が鳴った。


接着の魔法を破り、こじ開けるための、静かで暴力的な力の音。


透真はレバーに指を置いた。 倒すものはもう倒してある。


それでも指を置いた。指を離したら、この空間の主導権が終わる気がした。


背中の盤の熱を感じながら、透真は奥の隔壁を見た。


---


点検扉の奥の線が、透真が近づいた分だけ、もう一段だけ濃く滲んだ。


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