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金庫

1


電気室の扉の外で、音が変わった。


カン、という打撃音ではない。


……カリ、カリ。


蝶番の隙間を、細く硬いものが執拗に撫でる音だ。


叩いて壊すのではない。

接着で固めた隙間に極薄の刃か爪を差し込み、物理的に削り落として「入る」ための音。


力任せの獣ではなく、構造を理解した知的な解体の音だった。


透真は盤の前に立ったまま、自分の足の裏の感覚を確かめた。


痺れている。痺れているのに、痛くない。


痛くないのは、極度の緊張と疲労で末端の神経がもう鈍り始めているからだ。


扉の外が一瞬、不自然に静かになった。


止まった——と錯覚した瞬間、


ガンッ!


今度は鍵穴側。 位置を急激に変えた。蝶番が無理なら、シリンダーの機構ごと破壊しようとする容赦のない一撃。


分厚い扉が内側にたわみ、貼っていた養生テープが悲鳴を上げて引きちぎれそうになる。


時間が、ない。


透真は盤の隅、ひっそりと独立した小さなラベルへ視線を走らせた。


『B1-SEC』


区画シャッター。一般の防火用ではなく、特定のブロックだけを物理的に隔離する重防郭の系統。


これを落とせば、もう一枚、鉄の壁を作れる。


だが、落とせば巨大な作動音が鳴る。鳴れば、完全に自分の現在位置の「地図」を相手に渡すことになる。


しかし今は、隠れることよりも、敵の牙から数メートルの距離を稼ぐことが優先だった。


レバーを倒した。


ガシャン——!! ズズズズズ……!


すぐ近くの廊下で、分厚い金属の塊が床に叩きつけられる暴力的な衝撃が、コンクリートを伝って透真の脛を強く打った。


扉の外の殺意に満ちた気配が、その地鳴りに驚いたのか、一度だけ途切れた。


途切れたその一拍のあいだに。


盤の奥——電気室のさらに奥まった壁にある、黒い点検扉の内側が、また青白く淡く滲んだ。


線が絡んで円になり、中心が巨大な目みたいに結ばれた幾何学模様。


さっきは、ただ“滲んでいる”だけだった。


今は違う。揺れが速い。


赤い非常灯すら届かない暗がりの中で、その線だけが生き物の脈拍のように明暗を刻んでいる。


透真は目を逸らそうとして、コンマ数秒、遅れた。


視線が、その青白い光にべったりと引っ張られる。


「それ」が何なのか分からない。分からないが、あれは人間が触れていい設備ではないと、細胞が警鐘を鳴らしている。


引っ張られるのを自覚した瞬間、透真の喉がカラカラに硬くなった。


手を強く握り込む。


指が動く。まだ動く。自分の身体の主導権は、まだ自分にある。


透真は、無理やりその光から目を逸らした。


---


2


胸ポケットの奥で、ドローンが震えた。


画面は見ない。

白い文字だけが、滲む。


「扉、時間できた」

「下で“重い音”が動いた。ビルの奥が動いてる」


透真は息を薄くした。


下。

もっと下。


扉の外にいるものは、ここへ入るために音を出している。

でも、さっき聞こえた低い音は、この部屋の外じゃない。

このビルの内側だ。


——守ってるのは、この扉じゃないのか。


背中を盤から離した。

温かさが一瞬だけ剥がれ、皮膚が寒くなる。


盤の前に立っていれば、防火も排煙も握れる。

でも盤に縛られているあいだに、下で何かが開いたら——。


盤の倒れたレバーの根元に、養生テープを何重にも巻いた。

自分が手を離すためじゃない。

敵がここに入ってきて、レバーを元に戻そうとしたとき、この粘着が“数秒”を奪うように。


排煙の音が太い瞬間。


「……接着」


噛む。

強度じゃない。時間だけ増える。


増えた時間で、透真は床にしゃがんだ。

ケーブルダクトの蓋。ネジ。錆び。


排煙の吸い込み音に、息を混ぜる。


「……解体」


ネジが掌に戻る。

蓋がわずかに浮いて、熱い空気が上がってきた。


隙間に肩を入れた。

音が出ない速度で、身体を滑り込ませる。


背後で——


カリ。


扉の外。

蝶番がまだ撫でられている。


透真は戻らなかった。


---


3


ユウの画面は、白い粒が増えていた。


壁は続いている。

同じ文が流れ続け、位置が沈む。◆だけが浮く。


> ◆設備:R-SEC/LABは研究区画。普通のテナントじゃない

> ◆無線:妨害の周期、研究区画寄りだと説明つく

> ◆現場:B1主幹は“扉”じゃない。系統の束。触れるなら握れる

> ◆(匿名):そこは“資産”。映すな


匿名の◆は短い。

短いのが、逆に怖い。


ユウは拾わなかった。

拾えば、透真の手が寄る。

寄った瞬間に、何かが起きる気がした。


代わりに二行だけ作る。


「研究区画、敵の目的かもしれない」

「妨害の出どころも近い。近づくな——でも覚えろ」


送信。


送信した直後、画面が一拍真っ白になる。

戻るまでの秒が長い。


戻ったとき、映像はもう電気室の風景ではなかった。

暗く、狭い空間。古いケーブルの束が画面を擦っている。

透真はどこかのダクトに潜り込んでいた。


ユウの指が止まりかけて、止めなかった。

止めたら考えてしまう。考えたら遅れる。


ユウは壁に命令を出す。


「壁、止めるな」

「◆以外はコピペのみ」


文字の壁が厚くなる。

厚くなるほど、透真は見えなくなる。


見えなくなるほど、怖くなる。


---


4


水瀬さやは、凄まじい速度でキーボードを叩き、記事を更新していた。


場所は書かない。社名は出さない。


でも、今この瞬間、あの配信の中で起きている「構造」の真実は書ける。


上層部からの『救助命令』が割り込み、叫び声が出た瞬間に、清掃員の状況は劇的に悪化した。


次に映像に映ったのは、地下の配電盤と、『R-SEC/LAB』という研究区画の断片。


そして、不自然なほど統制された「匿名からの警告コメント」。


“救助”という言葉が出ているのに、肝心の救助隊は一切動いていない。


動かない理由がある。 外に出せない理由がある。


理由があるなら、あのビルが守ろうとしているのは「人間」じゃない。


水瀬は、記事のトップに新しい見出しを据え置き、太字で装飾した。


『これは会社じゃない。金庫だ』


更新ボタンをターン、と叩く。


数秒でSNSへの引用が回り始め、スクショが拡散され、切り抜き動画が爆発的に増殖していく。


金庫。 その二文字が、人々の「可哀想な清掃員」という同情を、「悪辣な企業秘密」への疑念と怒りへと塗り替えていく。


世論が、後戻りできない方向へ勝手にうねり始めていた。


---


5


62階ラウンジ。


星野の端末には、冷酷なまでに正確なログが走り続けていた。


B1防火シャッター作動。排煙強制ファン回転数MAX。非常電源への切り替え。


そして——地下深く、研究区画のシステム系統における異常な電力の揺れ。


九条が、星野の肩越しに端末のシステム入力欄へ手を伸ばし、指を置いた。


何かを打ちかけて——思いとどまり、バックスペースで消した。


だが、消しきれていなかった。


入力欄の端に、たった一文字だけが残っている。


『資』


星野はそれを見て、喉の奥が凍りついたが、何も言わなかった。


ここでそれを指摘すれば、九条の冷酷なロジックに自分も完全に巻き込まれる。


九条は、乱れた髪一つない完璧な姿勢のまま、穏やかな声で言う。


「……星野さん。オーバーレイで全館放送を出します。『危険区域への侵入禁止。研究区画へ近づくな』と」


城戸が、苛立ちに耐えかねて噛みついた。


「近づくなって、誰に言ってんだよ! 今、下にいるのは魔族と、逃げ回ってる清掃員だけだろ!」


九条は城戸の怒号を、まるで遠くの鳥の鳴き声でも聞くように無視した。


「記録上、我々が危険を警告し、侵入を止めたことになります」


御影が、ワインボトルを置く音もなくテーブルに置き、低く濁った声で言った。


「……止めたことにして、何を守るつもりだ。九条さん」


九条は答えなかった。


沈黙が三秒。


彼にとって、守るべきものは最初から一つしかない。それをわざわざ口にする必要などなかった。


部屋の隅で、柊が救急キットの中の医療用テープを無意識に強く握りしめ、そして握り直した。


今、この包帯やテープを使うべき相手は、この安全なラウンジにはいないことだけが、彼女には痛いほど分かっていた。


星野は端末を裏返さない。 表のまま、両手で強く握る。


システムに残るログも、入力欄に残された『資』の文字も、すべては消せない証拠として残り続ける。


---


6


ケーブルダクトの中は狭かった。


ケーブルの束が背中を擦る。

被覆が古い。触れるだけで粉が落ちる。粉は匂いになる。


透真は息を薄くして進んだ。


膝と肘で体重を分散させる。

現場の動き。天井裏と同じ動き。


下から、また低い音。


ゴウン……


前より近い。

近いということは、自分がその音に向かって降りているということだ。


透真の手が一拍止まりそうになって、止めなかった。

止まれば匂いが溜まる。溜まれば返事になる。


ケーブルが左右に分かれて、空間が少し開けた。


その先に、小さな扉があった。


プレート。


R-SEC


鍵穴がある。


ポケットの中の、ペーパータオルに包んだ金属片に指を触れた。

折れた鍵。もう鍵じゃないもの。


鍵穴を見た。

詰め物はない。

ここだけ、塞がれていない。


扉の隙間から、冷たい空気が流れてきた。

電気室の冷たさと違う。もっと深い。もっと古い。


その空気の中に、匂いが混じっていた。


甘い。

花みたいで、花じゃない。

生き物の匂いなのに、温度がない。


扉に手を伸ばさなかった。

伸ばした瞬間、指が勝手に“掃除の手順”を探してしまう気がした。


扉の向こうで、何かが一度だけ軋んだ。


開いた音じゃない。

開こうとして、途中で止まった音だった。


---


扉の向こうで、もう一度だけ“重い金属”が動き、空気が少しだけ吸い込まれた。


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