第四話 船と猫と山羊
イレーネ達の乗船となる予定の「ザインセッチ」号は、全長20m強ほどのキャラベル・ラティーナだ。14世紀に作られたような、初期型のキャラベルに近いこの船は、乗り手がおらずに廃棄処分寸前となっていた船を、格安で譲り受けて修理したものである。修理費用はそれなりにかかったが、それでも新たに船を買うよりは大分安く済んでいる。
近頃は、交易船の多くにキャラベルよりも一回り大きなキャラック船が用いられることも増えた。冒険家でキャラベルを愛用する者は未だに多いが、古風な二本マストのキャラベル船である「ザインセッチ」号はその中でも異彩を放っていると言っても過言ではなかった。キャラベル船であっても3本マストに一つ以上の横帆を用いるのが主流であり、2本マストに2つのラテン・セイル(三角帆)を用いている「ザインセッチ」号はよく目立つだろう。「目立つ」と言うのは他者に覚えてもらいやすいという反面、覚えられてしまいやすいという欠点を兼ね備えているとも言える。
帆船に用いられる帆は大きく縦帆と横帆に分けることが出来る。ラテンセイルは、三角帆と言われるように三角形の帆であり、縦帆の一種である。風上方向への推進が行い易く、旋回性を重視した性能になっている。平たく言えば、逆風に強く順風にはあまり強くない。風の方向が一定であることが多く、帆一杯に風をはらみながら進む外洋航行には向かず、地中海のように風向きの変わりやすい、比較的沿岸に近いところを航行するのに向いているといえる。地中海沿岸でよく見られる漁師の乗っている船は、ラテンセイルを用いている場合が比較的多い。イレーネの目標の一つである、「父親を超える商人になる」といった点から見れば、ある程度の資金を集めるまでの凌ぎの船ということになるだろう。この船では改造を施したところで、外洋航行をするには心もとない。
しかし、初めての自分の船ということもあり、イレーネはこの船を出来る限り大切に扱おうと心に決めていた。世は船を「女性」と例える。常に男たちが側に要るとか、化粧をするかのように船体にペイントをするとか、様々な理由があるが、イレーネにとっては海に出る上での数少ない女性の「友人」であると考えていた。自分を有るべき方向に導いてくれる、自分に居場所を作ってくれる、どんな時でも自分を迎え入れてくれる。そんな大事な「友人」であると考えていた。イレーネにとって都合の良い部分しか見ておらず、傲慢ささえも感じられる解釈の仕方ではあったが、彼女のうちにある見えない不安が虚構の「友人」としての側面を強くしていたのかもしれない。
そんな想いを一方的に寄せられる「ザインセッチ」号であったが、今日は遂に大海原への船出に至る大事な日を迎えることとなった。本格的な出港準備を行う直前、イレーネは甲板に乗組員を集め、彼女の心構えを水夫長が連れてきた水夫達に説いていた。
「いいかしら? この船に乗るからには私が船長よ。私の決めた法には従ってもらうわよ」
「へ~い」
だらしなく列を作っている船員達は一斉に気のない返事をする。海の男達は豪胆さが売りだ。細かいことが苦手である。もちろん決まり事なんて大嫌いである。何かしらに縛られるのは性に合わないのだ。
「はい、全員8ペンス徴収ね」
「はぁー?」
イレーネはオレロン海法を持ち出し、船員たちに牽制を加える。この時代には、アマルフィ海法とオレロン海法が主に使われ、船乗り達の道標となった。8ペンスというのは、何かしらの行為が船長の気に障った時に、船員が船長に払う罰金の額である。現在の価値に直せばおおよそ6~7000円といったところか。
「冗談よ。反抗的な態度は見えないようにやりなさい」
「で、船長が決めた法ってのはなんでさあ? それを言わないことには話は始まりやせんぜ」
船員たちのもっともらしい疑問に、イレーネは少し得意げになりながら話し始める。
「基本的には、海法に従ってもらうけど私からは3つほど挙げさせてもらうわ。一つ、仲間内で金品の窃盗や横領を行った者は鞭打ち36回。二つ、船内での賭博の禁止。三つ、当直以外の者は午後9時消灯、それより後の飲酒は甲板だけで行って頂戴。他にも色々言いたいことはあるけど、良心に従ってね。以上、解散!」
「うぇーい」
解散の号令とともに、水夫たちはゾロゾロと持ち場へと散っていく。
「30点、てところだな」
一人残ったイレーネにいつの間にやら現れた水夫長が声をかける。
「何の実績もないやつが高圧的な態度は良くないな。最初はちょっとしたことから少しずつ少しずつ信頼を積み重ねていくんだ。『俺についてこい!』なんてやれるのは余程の実績があるやつか、直前に大演説を行った大革命家くらいだ。それから、話が薄い。短いのは良いけどな。ま、これから勉強していきゃいいさ。
誰だって最初は初心者だからな。学校じゃ学べないことのほうが多いんだ」
「はい、頑張ります……ひゃあっ」
水夫長の話を真剣に聞いていたイレーネだったが突然悲鳴を上げ、そのまま水夫長の方へと倒れこむ。水夫長はイレーネを支えようとするが、とっさのことで踏ん張りきれずにそのまま一緒に甲板へ倒れる。仰向けに倒れた水夫長の上に、イレーネがうつ伏せでかさばっている状態となった。気がつけばお互いの吐息がかかる距離に顔が近づき、イレーネは顔を赤らめながら思わず逸らすように横を向く。
「大丈夫かお嬢……って上に乗ってるのはなんだ?」
水夫長はイレーネを心配したが、その興味は既にイレーネの背中の上の物体に注がれていた。
「イタタ……。何か後ろから急に背中にぶつかってきて。んー、背中が重いです。何か乗ってます?」
水夫長に覆いかぶさったまま、ありのまま起こったことを話そうとするイレーネだったが、ふと微かに生臭い匂いがすることに気がついた。間もなく、何やら柔らかいもので頬をペチペチと叩かれたかと思うと、今度は頬にフワフワチクチクとした感触が伝わってくる。
「猫……?」
イレーネを突き倒しビンタし頬ずりをしたのは1m近くある猫だった。
「わーっ、かわい――」
「だ、大丈夫かっ? ほら、早くどけって、迷惑してるだろ」
そう言って現れたのはシドだった。シドの声に反応した猫は一度イレーネの方を向き直り、少し名残惜しそうにしながらも甲板へと飛び降りる。
「ほらっ、イレーネも早く立ちなって。水夫長さん、重いだろ」
「あっ、水夫長さんすみません。ってシド、なんか怒ってる?」
「お、怒ってねえよ! た、ただ心配だっただけだよ!」
顔を真赤にして反論するシドを見て、微笑を浮かべる水夫長だったがふと疑問に満ちたような顔になってシドに質問する。
「その猫、お前のか?」
水夫長はイレーネに撫でてもらいながら、至福の表情を浮かべる猫を瞥見する。
「はい、そうですよ。お母さん猫が死んじゃって、こいつだけ連れて来てたんです」
「でも、そいつ」
「元は野生ですよ。この子のお母さんは野生のヤマネコでしたから。元はアルバ(スコットランド)の猫です」
「そうか……」
水夫長は、何やら気まずそうな顔をしながら口ごもる。その反応に気がついたシドは、苦笑しながら水夫長を気遣う。
「気にしなくていいですよ。追い出されたとはいえ、俺にとってはアルバは故郷であることに変わりありませんから」
「そう言ってもらえると助かるよ。ははっ、何で俺が慰められてるんだ」
頭を掻きながら今度は水夫長が苦笑する。
「じゃあ、まだやることあるんで。失礼します。ほら行くぞっ」
シドはいつの間にやらイレーネの膝の上に頭を置いてくつろいでいる猫を引っ張っていく。猫は必死に抵抗をするが、首根っこを掴まれて為す術もなく引きずられる。その表情は玩具を取り上げられた子供のように見えた。
その様子を微笑を浮かべながら眺めていたイレーネだったが、シドの姿が消えたのを確認して水夫長に疑問を投げかける。
「あの、シドが追い出されたって?」
「お前もまだ準備があるだろう? 早く済ませろよ」
水夫長は取り合わずに背を向ける。丁度そこへやって来た他の水夫から山羊を受け取り、肩に担ぎながら家畜庫へと連れて行く。イレーネはここまであからさまにはぐらかされたため、これ以上の追求ができなくなってしまった。
――また、いずれ。本人の口から出るまでは聞かない方がいいのかな。
そう結論づけ、水夫長の言われた通りに再び準備に取り掛かろうとするが、その前に水夫長の背に向けて、解決できるであろう疑問をぶつける。
「水夫長さん!」
「ん? なんだ? まだ用か?」
「シドの連れてきた猫は、ネズミやゴキブリの対策になりますけど何で山羊担いでるんですか? 誰かに頼まれた記憶もないですし、交易品ってわけでもないですよね?」
その問いに対して、水夫長は山羊を甲板におろし、イレーネの方へと歩み寄ってくる。そして、少し屈むと、イレーネの耳元へと口を近づけ囁く。
「……の………………理のためだよ」
「――!?」
イレーネの顔は、恥ずかしさのあまり顔が爆発しそうなくらいに真っ赤になる。その顔を見て、水夫長はまたしても高らかに笑いながら山羊を担いで船倉へと降りていく。なんだかわからないが、ものすごく負けた気分に包まれたイレーネだった。




