第1話 私の結婚式ではなかった
新婦の名前を先に読んでいたら、そのファイルを開かなかったかもしれない。
九月四日、式場リーヴェルの事務室で、私は引継票の一行目を見ていた。朝倉悠真様。隣の欄に、相沢美緒様。どちらも、変換を確かめなくても書ける名前だった。
担当希望者の欄には、篠原紗季。私の名前があった。
「篠原さん、確認してほしい案件があるの」
式場の運営会社で担当者をまとめる水野主任が、そう言って渡した薄いファイルだった。
私はリーヴェルから婚礼の制作を請け負う、フリーのウェディングプランナーだった。
表紙を閉じ、机へ置いた。音を立てたくなかったのに、角が少しだけ鳴った。
「このお二人とは、仕事以外の関係があります」
主任は手元の予定表から顔を上げた。
「朝倉さんは、五月に婚約を解消した相手です。相沢さんは、その頃まで、私の友人でした」
それぞれの名前のあとに何を続けるかは、考えなくても出てきた。どの程度まで話す必要があるかだけが、分からなかった。
主任は自分の机にあった別の書類を伏せた。
「相談室が空いているから、移りましょう」
廊下へ出る前に、私はもう一度ファイルを見た。
十一月十六日、六十名予定。前担当の退職に伴う引継ぎ。契約は、私が知らない間に済んでいた。
私はファイルを持ち上げた。
空いた相談室で、主任は入口に近い椅子へ座った。
私は向かいへ座り、鞄を足元へ置いた。いつもなら先に客の椅子を整える場所で、自分の椅子だけが少し遠かった。
「担当者は、まだ決まっていません」
主任が最初に言った。
「今日は、引き受ける返事をする場ではないです。お二人が顔合わせに来る前に、事情を確認させてください」
「二人とも、来るんですか」
「三時に。あなたを希望した理由も、その時に聞くつもりでした」
壁の時計は、一時を少し回っていた。
私は昼食の袋を、事務室の自分の荷物と一緒に置いてきたことを思い出した。今から食べられるかどうかは、考えたくなかった。
「私が、ここで仕事をしていることは、知っています」
主任は頷いた。
「別れた時期と、お二人が付き合い始めた時期が、重なっています。知ったあと、婚約を解消しました。今も、個人的な整理が全部終わったわけではありません」
責めるための言い方にならないようにしたら、ひどく簡単な話になった。
五月、美緒の送ってきた写真の端に、悠真の車に置いてあった物が写っていた。尋ねた時、彼女は四月からだから、と答えた。だから何なのか、そこから先はよく覚えていない。
覚えている言葉もあった。
いつも仕事の方が大事だっただろう。
悠真は私が何を知ったかより先に、私の帰りが遅かった日を挙げた。
「事情は分かりました」
主任の声で、私は顔を上げた。
「仕事を受けるかどうかと、私的な精算は分けます。こちらの契約や請求で、あなたの問題を解決することにはできません」
「はい」
「逆に、お二人から頼まれたことを、昔の関係を理由に、あなた個人が引き受ける必要もありません」
私は頷いた。
片方なら、すぐに理解できた。仕事で仕返しをしてはいけない。それは分かる。もう片方は、聞いてから、少し時間が掛かった。
「別の方へ、引き継ぐこともできますか」
「できます。今日、顔を合わせるのが難しければ、私が説明します」
その返事が来ると、断ればいいのだと、ようやく思えた。
私はファイルを机の上で開いた。
断る前に、一度だけ、中身を確かめたかった。
料理の候補、装花の案、披露宴の進め方。
その間に、見覚えのある企画書が挟まっていた。港の小さな店と作る婚礼。花店と焼菓子店、それから紙の席札を作る店。遠方から来る人へ、この街の物を持って帰ってもらう。
三月、私が運営会社へ提案した企画だった。
「この実施枠なんですね」
「ええ。前の担当からは、お二人とも、そこを気に入っていると聞いています」
主任は企画書をこちらへ向け直した。
私の名前は、最後のページにあった。提案者として、小さく。
あの時は、自分の式でも使いたいと思っていた。けれどこれは私たちの結婚式専用に作った物ではない。地元の店と、次の仕事もできる形にしたくて、見積の相談を重ねた企画だった。
花店の小野さんは、忙しい合間に、季節の違いが分かるよう写真を選んでくれた。
私はそのページだけを押さえた。
「協力店への連絡は、どこまで進んでいますか」
「日程の確認まで。個別の内容は、まだ詰めるところが残っています。あなたが外れても、会社から連絡します」
「私が受けないと、店に迷惑が掛かる、ということではないんですね」
「そういう引き受け方は、しないでください」
主任ははっきり答えた。
私は企画書から指を離した。
迷惑を掛けたくない。それは本当だった。でも、自分のした仕事が、あの二人の都合のよい思い出になるところを、知らずにいたくないという気持ちもあった。
「少し考えてもいいですか」
「もちろん。今日の顔合わせも、出るかどうか、先に決めましょう」
私は時計を見た。
二人が来るまで、まだ時間があった。
事務室へ戻り、私は昼食の袋を開けた。
おにぎりの端が、袋へ少しくっついていた。外していると、向かいのスタッフが、温めますか、と尋ねた。私は大丈夫と答え、一口食べた。
塩の味がした。
食べられたことが、少し意外だった。
六月から八月にかけて、受ける仕事を減らしていた。
予定が空けば眠れると思ったが、空いた時間へ、別れた日の会話が戻ってきた。だからといって、毎日何組もの幸せな予定を聞く体力もなかった。
今月から、少しずつ戻すつもりでいた。
戻った最初に、あの二人の名前がある。
私は袋の口を丸め、それから主任へ声を掛けた。
「顔合わせには、出ます。担当を受けるかどうかは、今日は返事をしません」
「分かりました。先に、私から伝えます」
主任は予定表へ短く書いた。
何を希望され、何を私へ頼もうとしているかを、自分でも聞きたかった。
そう説明すると、主任は頷き、途中で私が話を引き取ります、と答えた。
洗面所で、手を洗った。
鏡の中の服は、今朝選んだままだった。濃い色のパンツに、白い襟。走ったりしゃがんだりしても困らない服だった。
口紅を塗り直しかけ、やめた。きれいになって見返すために来たのではない。けれど薄くなった口元をそのままにすることが、自分らしさでもなかった。
結局、いつもの色を少し足した。
ロビーへ出ると、港の方の窓から光が入っていた。
受付の花をよけるようにして、美緒がこちらへ顔を向けた。
先に笑ったのは、彼女だった。
「紗季、久しぶり」
以前と同じ速さで、私の名前を呼んだ。
隣の悠真は片手で鞄を持ち直した。こちらの顔を一度見てから、主任へ頭を下げる。
「今日は、ありがとうございます」
客としてなら、きちんと挨拶のできる人だった。
そのことを、私は知っていた。
付き合い始めた頃、彼は私が遅くなると分かると食事を取っておいてくれた。冷蔵庫の手前に置いて、電話では、帰ったら食べなよと言った。
親切だったことまで、嘘にしなくてよかった。あとで私を責めたことも、それで消えるわけではなかった。
「お越しいただき、ありがとうございます」
私は二人へ頭を下げた。
おめでとうございます、という言葉は、そのあとに続かなかった。
主任が相談室へ案内し、私は一歩後ろを歩いた。美緒の靴音が、廊下へ軽く響いた。
相談室の扉の前で、美緒が振り返った。
「企画書、見たよ。やっぱり、紗季のがいいと思って」
彼女は本当に褒める時と同じ顔をした。
私は返事を選び、まず、まだ担当は決まっていません、と言った。
悠真が少し眉を上げた。
「でも、ここに来てるんだよね」
「今日は、顔合わせです。お話を聞いてから、会社と確認します」
そう答えると、彼はそこまで大げさにしなくても、というように笑った。
その笑いを、私はよく知っていた。
明日の朝でもよかった用事を、今夜中に私が済ませると決めた時にも、同じ顔をしていた。
「紗季なら、分かると思って頼んだんだ」
私は扉の取っ手から手を離した。
主任が横に立った。私の代わりに返事をする前に、こちらを一度だけ見た。
まだ、答えを持っていなかった。
悠真は私が黙った理由を確かめずに続けた。
「仕事だから、できるよね」




