怪獣予報のある街
骨を穿つ者たち(解体作業員の視点)
キィィィィィィン――。
鼓膜の奥を直接針で抉るような、不快な高周波の超音波カッターの音が、今日も三浦半島の臨時解体処理場に響き渡っていた。
「おい、4番ライン! 手を止めるな! そこはカテゴリー1の胆嚢の近くだ、傷つけるなよ! 体内に濃縮された過塩素酸系の有毒ガスが噴き出すぞ! 防護マスクの気密をもう一度確かめろ!」
作業班長の大吾は、泥と青黒い怪獣の体液にまみれた重装防護服の中で、喉を枯らしながらインカム越しに怒号を飛ばした。
大吾の仕事は、最前線の防衛線で仕留められた怪獣の死体を解体し、国家や巨大重工企業が求める「怪獣資源」へと細分化することだ。ニュースの経済番組では、怪獣資源を「我が国を救う新時代のゴールドラッシュ」「不死鳥のごとき日本経済の奇跡」などと華々しく持て囃しているが、その最末端であるこの解体現場は、ただの血生臭い、命のすり潰し合いが行われる地獄に過ぎなかった。
目の前の巨大な解体ドックで、何本もの強靭なワイヤーに吊り上げられているのは、二日前に相模湾防衛線で10式改に仕留められたという、体長約六メートルのカテゴリー1だ。
かつては人類を震撼させた絶望の異形も、死んでしまえば大吾たちにとっては「効率よく捌き、金に換えるべき巨大な肉の塊」に過ぎない。
「班長、1番ラインの防弾甲殻の剥離、終わりました。トラックへ積み込みます」
「よし、次へ回せ。筋肉繊維のバイオ燃料精製ラインも急がせろ」
大吾は指示を出しながら、超音波鋸を握る手の手元に視線を落とした。
怪獣は人類の天敵だが、同時に人類が汚した地球を掃除する「環境調整装置」でもある。彼らが陸に上がってくるのは、人間が排出した工業廃棄物や重金属の汚染物質を摂取し、自身の強靭な内臓で無害な血肉へと変換するためだ。つまり、人類の都市は奴らにとって最高の「餌場」だった。
「チッ……本当に、何でも喰いやがるな……」
切り開いたカテゴリー1の胃袋から、ドロドロに溶けかけたドラム缶と、どこかの沿岸工場から流出したであろう工業用プラスチックの残骸が溢れ出てくるのを見て、大吾は吐き気混じりにつぶやいた。そこには、アメリカの巨大化学メーカーのロゴが無残に変形して焼き付いていた。皮肉なことに、大吾たちの高額な給料も、この化け物が人間の出した最悪のゴミを喰って、それを超新素材という名の富に変えて死んでくれたおかげで支払われているのだ。
だが、この「怪獣バブル」の恩恵をすべて受け取れるのは、大吾のような沿岸国――それも日本人の正規作業員だけだった。
「……おい、そこ。何をもたついている。鋸の角度が甘いぞ」
大吾は、自分のすぐ下で怪獣の肋骨の切断作業に手間取っている大柄な男の背中に声をかけた。
男の名はイワン。海を持たない中央アジアの内陸国から、命からがら「出稼ぎ」としてこの処理場にやってきた労働者だった。彼は重い防護服の中で、荒い息を吐きながら超音波鋸を必死に押し当てていた。
「すまない、班長。この個体の骨、前のやつより硬い。全然、刃が入らない……」
イワンのインカムから返ってきたのは、ひどくなまったぎこちない日本語だった。大吾のような正規の日本人作業員と違い、彼ら内陸部からの労働者は、ろくな教育も受けずに危険手当の安いただの「使い捨ての作業員」として買い叩かれている。
「角度は三十度だと言っただろう。力任せに押すな、振動の周期に合わせろ」
大吾はイワンの手元を乱暴に掴み、正しい角度へと修正させた。
「いいか、イワン。お前たちの国に怪獣資源がないのは同情するが、ここは戦場だ。もたついて神経核を傷つけたら、有毒ガスでお前だけでなく、このライン全員が死ぬんだぞ」
「分かってる、分かってるよ、大吾班長……。でも、俺たちの防護服、日本人のより薄い。マスクのフィルターも、もう一週間換えてもらってない。少し、頭が痛いんだ」
イワンは防護ガラスの向こうで、弱り切った目を大吾に向けた。
大吾の胸に、一瞬だけ鋭い罪悪感が突き刺さった。それは紛れもない事実だった。怪獣の被害がない代わりに富から見捨てられた内陸国は、自国の若者を「傭兵」や「危険区域の労働者」として沿岸国に輸出することでしか、怪獣素材の配給を受けられない。
そしてこの処理場を経営する日本の大手重工企業の関連会社は、日本人作業員には最高級の気密服と高額な危険手当を支給する一方で、イワンたち外国人労働者には型落ちの薄い防護服を着せ、文字通り肉の壁、消耗品として扱っていた。
昼の休憩を告げるサイレンが響き渡り、超音波の駆動音がようやく止まった。
防護服のヘッドセットを脱ぎ、処理場の隅にある薄暗い休憩所に集まった労働者たちへ、現物支給の昼食が配られる。
日本人作業員の前には、本物の米と、怪獣のクリーンな純粋アミノ酸から作られた高級な合成肉の弁当が並ぶ。一方で、イワンたち出稼ぎ労働者の前に置かれたのは、プラスチックのパックに入った不気味な灰色のジェル状ペースト――通称「怪獣プロテイン・マッシュ」だった。怪獣の廃棄組織を化学処理して無理やりカロリーだけを凝縮した、薬臭い最低限の代物だ。
「……クソが。こんな犬の餌みたいなもん、いつまで食わせる気だ」
イワンの同郷の若い労働者が、ペーストを床に吐き捨てて母国語で毒突いた。
「静かにしろ。これでも、国にいる家族に送る分の仕送りはちゃんともらえる。文句を言えば、明日にでもクビにされて、防衛線の『傭兵』に回されるぞ」
イワンが暗い顔でそれを宥め、灰色のペーストを機械的に口へと運び込んでいく。その姿を、少し離れたベンチから見ていた大吾は、高級な弁当の味を感じなくなっていた。
大吾は安タバコに火をつけ、紫煙を吐き出しながらイワンに近づき、自分の弁当についていた本物の缶コーヒーを一本、彼の足元に転がした。
「ほら。それを飲んで、午後からはシャキっと動けよ」
イワンは驚いたように顔を上げ、泥に汚れた手で缶コーヒーを拾い上げると、消え入りそうな声で言った。
「ありがとう、大吾班長。……日本人はいいな。怪獣が来て、街が壊されて、たくさん人が死んだのに、それでも世界で一番金持ちで、いい服を着て、美味しいものを食べている」
「……何が素晴らしいもんか」
大吾は乾いた声で笑った。
「俺たちはな、あの海にいる化け物どもに生かされてるだけさ。奴らが上がってきて、それを殺して、死体を切り刻んで、その肉を貪り食うことでしか、もうこの国は生きていけない。俺も、お前も、あの化け物の死体に群がってるただの鉄の蟻だよ。食うか食われるか、それだけだ」
大吾は振り返り、再びワイヤーで吊り上げられていく怪獣の巨体を見上げた。
海から上がってくる化け物を殺し、その肉を剥ぎ取り、それを分け合うことで保たれる歪んだ平和。そこにはミリタリーの華々しいプライドも、国家の崇高な理念もない。ただ、怪獣という巨大な絶望が生み出す「富の格差」に reproductive(再生産)されながら、泥塗れの日常をただ繋ぎ止めるだけの、冷え切った人間の足掻きがあるだけだった。
燐光の空模様(学生の視点)
ウゥゥゥゥゥゥゥ――ッ、ウゥゥゥゥゥゥゥ――ッ。
低く、地を這うような不気味なサイレンの音が、午後のうららかな教室に響き渡った。
「――はい、全員静かに。相模湾第3エリアにカテゴリー1の上陸を想定。落ち着いて、速やかに机の下に入りなさい」
壇上でチョークを持っていた担任の女性教師が、まるで「教科書の何ページを開きなさい」とでも言うかのように、全く抑揚のない声で告げた。
高校二年生の蓮は、小さくため息をつきながら、慣れた動作で椅子の下から黒い物体を引き出した。それは『カテゴリー1対応型・耐圧簡易ヘルメット』。怪獣の死体から剥ぎ取られた強靭な防弾甲殻をリサイクルして作られた、今や日本の全小中高校で支給が義務付けられている防災グッズだ。
教室内で悲鳴を上げる生徒は、誰一人としていない。女子生徒の一人は、ヘルメットを被る際に前髪が崩れるのを気にしてスマートフォンの画面で手直ししている。男子生徒たちは、机の下で小声で今夜のオンラインゲームの約束を続けていた。
ガガガガガ、ドスン。
重苦しい金属音と共に、教室の窓の外側を、厚さ数センチの灰色の装甲板――『耐熱防弾アクティブ・シールド』が覆い、外の景色を完全に遮断した。怪獣が放つ熱線や、防衛隊の砲撃による破片から生徒を守るための、校舎一体型の防御システムだ。
「おい蓮、今日放課後マック寄ろうぜ」
「バカ言え。今日の怪獣予報、上陸確率『高』だろ。寄り道してたら防衛隊の警戒区域に引っかかって帰れなくなるぞ」
蓮は机の脚を掴みながら、乾いた声で友人の拓海に返した。
これが、週に一度行われる『定期怪獣上陸避難訓練』の光景だった。
最初の怪獣が海から現れ、世界が一変してからすでに三十年近くが経過している。
蓮や拓海たちのような十代の若者は、生まれた時から「怪獣がいる地球」しか知らない世代だ。かつて、最初の出現から十数年の間は、訓練のたびに日本中がパニックに陥り、街には悲鳴が満ちていたという。しかし、怪獣が「適切な火力を集中すれば殺せる生物」であり、かつ「地球環境を維持するために滅ぼしてはならない存在」だと世界が理解し、社会がその脅威に対応したインフラを構築してからは、恐怖はただの「退屈なルーティン」へと姿を変えた。
「窓面装甲板、閉鎖完了。地下シェルターへの誘導を開始します。A組から順に中央階段へ進んでください」
校内放送の指示に従い、蓮たちはヘルメットを被ったまま一列になって廊下を進む。
装甲板が閉まる前に一瞬だけ見えた窓の外の景色――かつては美しい青さを見せていたという相模湾の海面は、今や昼間でも怪獣たちの生体活動による不気味な燐光を放つ緑色に変色している。沿岸には、高さ二十メートルを超える巨大な灰色の防護コンクリート壁が、万里の長城のように延々と築かれていた。怪獣の死体から得られた超高強度コンクリート素材を惜しみなく投入し、三十年の歳月をかけて国家が築き上げた、人類の生存境界線だ。
学校の地下深く、分厚い耐圧隔壁の向こうにある避難シェルターに入ると、ひんやりとした空気が蓮たちを迎えた。
数百人の生徒がコンクリートの床に座り込む。壁の大型モニターには、お馴染みのグラフィックが映し出されていた。
『――続いて、本日の環境省発表、怪獣警戒予報をお伝えします』
きらびやかな衣装を着たお天気お姉さんが、笑顔で日本地図のパネルを指し示す。
『本日、相模湾沖の海水温は微増。カテゴリー2以上の巨大熱源反応はありません。ただし、潮位の関係上、三浦半島および湘南沿岸部では、夕方一七時頃から夜間にかけて【カテゴリー1】の上陸確率が「高」となっています。沿岸部の警戒レベルは3。防衛隊の10式改による分散迎撃体制が敷かれますので、該当地域の一時帰宅困難エリアに指定された高校の皆さんは、学校側の指示に従って延泊、または内陸ルートでの下校を選択してください』
「あーあ、やっぱり当たった。予報の奴、昨日より確率上げてきやがったな」
拓海が頭の後ろで手を組み、チッと舌打ちをした。
「学校に泊まりかよ。飯、またあの薬臭い怪獣プロテイン・バーだぜ。勘弁してくれよな」
「生きて家に帰れるだけマシだろ」
蓮はシェルターの壁に背中をもたれかけさせた。
「なぁ拓海。うちのじいちゃんが言ってたんだけどさ、昔の人間は、あの海の中に裸で入って泳いでたらしいぜ。江の島とか、夏になると人がごった返してたんだって」
「は? 海で泳ぐ? 正気かよ」
拓海が本気で気味が悪そうな顔をした。
「あんな緑色に光る劇薬みたいな水の中に入るのか? カテゴリー1の幼体とかに足を齧られたらどうすんだよ。狂ってるな、昔の人間は。信じられねえよ」
蓮はそれ以上、言葉を返さなかった。
拓海の言う通りだ。蓮たちの世代にとって、海とは「不気味に光る、化け物が這い出てくる地獄の口」であり、近づいてはならない絶対的な危険地帯だった。天気予報で降水確率を見るように怪獣の上陸確率を確認し、サイレンが鳴れば慣れた足取りで地下へ潜る。翌朝、ニュースで防衛隊が仕留めたカテゴリー1の死体の数を見ながら、何事もなかったかのように満員電車に乗って登校する。
死への恐怖すらも日常の砂に埋もれていく、奇妙に冷え切った適応。
怪獣という絶対的な自然の暴力と、それを利用して肥え太る社会の歯車の狭間で、蓮たちはただ、何の疑問も持たずに「乾いた日常」を生き続けていた。その適応の先にあるのが、人類という種の緩やかな衰退であることにも気づかないまま、シェルターの人工光の下で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
鉄の蟻、泥の戦術(鳴海大佐の視点)
「――これが、上層部の打ち出した『新ドクトリン』の全貌か」
薄暗い横須賀基地の特設第1指揮通信車の中。鳴海大佐は、大型モニターに表示された防衛計画書をスクロールしながら、胸の奥から湧き上がる割り切れない思いを吐き出すように、深く、重いため息をついた。
白髪の混じった短髪に、幾度もの実戦で刻まれた顔の深い傷。五十代半ばを迎えた鳴海は、今やこの防衛隊において、三十年前の「最初の戦い」を現場の少尉として経験した数少ない生き残りであり、退役を数年後に控えた老兵の一人だった。現在は、相模湾西岸の防衛を一手に担う『第11対怪獣機動大隊』の大隊長という、重い職責にある。
三十年前、鳴海がまだ二十代の若き少尉だった頃は、かつての帝国陸海軍の伝統を色濃く残す「大部隊による面防衛」が常識だった。何百門もの自走砲を並べ、地対艦ミサイル連隊を統率し、圧倒的な火力の集中によって怪獣を水際で粉砕する。そこには、国家の盾としての輝かしいプライドと、組織としての圧倒的な美しさがあった。
しかし、カテゴリー2以上の成獣が放つメガワット級レーザーは、その古き良き陸軍の伝統を完璧に粉砕した。直線上の視界にある目標を容赦なく薙ぎ払うあの熱線の前には、大部隊の集中はただの「一網打尽の標的」に過ぎず、防壁をいくら厚くしても無意味だった。
その結果、中央司令部が三十年の試行錯誤の末に崩壊と再生を繰り返して導き出した答えが、この分散型ゲリラ戦術――通称『鉄の蟻』ドクトリンだった。大隊をさらに細分化し、広大な沿岸戦区に「戦車一台と一個分隊(約10名)」単位で兵力をバラ撒き、各個に潜伏させるのだ。
「大隊長。我が大隊直轄の『大隊予備小隊』、三個分隊すべての『10式改』への搭乗および指定位置への潜伏、完了しました。……すでに湾内の電波状態が悪化し始めています。間もなく完全に通信が途絶するでしょう」
指揮車のハッチを開けて入ってきたのは、鳴海の片腕である大隊先任参謀だった。
怪獣という生物は、その体内に膨大な熱とレーザーエネルギーを内包している。そのため、奴らが海中から上陸のために接近してくるだけで、周囲数キロメートル一帯の大気は激しい磁気嵐に見舞われたような猛烈な電波障害に晒されるのだ。無線は激しい雑音に埋もれ、衛星通信すら遮断される。
時間が有れば有線の通信網を敷き通信の断裂を防げるのだが、度重なる侵攻で有線網はズタズタに切斬されており、補修する時間も無かった。
つまり、最前線に散った蟻たちは、戦闘が始まれば「通信不能となり完全に孤立する」ことが最初から決まっていた。
予備小隊を実際に現地で率いるのは、二十代前半の若い小隊長、佐藤中尉だ。彼ら第二世代の若い兵士たちの顔には、鳴海が若い頃に持っていたような、決戦を前にした悲壮感も、極限の緊張感もなかった。それどころか、まるでこれから退屈な夜勤にでも向かうかのような、妙に冷え切った平穏ささえ漂っている。
彼らは皆、生まれた時から「怪獣予報」を聞いて育った。彼らにとって、怪獣との戦闘は恐怖の対象ではなく、ただの「システム化された業務」に過ぎなかった。
予備小隊に配備された三両の『10式改』。かつて陸上自衛隊が誇ったスマートで美しいフォルムは、そこには影も形もない。カテゴリー1の強力な突進に耐えるため、解体場で剥ぎ取られた怪獣の強靭な甲殻が、現地整備中隊の手により全身にパッチワークのように不格好にボルト留めされている。砲塔には、現行の徹甲弾ではなく、至近距離から怪獣の肉組織を内側から融解させるための、巨大な対怪獣焼灼滑腔砲が不釣合いなほど無骨に据え付けられていた。
「大隊予備の佐藤中尉は、新型の性能を盲信しているようだな」
鳴海は大隊長席の背もたれに体を預け、ポツリと呟いた。
「ええ。シミュレーション上、10式改の複合装甲ならカテゴリー1の突進を完全に無力化でき、急所に焼灼弾頭を叩き込めば一発で『処理』できると、若い連中は息巻いています。……彼らは怪獣を、ただの動く資源記号だとしか思っていません」
参謀の言葉に、鳴海は強烈な危うさを感じていた。兵器のスペックを信じ、怪獣という絶対的な自然への恐怖心が完全に麻痺している。
だが、大隊長である鳴海が真に苦悩しているのは、マニュアルに刻まれたドクトリンの「冷徹さ」そのものだった。
部隊を一箇所に集めれば、カテゴリー2の水平レーザーで一網打尽にされる。だから部隊を蟻のように散らせる。マニュアルには『通信途絶下において一箇所が突破された場合、連動するカテゴリー2からの視認・反撃を防ぐため、隣接部隊は原則として現位置を死守せよ』とある。教科書は冷徹に、繋がらない通信を言い訳にして、現場を見捨てることを推奨しているのだ。
だが、現場の状況は生きて動いている。もし一つの分隊の前に、想定を超える数のカテゴリー1が同時に殺到した時、本当に見殺しにせねばならないのか。
「原則は原則だ。だが、現場の命を預かるのは教科書ではない。俺たち現場の指揮官だ」
鳴海は静かに、しかし断固とした口調で言った。
「怪獣のジャミングによって無線が切れる。だからこそ、現場の指揮官の『眼』と『決断』がすべてになる。カテゴリー2の射線と反撃の恐れを計算に入れた上で、繋がらない暗闇の向こうへ増援を送り込むか、あるいは現位置を死守させるか――そのすべての『重い責任』は、この俺にある。部下をただのデータ端切れとして死なせはせん」
老参謀は、鳴海のその言葉に深く頷いた。
これこそが、防衛隊の上層部からも、 shadow(電波障害)の闇に赴く現場の若い兵士たちからも、鳴海大佐が絶大な信頼を寄せられている理由だった。彼は三十年の経験に裏打ちされた冷徹な戦術眼を持ちながらも、決して部下をただの「時間稼ぎのコスト」としては扱わない。状況を見極め、送るべき時には完璧なタイミングで増援を送り、退くべき時には自らが泥を被ってでも部下を引かせる。その的確な判断力があるからこそ、兵士たちは孤立無援の闇の中でも、誇りを持って戦えるのだ。
ザー……ザザッ……ピー――。
通信車のスピーカーから激しいノイズが噴き出し、完全に沈黙した。怪獣の接近による強烈な生体電磁波の証明。同時に、相模湾沿岸一帯にカテゴリー1の上陸を告げる第一警戒サイレンが、物理的な音として外から響き渡った。
指揮車のマルチモニターが、外部の有線光学カメラの映像に切り替わり、暗闇の湘南海岸の熱源データが映し出される。緑色に怪しく光る海を割り、這い上がってくる複数の巨大な影。成獣たるカテゴリー2の影はまだ水平線の彼方、こちらを直接視認できぬ位置に潜んでいる。
画面の向こう、数キロメートル先の暗闇に潜伏する佐藤中尉の予備小隊(三個分隊)のステータスランプが、無線から有線ラインへと変わる。
「佐藤、焦るなよ。お前たちが網を張った場所に敵を引き込め。……もし溢れた時は、俺が必ず次の手を打ってやる、俺の支持を待て!」
鳴海大佐は、暗闇の砂浜で牙を剥く化け物どもを有線モニター越しに睨み据えながら、戦闘団全体の指揮権をその両手に固く握りしめた。叩き上げの老兵としての、誇りと責任をかけた長い、そして孤独な夜が、今また幕を開けた。




