奴が来た
ただこの時のため準備を重ねた、ただ奴をこの世から消すために決戦の時は来た
かってこれ程の密度と精緻さで築かれた、機雷原が存在しただろうか?
これらは破壊するためでなく、ただ人類の天敵たる奴の存在を明らかにする為だけに、作り上げられたものだ。
呼称トリップワイヤー、と何の捻りもなく名付けられた
過去これほどの密度で、かつ精緻な機雷原は存在しなかった。
昭和二十五年の晩秋。
東京湾口、浦賀水道から房総半島を繋ぐ海域は、新旧数千発の係維機雷が敷設された「沈黙の海」と化していた。海面下で信管を研ぎ澄ませる鉄の球体群は、怪物を爆殺するためのものではない。ただの、巨大なブザーだ。
「……こちら、海防艦『択捉』。第一、第二、第三号哨戒区域に異常なし。視界良好、感度なし」戦中に大量建造され、かろうじて解体を免れた海防艦の狭い艦橋で、日焼けした艦長がアメリカ製の民間用高性能無線機のマイクに声を吹き込んでいた。甲板には、応急修理の跡が生々しい12センチ単装高角砲と、対潜用の爆雷投射機。それらはすべて、これから現れるであろう「神」をただ怒らせるためだけに用意された、哀れな玩具に過ぎなかった。司令部からの命令は冷酷極まりないものだった。『敵を発見次第、全火力を以て奴を挑発せよ。面舵、あるいは取り舵で退路を塞ぎ、肉体そのものを弾丸として東京湾内へ引きずり込め。生還の考慮は不要。日本海軍の名誉のために、砕け散るまで戦え』それは戦後、敗戦の汚名を着せられたまま消え去ろうとしていた元海軍兵たちにとって、やんごとなき身の方から直接下された、血を吐くような「最後の意地」の舞台でもあった。
艦長は、上着のポケットに入った直筆の密命の重みを感じながら、鉛色の海を睨み据えていた。その時だった。
ズウゥゥゥゥン。船底を、いや、東京湾の海底そのものを激しく揺るがすような、不気味な地響きが艦橋を襲った。「地震か!?」「違います! 水圧計、異常上昇! 湾口第一ライン、機雷群、次々と――」ボガァァァァン!!! ボガァァァァン!!!浦賀水道の海面が、突如として数十メートルに及ぶ巨大な水柱を連鎖的に噴き上げた。夜の闇を切り裂く、狂気的な炎の連鎖。触海。奴が、肉体を完全なる姿へと再生させたあの怪物が、ついに帰ってきたのだ。
「……機雷原、第一から第五ラインまで全損! 敵の移動速度、推定18ノット! まっすぐ品川、東京方面へ向かっています!」
「キタか……!」同時刻。市ヶ谷の旧大本営跡地に設置された『連合国軍総司令部・東京要塞司令部』の作戦室は、蜂の巣をつついたような怒号とサイレンの嵐に包まれていた。壁一面に設置された巨大な作戦マップには、浦賀水道から東京湾内へと刻一刻と進む「赤い点」が、熱源探知とソナーのプロットによって描き出されていく。
生物学者達の想定が当たった!
奴はやはり、自分の縄張りに引き寄せられている!GHQの将星たちが、恐怖を押し殺しながら地図を凝視する。司令官のデスクの背後、冷たい真鍮のプレートに刻まれたワトソン=ワット卿の金言が、室内の赤い非常灯に妖しく照らされていた。――『戦場には、3番目に良いものを今すぐ送り込め』
「各砲兵大隊へ伝達! 80センチ列車砲『ドーラ』『グスタフ』、および914ミリ超重迫撃砲『リトル・デービッド』、全門に射撃準備命令! 砲身角度を最終のキルゾーンに固定せよ!」
「英空軍第617中隊、アブロ・ランカスター爆撃機群、横田および木更津から順次離陸開始! 腹の下の『グランドスラム』の信管を解除しろ!」
B26に発進命令……空域調整に注意せよ。
「横須賀のアイオワ級戦艦、修理、改装の終わった『大和』『長門』へ暗号電。
『瓶の蓋を閉じよ』。
奴が陸上へ上がるまで、絶対に撃つな!」
戦後という短い復興の合間に、人類が身内で殺し合うために研ぎ澄ませたすべての「暴力の遺産」が、今、司令部の冷徹なコマンド(システム)によって一斉に牙を剥き始めた。
「視界内に巨大な物体を確認! ――出た、出たぞぉ!!」
東京湾内。海防艦『択捉』の探照灯の白い光が、漆黒の海割って姿を現した「絶望」を捉えた。水を滴らせる醜悪な岩のような皮膚、夜の海裏で怪しく輝く背びれ、そして、かつて銀座を地獄に変えた、あの理不尽な神の眼。「……ブルルルッ!」択捉の艦底部で、アメリカ製のソナーが激しいノイズを上げる。奴の周囲の海水は、驚異的な細胞再生の熱によってボイルされ、白い湯気を立てて沸き立っていた。奴の大きさに合わせた兵器。それを試す瞬間が、今、目の前に迫っている。
「全艦、最大戦速! 全火力撃て!、12センチ高角砲、25ミリ機銃、すべての火力をあの怪物に叩き込め! 弾を惜しむな! 奴の顔面を、五感を、狂わせるほどに撃ち続ろ!!」ド、ド、ド、ド、ドン!!!海防艦の全砲火が、至近距離からゴジラの顔面へと叩きつけられた。小さな火花が怪物の皮膚で弾ける。それは神に挑む、あまりにも無力で、しかし命を賭した人類の狂気的な「挑発」だった。
「グオォォォォォォォッ!!!」怪物が、鬱陶しい羽虫を睨みつけるように、その巨大な頭部を『択捉』へと向けた。その背びれが、不気味な青い光を帯びてパチパチと放電を始める。熱線の前兆。「いいぞ、怒れ! こっちを向け! 私たちを殺しに来い! ここは、お前を殺す為の屠殺場の入り口だ!」
艦長は狂ったように笑いながら、手綱を引くように、自らの艦を東京・品川の「キルゾーン」へと直進させた。
背後では、日本海軍の最後の名誉をかけた、他の海防艦たちが自らも巨大な弾丸となるべく、怪物の側面に回り込み始めていた。
そして、昭和二十五年、十一月の嵐の夜。かつてがれきの山からようやく立ち上がろうとしていた、悲劇の首都・東京。
その品川臨海部の土塁と、鉄条網が張り巡らされた要塞線の目の前で、海が、爆発的な勢いで割れた。ズガァァァァン!!!
海防艦たちの決死のデコイ作戦により、完璧に誘導された怪物の巨大な足が、ついに東京の硬い地盤を踏みしめた。
地響きが帝都を揺らし、怪物の凄まじい咆哮が、要塞化された東京に木霊する。「巨大生物、品川より上陸!
これより、作戦名『神殺し(ゴッド・キラー)』を発動する!」
暗闇の中、東京のあらゆるがれきの陰、地下トンネル、巨大なバンカー
丘の反射面から、レールの上の暗渠から、
人類の科学が産んだ「人類の化物兵器」たちの無数の銃口が!
空を覆い尽くす超重爆の群れが!
地平線の海原からは獰猛達が異形の神を殺そうと殺到する。
力には力を。異形の理不尽には、人類の科学を。有史以来、最も激烈で、最も冷酷な、人類と異形の神との『血戦の幕』が、今、切って落とされようとしていた。
予告
見方によっては、二人の血だらけで満身創痍のボクサーが、ただただ意地だけで殴り合っているようだった、足はもはや動かず、座り込んでしまった。
両手の拳は砕けきり、時々弱々しく振り出されるのみ。
胸は呼吸を忘れたかのように動かず。
顔は腫れ上がって原型をとどめず。
あと少し、あと少し一撃が有れば決定打と成るが……
どちらももうそんな力が残っていない……
次回 決戦都市東京 前編
予告
見方によっては、二人の血だらけで満身創痍のボクサーが、ただただ意地だけで殴り合っているようだった、足はもはや動かず、座り込んでしまった。
両手の拳は砕けきり、時々弱々しく振り出されるのみ。
胸は呼吸を忘れたかのように動かず。
顔は腫れ上がって原型をとどめず。
あと少し、あと少し一撃が有れば決定打と成るが……
どちらももうそんな力が残っていない……




