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大正七(1923)年五月
「ジャポネ?何しに来たんだ?馬で出場できる競技じゃないんだぞ」
ひとりがそう言った。
「何処だよ、それ。アフリカか?アメリカか?」
「お前、ジャポネも知らないのか。インドより東の国だよ。じーちゃんが言うには、禿げた頭に結った髪乗せて、サーベル二本も腰に差して、変なスカート履いた連中だったらしいぜ」
「何だよ、それ。変わった連中だな」
「そう言えば、戦争中にイギリスへジャポネの戦艦来てたって聞いたぞ」
フランスのサルト地方では、そんな話題が人々の間に広まっていた。
この年、フランス西部自動車クラブは24時間自動車で走り続けるという、それまでにない新しい耐久レースを開催すると発表していた。
その多くはフランス国内からの応募であり、国外からはベルギー、イギリスなどから僅かな参加があっただけだった。
国際大会と銘打ってはいたが、中身はフランス国内のレースという印象が強く出ている。
ただそこに、異色の一台が居た。
遠く極東の日本からやって来た車である。
開催に当たり、応募者の選考が行われた際にその異色さが皆の目に留まった。
「何だ?ソーキャケン?ジャポネに自動車メーカーがあったのか?」
「ああ、たしかオオクラの作った輸入自動車販売店があったはずだ」
「いや、そりゃメーカーじゃないだろ。これを見ろ、自作の自動車で出るらしいぞ。走れるのか?」
「技術研究所が作った車らしいな。戦艦作れるみたいだから、邪魔にはならん程度には走るんじゃないか?」
「それなら良いがな」
日本から応募したのは、もちろん鞍山だった。
鞍山は、大倉喜七郎や内山駒之助などに声を掛けたが、鼻で笑われていた。
「鞍山君、君が優秀な技術者なのは知っているよ。だがね?自動車の本場、フランスで開催される、それも丸々一日を走り続けるようなグランプリに、日本の車が出場できるとは到底思えない」
大倉には、そう断られていた。
「それは面白そうな大会じゃないか。しかし、走るのは君のところの実験車だろう?」
内山にも、あまりに得体のしれない車に乗れという鞍山の誘いは受け入れがたかく、あえなく拒否されていた。
それもそのはず。
鞍山は、関東での自動車産業振興にはあまり参画しておらず、この頃は西日本の農機メーカーと懇意にしていた事も、彼らの心証を悪くしていた原因だった。
総科研が設計、開発を担った運搬車は、主に農村での利用を考慮して速度は抑えられ、その分構造は簡素で安価に販売されていた。
その車両を都市部向けに一部改良したのが、軽トラであり、やはり、外国製のスポーツカーと呼べる大排気量、大出力の車とは、全く別物だった。
これまで、そんなモノしか作っていない鞍山が、いきなりフランスの、それも新たに開催される24時間レースに自身の開発した車で出場したいと言ってきたのだ。
常識的に考えて、誰もが否定するのは当然の事だった。
だが、鞍山がこれまで手掛けた、或いは参画した事業には航空機用エンジン開発と言うのがあるのだが、それは声を大にして言えるようなものではなかったため、市井には知られていなかった。
何より、この頃の自動車と言うのは21世紀で言うなれば、フェラーリやロールスロイスといったハイパーカーや高級車のような物。ようやく目端の利く豪農や地主が運搬車や耕運機を導入して収穫を増やそうというご時世に、海外で自動車レースに出るなど「ちょっとF1出てくる」レベルの狂気の沙汰と言って良かった。
「やれやれ、人望無いなぁ、鞍山は」
結局、フランスへ向かった面子にこの時代の著名な自動車関係者の姿は無く、開発に協力していた小宮山がドライバーとして参加するという、明らかに身内のお祭りと化していた。
「仕方がないよ。やりたい方向性が違うんだ。出来れば、このカタチで100年続いてほしいんだ。今どきのトレンドなんてどうでもいい」
鞍山は、フランスへと持ち込んだ車を前にそう宣言する。
小宮山から見れば、あまりに欲張りすぎた願望である。
「いや、確かにコブラとかスーパーセブンとかあるけどさ。この手の車、日本で生産し続けられるものなのか」
そこにあったのは、フロントはエンジンにあわせて低く作られ、2000年頃のレーシングカーを彷彿とさせる造形になっている。どう見ても、1923年に走っている車とは別物だった。
「パノスをモチーフにしてるけど?生産自体は大幅な規制変更がない限り、可能だよ」
小宮山は、それを聞いて呆れ返るしかなかった。
「いや、オカシイだろ!レース車両がモチーフって・・・。だから軽量素材とか言ってたのかよ。規制変更ってお前、大倉さんと結託して都合よく弄るつもりなんだろ?」
持ち込んだ車は、レースカテゴリーに合わせて1.1リットルエンジンを積んでいる。
やろうと思えば2〜3リットルエンジンで優勝も狙える技術を持ってはいるが、総科研の研究予算から捻出した金額では、その様な車は無理だった。
そこで、後々市販化する事を念頭に開発されたのが、目の前にある車だった。
市販化を前提に開発すれば、ただ優勝を目的とするより周囲を説得しやすいという、あまりにも私情まみれの話だったのだが。
「空気抵抗を減らせば小排気量、小馬力でも結果は出せるハズ」
鞍山は、胸を張ってそう言う。
「ハズじゃねぇよ、ハズじゃ!FRPを応用して和紙ベースにするんじゃなかった。まさか、こんな事に使われるとはな・・・」
小宮山は頭を抱えた。
「いや、だから良いんだよ。日本らしさが出てるから、ヨーロッパで売れるかも知れない」
その車は、空冷水平対向四気筒OHVエンジンという、時代相応のメカニズムであり、点火、気化器が飛行機エンジンの流れを汲む以外、特筆すべきものはなかった。
シャーシも鋼管フレーム構造であり、前方にエンジンを載せ、後輪を駆動する。至ってシンプルなものだった。
大きな特徴は、空力デザインされた外装ボディにガラス繊維の代わりに和紙を使う樹脂製という、デザインと素材が時代とかけ離れた異端の存在な事だった。
「燃料はこっちで調達するから、詰めたセッティングはしてないよ」
鞍山は、小宮山の思いなどどこ吹く風と、そんな事を言っている。
残念な事に、レースは雨模様となったが、軽量で空力に優れ、サスペンションは前後共に横置きリーフ式ダブルウィッシュボーンという構造になっている事から、リアは流れるが、コントロールはし易いセッティングとなっている。
ミッションは4速マニュアルが採用され、4速はオーバードライブ気味に設定されたル・マン仕様となっていた。外見では分からないが、その配置は当時の一般的な戦車のパワートレーンを前後逆に配したような構造で、エンジンはフロントのボンネットの下に、トランスミッションは座席の後方にデファレンシャルと一体化したものが配されている。いわゆるトランスアクスルという方式が採られていた。
こうした拘りを詰め込んだ車は、他の出場車両に遅れをとることなく安定して周回を重ねる。
「軽いって良いよな。弱オーバーだから乗り易いFRの良さが味わえるよ」
スタート前には頭を抱えていた小宮山だが、走り出せばスッキリ笑顔になっている。
「それは良かった。シートとハーネスはどう?」
鞍山も、上機嫌な小宮山に尋ねる。
「楽でイイや。やっぱバケットと6点ハーネスは疲れないな!」
24時間という長丁場を2人で走り切るこの時代のル・マン24時間レースにおいて、疲れ難い事は何より重要だった。
まさか、この時代に後のバケットシートと6点ハーネスなんて他に使うチームなどなく、不思議がられはしたが、日本人の奇行くらいにしか思われていなかったりする。
24時間を走り切った時、10番手105周を走り切っていた。
「結構楽しく走ったのは確かだが、まさかクラス優勝するとは・・・」
この年のル・マンは単一のレースではなく、複数のレースの一部として開催されたという特殊なルールがあり、規定距離を走ればペースダウンする車なども居た。そのため、時代にそぐわない完走率を叩き出したレースでもあった。そんな、特殊なルールの中ではあったが、クラス優勝はクラス優勝である。
「まあ、こんなもんでしょ。来年はどうなるんだろう?」
驚きを隠せない小宮山に対し、来年も来る予算が貰えるかどうかを不安になっている鞍山の落差は酷かった。
「あ、そうか。関東大震災・・・」
小宮山も、そこでようやく気付くことになる。




